箱根湯元は観光スポットでおなじみの場所で、思い浮かべれば芦ノ湖や箱根神社、箱根関所、大涌谷(おおわくだに)、箱根旧街道、千条の滝、畑宿一里塚、箱根の石仏群などの歴史ある場所が数々ありますよね。
東京からロマンスカーで泊りで行くなら、カップルやご家族あるいは女だけの温泉旅というようなイメージがでてきます。
そう、なんといっても箱根といえば温泉郷です。
色んな番組でよく紹介される箱根湯本温泉郷には、小田原討伐で箱根に来た豊臣秀吉(とよとみひでよし)公が入ったといわれる、太閤の石風呂が箱根底倉(はこねそこくら)が残されています。
毎年恒例の箱根大学駅伝の時には、ここをトップで走者がくる中継の際にも紹介されることが多々あり、戦国ロマンがここにもあった場所になります。
そこに造られた戦国の城石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)とは、、、?
そんなちょっと戦国歴史に影が薄い、北条氏の小田原城を攻める際の奥の手になった城、一夜で小田原の山に建てられたという伝説の石垣山城にスポットあてていきたいと思います。
私はサイクリングにもよく行ってますので、その足どりも含めてまとめてみました。
ぜひ最後までこのブログにお立会いしてください。
石垣山一夜城とは?秀吉公はどうやって小田原征伐を成し天下統一したか?小田原征伐で築城された天下統一の城跡へ戦国ロマンを求めていこう!
箱根湯本の観光穴場の石垣山一夜城に参陣した武将たち
石垣山一夜城へ行く際は、もちろんのこと小田原城址も寄って行くことと思います。
小田原後北条氏に関するブログも投稿していますので、後で読んでみて下さい。
さて、箱根湯本からやや離れた所にある、早川口より石垣山一夜城へ進むのぼり坂があります。
そこは出世道とよばれています。
現在は車も通りやすい舗装された道になっていますが、戦国時代には木々や雑草で埋め尽くされた道なき道を切り開いていったんだと思うと、深い思いがこみあげます。
それは置いといて、まずは早川駅からの出世道に鎮座する海蔵寺が出迎えてくれます。
その先に”石垣山に参陣した武将たち”を紹介する肖像画が、歩いて2kmちかい登り坂をミカン畑や小田原の景色とともに楽しませてくれながら8人の戦国武将らの紹介と道しるべになっています。
*まずは堀秀政(ほりひでまさ)氏の案内板からです。
織田信長(おだのぶなが)公が本能寺で倒れたあと、豊臣秀吉氏の側近となっていてこの小田原討伐に参陣しており、海蔵寺に陣を敷いていました。
この地で急死して一時海蔵寺に一旦葬られた伝わります。
*次の案内は伊達政宗(だてまさむね)氏が迎えてくれます。
豊臣秀吉氏よりの挨拶にくるよう何度もくる書状をはねつけてきた政宗氏でしたが、いよいよ小田原討伐が始まり身の証を迫られ、白装束(しろしょうぞく)を身にまとい秀吉氏らの前に出向いた伝承は有名です。
*3番目には宇喜多秀家(うきたひでいえ)氏です。
備前岡山城主で50万石を治めていました大大名でしたが、太閤秀吉氏が身罷(みまか)ったのちに、関ヶ原合戦で石田三成(いしだみつなり)氏の西軍につき敗戦後、八丈島に流人として配流されそこで亡くなったと伝わります。
*次の4番目は誰もが知る、徳川家康(とくがわいえやす)氏です。
