源義経伝説のエピソード!源義経ゆかりの地の武蔵国(関東地区)を鎌倉殿と平家打倒から始まる史跡を訪ねて

寺院,神社巡り

この関東地区の東京23区や多摩地区、神奈川県、埼玉県は古(いにしえ)の頃は武蔵国(むさしのくに)と呼ばれていました。

征夷大将軍源頼朝(みなもとのよりとも)公が恩恵として御家人に与えた所領(しょりょう)が、武蔵国にあったところから明治維新に入り、廃藩置県(はいはんちけん)が行われた10年後まで五幾八道(ごきしちどう)の地分けの呼び方は続きました。

その名残で私の地元の近くにある”武蔵”のつく駅名はたくさんあり、武蔵溝の口や武蔵新城、武蔵中原、武蔵小杉とJR南武線には4つ続く駅名があります。

そのほかにも武蔵小山や武蔵白石や武蔵新田などあって、そのほかにも埼玉県沿線には4つあり、多摩地区には9つの武蔵のつく駅名がありますので、ぜひ調べてみてください。

その源義経(みなもとのよしつね)伝説のゆかりの地である武蔵国(関東地区)のエピソードのある場所を訪ねて行く、そんな内容を送りたいと思います。

ぜひ最後まで私のブログにお立会いください。


源義経伝説のエピソード!源義経ゆかりの地の武蔵国(関東地区)を鎌倉殿と平家打倒に始まった史跡は数多くあり

源義経伝説のエピソード!源義経と郎党の鎌倉での生活

平家打倒に腹違いの兄である源頼朝氏に富士川で、奥州より参陣した源九郎義経氏は、無事に頼朝氏と対面し鎌倉に連動し御家人として頼朝氏の列にはいりました。

兄頼朝氏についた義経氏らに、馬廻りをさせられたり、木曽義仲(きそよしなか)氏の人質として嫡男(ちゃくなん)であり、頼朝氏と政子の間にできた若き姫、大姫の婚約者である木曽義高(きそよしたか)氏の相手役などを任せられていました。

しかし義経氏や弁慶(べんけい)や郎党らは、安穏と暮らしていたのか、武士(もののふ)としての平家打倒の出兵の命がだされず、鎌倉でやきもきしていたのでしょうか。

その後ようやく頼朝公の命で、京を我が物顔で制していた木曽義仲氏の討伐に、兄源範頼(みなもとののりより)氏と京へのぼり入り後白河法皇(ごしらかわほうおう)を救い奉った。

京から戻った義経氏は再び鎌倉での生活が始まり、そこには想い人の静御前(しずかごぜん)が義経氏のそばにいることとなり、それはひとときの義経氏にとっては幸せな時間だったと思われます。

源義経伝説のエピソード!源義経伝説がここより始まる「一の谷の戦い」

次に源範頼氏が先手を務め、義経氏の軍が搦手(からめて)を務めた世にいう、「一の谷の戦い(いちのたにのたたかい)」が火ぶたを切り、義経軍の搦手での”坂落とし”の夜襲により平家を負かします。

しかし「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」を平家より取り戻さなければ、源氏の世にならないとされていましたが、平家逃亡によりそれは叶いませんでした。

そのまま義経氏は京の残り、治安維持に務めていた義経氏は、後白河法皇より”左衛門少尉(さえもんのしょう)・検非違使(けびいし)”の官職を断り切れず受け、今後頼朝公に疎まれていくこととなっていきます。

続く「屋島の戦い」では熊野水軍を味方につけた義経氏率いる源氏軍の勝利でしたが、またしても敗走する平家の手には三種の神器がありました。

瀬戸内海まで追い詰められた平家と壇ノ浦で激突した源氏軍は、前半は平家が優勢に瀬戸の渦潮が味方に付きます。

午後より潮の流れが変わり、渦潮が向きを変え源氏側に有利となり、さらにこの時代禁手だった梶取(漕ぎ手)に弓をいるのは戦の意に反する行為でしたが、義経氏はこの好機に敢えて梶取に矢を放たせ、止まった平家の船に乗り込み攻め込んで、源氏の勝利を確実に決めさせたと伝わります。

しかしここで、平家一門は平時子(たいらのときこ)様が敗北を悟り、安徳天皇(あんとくてんのう)や女子、幼子とみなで入水をし、瀬戸の海に三種の神器もろとも沈んでしまいました。

ここに平家滅亡となり、源氏の世が進むこととなっていきます。

戦が終わり平穏となりますが、後白河法皇に厚く取り立てられた義経氏は従五位下(じゅごいのげ)に任ぜられます。

そのことで二人の間には大きな溝がうまれました。

兄頼朝氏は、義経氏が官位を受けないと履んでいました。

しかし当の義経氏は悩みに悩んで、兄頼朝氏の連絡がいつまでもこなく、止む無く官位を受けることに兄頼朝氏の格式が上がることと考え、後白河法皇より官位を受けました。

しかし兄頼朝氏は、勝手に官位を賜ったという事が逸して、溝は深まるばかりでした。

京をでて、鎌倉に近づいてはならないとの兄からの命に深く没落する義経氏がありました。

この苦悩は、いかんともしがたい気持ちだったと思われます。


源義経伝説のエピソード!源義経ゆかりの地の武蔵国で義経を偲ばせる数々の関東の史跡と伝承

源義経伝説のエピソード!源義経ゆかりの地の武蔵国(関東地区)満福寺にのこる腰越状

鎌倉入りを許されない義経氏は、腰越状は政(まつりごと)に身内、兄弟としての情をもたない頼朝公に、兄弟としての気持ちをこめた義経氏の文がしたためられたところとして鎌倉市腰越にある満福寺に弁慶の下書きの写しが残ってます。

ここで何日も足止めをされますがついに鎌倉の門は開かずに、生き残った囚われての平宗盛(たいらのむねもり)親子を京へ送り届ける任務を課せ戻されることとなってしまいます。

さらに逆心とみなされる行動が、義経氏に見られるとした兄頼朝公に追われることとなり、奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)氏を頼りに京から逃亡の身となります。

そのほかにも”弁慶の腰掛石”や”義経手洗い井戸”、”弁慶の手玉石”が残り、寺内の襖にはその後の義経氏は奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)氏を再度頼って静と別れる場面などが描かれています。

猫が多い神社で、とてもなごみのある江ノ電に近い神社です。

営業時間:9:00~17:00

拝観料:大人200円 中学生100円

☎0467313612

〒248-0033 神奈川県鎌倉市腰越2丁目4−8

羽田神社が見える多摩川沿いは今のように埋立地ではなかったので、多摩川から湾岸にでて安房国(あわのくに:現在の千葉房総)へ木船で行くのが難航し、一時羽田神社にとどまったとも伝えられています。

東京都大田区本羽田3ー9ー12

その後無事に上総国(かずさのくに:千葉県)の銚子に渡り、そこに君臨していた片岡八郎(かたおかはちろう)氏の兄常春氏に迎えられ何日か滞在後奥州行を勧められ、白河の関へ向かうのでした。

義経一行が一時滞在していたこの地には、義経氏を慕った犬がこの海岸で別れた後何日も吠え続けた、その姿が岩になったと伝わる「犬岩」や「犬吠崎」、馬をつないでいた場所が「馬糞池(まぐそいけ)」などの由来が残っています。

源義経伝説のエピソード!源義経ゆかりの地の武蔵国(関東地区)の義経を祀った藤沢市の史跡と白幡神社

その後に奥州へ渡るも、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)氏がほどなく亡くなり、後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)氏は、源頼朝公の繰り返される義経討伐の送り状に耐え兼ねて、平泉の衣川館に義経氏を自刃に追い込み、31歳の若さで亡くなったと伝わります。

その義経氏の身首(みしるし)は美酒につけ鎌倉に送られました。

首実検をされた義経氏の身首は、そのまま由比ガ浜に放置され、その身首が境川を流れていき藤沢市にある首塚は、それを哀れんだ庶民の手で厚く葬られたと伝わる、首洗い井戸の跡が残っています。