この小田原討伐の終結後、秀吉氏が天下を確実に納めたことにより、家康氏は関東への移封を命じられ、三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国を召し上げられ、替わりに後北条氏の旧領の関東8カ国(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野、常陸)に国替えされ、石高150万石から250万石と形のうえだけ加増とされています。
のちに石田三成氏との天下分け目の関ケ原の戦いで天下を治めて、この関東を中心に約260年続く江戸時代の礎を構築していきます。
しかしそれは小田原討伐の後の出来事ですが。
*5番目の案内板は羽柴(豊臣)秀次(はしばひでつぐ)氏です。
豊臣秀吉氏の甥で秀吉氏から関白を引き継ぎ、聚楽亭(じゅらくてい)で華々しい暮らしをしていましたが、淀殿(よどどの)が秀頼(ひでより)氏を生んだのち疎まれ、謀反の疑いをかけられ高野山に蟄居(ちっきょ)させられそこで切腹しました。
早雲寺は 北条五代の墓、北条早雲(ほうじょうそううん)、氏綱(うじつな)、氏康(うじやす)、氏政(うじまさ)、氏直(うじなお)が祀まれます。
この小田原討伐のとき秀次氏が使用したといわれる梵鐘(ぼんしょう)が、早雲寺に残り一夜城のゆかりが偲ばれます。
*次の方は茶人で武将ではないですが千利休(せんのりきゅう)氏です。
京で茶を広め、織田信長氏の次に太閤秀吉氏の茶人として仕えていたことは、よく知るところです。
わびさびをこよなく愛した茶人であり、小田原には参陣している武将たちに茶をふるまうよう秀吉公の命で来させられました。
小田原平定が済んだのち、朝鮮出兵などの政(まつりごと)に意を唱え秀吉公の逆鱗(げきりん)にふれるも、京の聚楽邸内で最後まで許しをこう事をせず切腹しました。
*次の案内板のこの方ももちろん武将ではありませんが、淀殿です。
浅井長政(あざいながまさ)氏とお市の方のあいだに産まれた長女の茶々様で、太閤秀吉公の言わずと知れた側室でこの小田原討伐中に改任したとも言われています。
太閤秀吉公亡き後、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった徳川家康公と対立のうえ、大阪夏の陣で嫡男秀頼氏とともに自害して世を去りました。
*そしてようやくあと50mで石垣山一夜城の所に、8人目の武将の案内板豊臣秀吉氏の案内板が立ちます。
黒田官兵衛(くろだかんべえ)氏と四国平定中に本能寺の変で、明智光秀(あけちみつひで)氏の謀反に織田信長公が倒れ、2万ともいわれる軍勢で中国大返しをやってのき、山崎の戦いで明智光秀軍を破ります。
その後も対立した柴田勝家(しばたかついえ)氏との”賤ケ岳(しずがたけ)の戦い”で勝家氏も破り、次は西海道平定、奥州平定とすすめ、最後に抗う関東の武将後北条氏の城の小田原討伐がここでおこなわれました。
石垣山一夜城とは?箱根湯本の観光穴場の石垣山一夜城の天守を1日でつくられたという伝承の城跡
箱根湯本に築城された石垣山城一夜城は小田原城ににらみをきかす
西街道、奥州平定を納め、いよいよ残るは戦国の大大名で太閤秀吉氏の命であいさつに出向くよう差し出したにも背き、徹底抗戦を辞さない武蔵国・小田原に拠点を構えた後北条氏の討伐が天正18年(1590年)の2月より始まった。