〒251-0052 神奈川県藤沢市藤沢2丁目1−10(伝・源義経首洗い井戸)

ここは江戸時代の藤沢宿にも近い場所で、今は観光名所になっています。

衣川に倒れた弟義経氏の怨念に恐れた頼朝公は、義経氏の首が由比ヶ浜から境川を逆流して流れついたこの地に白幡神社を建立し、義経氏と最期まで義経氏に仕え支えた弁慶をここに祀ったといい伝わります。

また逸話として腰越に送られてきた義経氏の首を、弁慶の首が、首実検後の夜のうちここの相州白旗神社が建立された付近まで飛んできたという。

その話しを知らさせれた源頼朝公は驚いて、白旗神社に弟義経を祀るよう示唆したと伝わる伝承もあります。

その後江戸期には力比べの祭りで集まった衆が、娯楽でこの「弁慶の力石」を持ち上げて、力自慢をしたというゆかりの石や、勇ましく馬に乗る義経公を厚く敬う弁慶の像が迎えてくれます。

春の季節には義経藤と弁慶藤の花が実を咲かせ、ささやかですが心和ませてくれています。

この相州白旗神社にご参拝すると、鎌倉時代をかけぬけた源九郎義経氏にであえるやもしれません。

営業時間:9:00~17:00

☎0466229210

〒251-0052 神奈川県藤沢市藤沢2丁目4−7

源義経伝説のエピソード!源義経と鎌倉殿ゆかりの相模国史跡

そのほかにも相模国であった関東の川崎市麻生区古沢には、奥州より兄頼朝氏の挙兵を知って駆けつける際、ここに立ち寄り一夜を過ごしたと伝わる「九郎明神社」があります。

小さな神社ですがここは竹林に囲まれた場所にあり、まるで時空をタイムスリップしたかのようになります。

案内板の説明で義経氏を偲び祀られています。

またそこからほど近くに弁慶や伊勢ノ三郎(いせのさぶろう)、駿河ノ次郎(するがのじろう)たちを従えかけつける途中、ここを通りかかり当時の橋が粗末なものであったといわれます。

弁慶たちが馬で通れるように丸太を渡して橋に造りなおした、という伝承が残る「二枚橋」があります。

九郎明神社:神奈川県川崎市麻生区古沢497

二枚橋:神奈川県川崎市麻生区高石3ー32

都内の見性寺(現・高安寺)には頼朝公の怒りをかい、腰越より鎌倉入りが果たせず、京へ戻る途中に立ち寄ったとされています。

そこには弁慶が水を汲んだ古井戸が残り、「弁慶硯(べんけいすすり)の井」と呼ばれています。

この井戸の水で墨をすり、赦免嘆願(しゃくめいたんがん)のための大般若経を義経氏と弁慶に亀井六郎らで、書き写した伝説があり、国立市の谷保天満宮には、その般若経といわれるものが残っています。

東京都府中市片町2-4-1 高安寺境内

東京都国立市谷保5209(谷保天満宮)

源頼朝公のふたつの落馬の地

藤沢市辻堂には「源頼朝公 落馬地」の標柱があります。

重臣の稲毛重成(いなげしげなり)氏の亡き妻の供養ため相模川にかけた橋(史跡 旧相模川橋脚)の盛大な落成に参列した頼朝公は帰りに、その八的ヶ原(やつまとがはら)という現在の辻堂駅南口の付近で落馬した後、まもなく命を落としたことが歴史に伝わります。

その時頼朝公には、弟義経氏や平家一門,安徳天皇の亡霊、また藤原泰衡氏が現れたのが見えて落馬したといわれています。

今は近代化に伴い周辺は埋め立てられ、民家やビル,駐車場が出来ていますが、鎌倉時代はうっそうと林道になっていて、湘南の海にも近かった場所になります。

〒251-0047 神奈川県藤沢市辻堂2丁目17−1

もう一つに茅ヶ崎サザンビーチを国道134号線こえて、東海道本線の方へ向かいますと、鶴峯八幡宮の一ノ鳥居が見えてきます。

その横の駐車場の奥には、ささやかに弁慶塚の碑がおかれていて、弁慶塚の由来とする内容は、弟源義経氏と行家ら一族の亡霊が現れて、頼朝公は落馬されたという内容がかかれています。

諸説ありますがこの伝説も、まことしやかに伝わる、義経伝説の一つでもあります。

〒253-0086 神奈川県茅ヶ崎市浜之郷841−10


源義経伝説のエピソード!源義経ゆかりの地の武蔵国(関東地区)の鎌倉の恋愛成就や縁結びの鶴岡八幡宮も参拝しよう

さてこの鎌倉の神社巡りの前置きでは、鎌倉は源氏のゆかりの地でもあり、平安時代に八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)がここに石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の祭神を移し奉り、由比若宮(元八幡宮)として鎌倉の礎を父源頼義(みなもとのよりよし)氏と創りました。

そして、同じ平安時期に源頼義氏、義家氏は、陸奥国(むつのくに)の平定の陣営に連なった鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)氏が、ご祭神の鎌倉坂の下の御霊神社などや鎌倉で一番古くから創建されている奈良時代に建てられた杉本寺もあります。

しかし何といっても鎌倉といえば源氏、源氏といえば源頼朝公が始まりなのです。

鎌倉に武士としての都の礎となる、鎌倉幕府を立ち上げた偉~いお方ですから当たり前です。

という強引なまでの展開ですが、鎌倉のパワースポットといえば、一番に出てくるおすすめな神社は鶴岡八幡宮に他ならないですよね。

鎌倉に行けば神社巡りではなくても必ず、この鶴岡八幡宮は外せない場所であり、まずは初詣から始まり、週末や休日,ゴールデンウィーク期間の観光に、若者のデートスポットにも利用されるここは定番ですよね。

ここ鶴岡八幡宮の御利益は、「勝負運,仕事運,出世」といわれていますが、頼朝公の妻北条政(ほうじょうまさこ)様が由縁で、源氏池にある旗上弁才天社には、子宝の石がありこの石に触りますると、「安産,縁結び,良縁」などの御利益があるといわれています。

鶴岡八幡宮の境内に鎮座する建物は本宮以外に、御朱印授与所のある若宮(下宮)や鎌倉国宝館の奥にある鎌倉市指定文化財の白旗神社は、妻北条政子様が建立させたと伝わり、そもそもここには薬師堂があったとされて、明治時代始めに取り壊され、本宮そばの宇佐神宮遥拝所の横にあった白旗神社を今の場所に移築したと伝わります。

その他にも、参道中央のアプローチに舞殿(下拝殿)があり、結婚式や祭殿に時にはコンサートにも使用されている拝殿です。

ちょっと前になりますが2009年に「鎌倉音楽祭」で葉加瀬太郎さんや渡辺美里さんに平原綾香さんの奉納ライブコンサートがありました。

2016年はスガシカオさんや尾崎亜美さんたちがコラボのコンサートが、ここ鶴岡八幡宮の舞殿で行われたこともあります。しきたりの垣根を越えて、地域密着型サービスもおこなっている鎌倉のパワースポットおすすめ神社であります。

さらに古には静御前(しずかごぜん)殿が、ここの舞殿にて、頼朝公や北条政子様に御家人衆の面前で、義経殿を偲んだ「しずやしず」の舞を披露したことが語られている場所です。

また「NHKブラタモリ」の放送では、そんな当時の鶴岡八幡宮付近は湿地帯だったと吾妻鏡を参考に進行していました。

それには、由比ガ浜より直線的な参道で政(まつりごと)を司るために築いていった通りは、三ノ鳥居に二ノ鳥居と続き、そこから先は妻北条政子様がこの頃に懐妊していた事に安産祈願をして、段葛(だんかずら)という産道(参道)を築かせました。