これは太閤秀吉氏の政の天下統一の総仕上げでした。
その太閤秀吉氏の戦に備えた小田原北条氏の北条氏照氏は滝山城から八王子に支城をすすめ、山城であるにも石垣も取り入れた大城郭の山城の築城をすすめていきます。
なおかつ守りの堅めに、小田原城を9kmに及ぶ惣構えで囲み大堀切の堀を巡らし、容易にし移入できないよう備えました。
そんな総無事令(そうぶじれい)に背く後北条討伐にのりだし進軍してきた秀吉軍は、徐々に小田原城を大軍で陸側と海側を取り囲み、ありのはい出る隙間なくさせた。
小田原城に立て籠もる北条氏の兵糧や物資を持ち込ませることを断たせ、兵糧攻めに持ち込み、小田原に茶人の千利休氏を擁し公家衆や武家を招き、茶室を設け、踊り衆に舞をさせたりと1年でも、2年でも小田原を取り囲み兵糧攻めを決め込む意向だ。
1年分に近い兵糧を蓄えていた、小田原北条軍は3か月してもなおも城に立て籠もり城は落ちませんでした。
そこで豊臣軍は、石垣山一夜城の築城を黒田官兵衛氏等と計画を進めつつ、後北条氏に与する城を一つ一つつぶしていく方法を取りながら小田原城に秀吉軍が集まってきます。
そこには徳川家康氏や前田利家(まえだとしいえ)氏や宇喜多秀家氏や豊臣秀次氏たちを動かし、支城を攻めます。
そこで太閤秀吉公は小田原以外に後北条氏に与する城を、前田利家氏や徳川家康氏らが分散し山中城や韮山城、八王子城などの小田原城の支城を攻め落としていきます。
しかし小田原城に籠城する北条軍は兵糧も充分にて、半年もっており降伏をしません。
ただ小田原では徐々に一族内で意見が分かれていき、このまま籠城して秀吉軍が引くのを待つ派と城の外へ打って出ていく戦う派と意見が分断していきます。
そんな堂々巡りが続き、いたずらに時間は過ぎていくことになります。
また武蔵国側も石田三成氏や大谷吉継(おおたによしつぐ)氏、長束正家(ながつかまさいえ)氏や上杉景勝(うえすぎかげかつ)氏と直江兼続(なおえかねつぐ)氏、真田昌幸(さなだまさゆき)氏らが討伐に向かい大軍で攻め入られ、ほとんどの城が無血開城していく中、映画にもなったのぼうの城、忍城や新田金山城が力攻めを行います。
石垣山一夜城とは?箱根湯本の観光穴場の石垣山一夜城は約80日で完成された城
石垣山一夜城と呼ばれるこの城の伝承は、天守が出来上がるまで籠城する小田原城側に見えないように、周辺は木々に覆われたままにすすめられ、天守が完成すると小田原城方面の大木を一気に切り落とし、それはまるで1日で城が出来上がったかのように見せたという。
その石垣山城の情報は孤立無援となっていた小田原北条軍には、全く入っていなかったため、突然山の上に姿を見せた城を見た北条氏政氏・氏照氏は慄き、軍もみな士気を失ってしまったといわれます。
しかし、一夜城とはおとぎ話が好きな民衆が受け継いだ語りべで、実際には石垣山城築城には、約4万人が動員され山頂の林の木々から材木で組み立て、約80日を要した石垣山城が天下人の城として、一夜で出来上がったという言い伝えで語られています。
そんな一夜にして、山の上に天守閣が造られたなんていうお話は、粋な戦国ロマンというものなんでしょうね。
桜や菖蒲も見頃の時期は、小田原城址公園はなかなかいい観光地です。
そんなこちらのブログも興味あれば後で読んでみて下さい。
石垣山一夜城周辺でランチ
突然ですが、小田原に来たなら寄ってみて!