先に記したここ鎌倉は湿地帯であったゆえ、水はけをよくするために水路を造るところから整備が始められていたといわれています。

そのため段葛の周辺は、石垣で周りをくくり高い位置にして中央を歩くよう整備しました。

また二ノ鳥居の先の段葛からは、法度によりて下馬して何人も馬を引いて道を歩くようにさせたのです。

そのことで、みなの襟(えり)を正させていました。

また湿地帯だった古都の名残で、鶴岡八幡宮の周辺には10カ所以上の井戸跡が残されています。

して、実際に鶴岡八幡宮は鎌倉で頼朝公が、京の御所から離れた所から監視されない政をすることの象徴であり、その城は金沢街道に沿って行くところの、横浜国立教育学部付属鎌倉小学校と鎌倉中学校がある付近に位置するといわれています。

近代化の進んでしまった現在となっては、清泉小学校横に残る鎌倉幕府・大倉御所跡の石碑案内で偲ぶしかなくなっています。

現在源頼朝公の墓もある場所の下に白旗神社があり、石段を登ったところに頼朝公ノ墓がありますが、そこには法華堂跡があります。

その先にも法華堂跡として鎌倉幕府の執権として捻出した北条義時(ほうじょうやすとき)ノ墓の史跡が大切に残されていました。

奥には宝治合戦で自刃していった三浦氏一族のやぐらがあり、石段を登った中腹に頼朝公の右腕だった大江広元(おおともひろもと)ノ墓が真ん中にやぐらが残ります。

その左右に毛利季光(もうりすえみつ)ノ墓と島津忠久(しまずただひさ)ノ墓が、大切にひっそりと残されています。

そのような最初の頃の鎌倉幕府の政治が執り行われていた原点を紐解いています。

その源頼朝公が創った鎌倉幕府の政をしていく本堂の周りには、鎌倉殿と13人の御家人である取りまきの邸宅跡が残ります。

畠山重忠(はたやましげただ)邸址や比企能員(ひきよしかず)邸址や北条時房邸跡・小池民部屋敷跡そして、頼朝公の右腕だった北条義時(ほうじょうよしとき)邸宅跡や釈迦堂切通付近は、北条政子様の父北条時政(ほうじょうときまさ)邸跡といわれています。

そんなドラマは終わってしまっていますが、「鎌倉殿の13人」のゆかりも鶴岡八幡宮に観光に行かれた際は、足を運んでみて頂けたらと思います。

鎌倉の怖い歴史のブログを別途投稿していますので、後でこちらも読んでもらえれば参考にしてください。

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源義経ゆかりの地の武蔵国(関東地区)の地を鎌倉殿と平家打倒から始まった史跡 あとがき

鎌倉時代をかけぬけた源平合戦のヒーローが、この私の地元の川崎市にも存在したことを調べていくうちに知って、何とも言えない慮りを覚える気持ちになれました。

羽田神社は古くからあり、今の形になったのは歴史に上塗りされた現在の形にすぎませんが、あの遠き800年前に義経氏がたどった足取りだったんだと思うと、胸詰まる思いをして、今後羽田神社や近くの史跡を通るときには感じ入れることだと思ってます。

これからも自分のこの歴史の感動の思いを綴っていけたらと思います。

源義経と鎌倉殿ゆかりのブログも投稿していますので、こちらもよろしかったら見て下さい

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義経ゆかりの鎌倉を食べ歩き おまけ

義経ゆかりの散策をした後はちょっと一息で寄ってみてください。

@和菓子が好きな人はここが必見でしょう、「古美根菓子舗」は大正12年創業の伝統を守る店です。

バターどら焼きや大福が人気です。

藤沢市藤沢3-6-3ビルサイド白旗1F

@やっぱりここは外せません、「しらすや」さんです。

新鮮なその日とれた地魚を提供する料理は皆さん食べたらうなるでしょう。

しらすづくし定食や生しらす丼をもうほうばってください。

鎌倉市腰越2-10-13

@がっつり食べたいひとはここへ「丼やたつみや」でリーズナブルな価格で満腹できる定食をどうぞ。

大田区西糀谷3-44-5


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