やはり石垣山一夜城に行った時寄ってみる所にここは外せないでしょう。
石垣山一夜城ランチ 一夜城 yoroizuka farm
鎧塚さんと川島なお美さんのレストラン”一夜城 yoroizuka farm”でランチを。(定休日:火曜日)
一夜城見学前にランチの予約を確認してから城内を見て回ってください。
お店の近くには鎧塚さんの奥さんであった川島なお美さんを偲ぶ石碑があります。
そのちかくにドッグランのグランドもあり、ペットとも楽しめる場所が開放されています。
レストランは11時15分~13時と13時30分の2部制となっていて、素敵なランチコース(4600円)は、きっとこの一夜城に来たことのおもいでの1ページになりますでしょう。
営業時間:10:00~17:00(火、水曜定休)
☎0465243150
〒250-0052 神奈川県小田原市早川1352 110
石垣山一夜城ランチ ながや
JR早川駅にある日本料理でおそばかあるいは日本酒と一緒に相州牛ステーキなどがいただける”ながや”へ
懐石料理などおまかせコースやランチもありますが、お値は少々張るしっかりとしたメニューです。
季節の旬のお料理を召しがってください。
営業時間:12:00~22:00(日、月曜定休)
☎0465228765
神奈川県小田原市早川212-5
石垣山一夜城ランチ 魚虎
刺身定食やうな丼、生本まぐろ・まかない丼、ネギトロ丼などなどがメニューにあります。
350円プラスでカニ汁が召し上がれますが、こもカニ汁が思っているよりカニが入っていてびっくりの口コミ多し。
車で来た人は箱根ターンパイクにのる前にお昼をここでするべし。
営業時間:11:30~14:00 17:30~21:00(日曜定休)
☎0465225224
神奈川県小田原市早川3ー15ー7
石垣山一夜城ランチ 網元 あおば
わかさぎを始め、芦ノ湖で獲れた魚やうどん、そば、定食も用意されてる「網元 あおば」でわかさぎの天ぷらをいただいましょう。
ランチとしてはちょっと高めですが、わかさぎ御膳2160円(税込)ややまゆりセット1850円(税込)に箱根バラセット、箱根桜セット、うつぎセット1850円(税込)と高級なランチがいただけます。
営業時間:11:00~14:00
☎0460848984
足柄下郡箱根町元箱根162-18
石垣山一夜城ランチ イタリアン料理店 トンチーノ
箱根でイタリアンしてみるのは「イタリアン料理店 トンチーノ」で人気のスモークサーモンとアンチケッパーのトマトクリームパスタをいただきましょう。
10席の限定人数で、アラビアータ(ベーコンの辛口トマトソース)やエビとほうれん草のペペロンチーノに厚切りベーコンのカルボラーナなどなど1000円~1500円内に抑えられたメニューにまとまっています。
営業時間:11:30~夕暮れまで
☎0460836780
足柄下郡箱根町元箱根55
石垣山一夜城ランチ カフェ・ド・モトナミ
箱根の1号線を登山鉄道を使わずに、歩いて少し疲れた時には甘いもので疲れをいやしましょう。
「カフェ・ド・モトナミ」は和のスイーツやパフェなど、女子にはたまらないメニューが揃ってます。
あずきのスイーツセットでコーヒーとセットにすると100円引きのサービスあり。
地名で名付けた”宮ノ下小町”や”箱根山ぜんざい”が魅力を感じちゃいま~す。
営業時間:10:00~18:00(木曜定休)
☎0460870222
足柄下郡箱根町宮ノ下366
石垣山一夜城とは笠懸山に造られた山城
石垣山一夜城の城郭
石垣山城は笠懸山(かさがけやま)に築城された城で、箱根湯本も近く早川が流れる山に林道を開き、石垣を運ばせて城の周りを石垣で囲んだ山城です。
東西270m、南北550mに丘陵のうえに造られていました。
現在遺構は石垣はもちろん天守台跡や本丸跡に二の丸跡、西曲輪、南曲輪、馬屋曲輪、櫓台跡、井戸曲輪、城門跡の石垣の入口が残ります。
残念ながらほとんどの石垣は関東大震災などで崩落してしまい、かたちは崩れてしまっているところが多いですが、残っている石垣の迫力は現地で見ると圧倒されてしまいます。
またここに戦国の数々の名高い太閤秀吉公を筆頭に、淀の方や徳川家康氏や千利休氏,伊達政宗氏に黒田官兵衛氏などたくさんの武将が集結した場所なのであります。
そう考えるとこの高みの景色を、戦国武将たちも見たのか、ここを歩いたのかと思うと、歴史好きの私には胸熱くなるところがあります。
石垣山城内は展望台もあり、小田原市の景観と箱根山岳側が良く見えて天気の良い日はさらに景色が良く爽快です。
駐車料金も広く、車でペットと来る観光客の方も多く、一夜城ヨロイヅカファームもありますので息抜きにもいいですよ。
24時間営業
☎0465231373
〒250-0021 神奈川県小田原市早川1383−12
箱根湯本温泉郷から芦ノ湖、小田原に歴史散策のサイクリングに行く
小田原城址公園目指してレッツゴー
とある9月の晴れの日に突如、朝6時に休日目が覚めて、小田原城址公園に毎年一回はサイクリングしに行くのですが、この年はまだ行ってない事に気づき、まだ暖かい時期に行こうと即席で動き出しました。
国道246号線を進み、市ヶ尾から坂を登りさらに藤が丘、青葉台の先長津田まで登りが続き、つくし野の登りが終わるといつもの246号と八王子バイパス16号が、交差するあたりにある馬頭観音が迎えてくれます。
次は上今泉の武蔵国分寺跡付近を抜け、相模川を越えます。
このあたりから246号からは離れ、129号線に乗り、平塚の1号線をめざします。
平塚市には武田信玄(たけだしんげん)氏が相模侵攻をした際、それを北条軍が迎撃した古戦場跡が残ってます。
また番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)で有名なお菊さんが、手討にされた後の御遺骸(ごいがい)が地元平塚に戻り、ここにセンダンの木が植えられ墓標となった”お菊塚”の伝説があります。
次は大磯を過ぎていきますがこの付近もたくさん史跡がありますがやはり”旧吉田茂(よしだしげる)邸”が大磯城山公園の前にあり、「東映 小説吉田学校」の森繫久彌(もりしげひさや)さんがいい演技の”馬鹿野郎!”が思いだされます。
次は二宮で吾妻山のそばには、室町時代の「曽我兄弟」で有名になった曽我兄弟の墓があります。
否応(いやおう)なしに国府津を通り越して間もなく酒匂川の手前に”明治天皇御臨幸所阯”がある1号線沿いに立派な門構えがあり、江戸後期の門の「旧川辺本陣跡」で、今は養護施設のゆりかご園の門になっています。
さあ酒匂川を越えればすぐ小田原ですよ。
1号線からやや離れますが、酒匂川を登ると二宮尊徳(にのみやそんとく:二宮金次郎)氏の生家が復元されています。
また小田原征伐でこの酒匂川付近に徳川家康軍が陣を置いたところに石碑が残ります。
そして小田原駅の西口には後北条の祖、北条早雲(ほうじょうそううん)像が迎えてくれ、小田原城総構えの跡や小峰御鐘ノ台中堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)や城山公園があり、小田原駅があります。
その反対側にはなんといっても復元された「小田原城址」があり、石垣や大堀切、復元された門や残る遺構はさらに新しい感覚に魅了される場所です。
小田原城を過ぎると箱根湯本温泉郷が待っている
まずは小田原城址に来ることが目的でしたが、まだ昼過ぎの1時ちょっとなのでその先に足を運ぶ欲が出てきました。
小田急線の箱根登山鉄道の箱根湯本は温泉街で、早川沿いの湯本富士ホテルを始め近江屋旅館や養生館はるのひかりなどなどたくさんのホテルや旅館が立ち並ぶ通りで、目を楽しませてくれます。
行き交う通行客の人も普段着ではなく、温泉街ならではの浴衣で歩く人が多くみられます。
湯本大橋を越えたら折れ曲がった東海道の道が林道になると、後北条氏ゆかりの北条氏綱(ほうじょううじつな)氏が創建した”早雲寺”は北条五代の墓があり、本堂、惣門(そうもん)、鐘楼(しょうろう)が町指定文化財になっており拝見できます。
アスファルトで舗装された東海道に忽然と箱根旧街道が現れ、石畳の道があります。
そこは”猿沢の石畳道”で江戸時代の東海道53次の石積で道を整備した道です。
葛原坂を過ぎ、坂を登り続けると続けると”女転しの坂”があり、その先には箱根箱根旧街道の史跡の”割石坂”はほんとかな?
曽我兄弟の曽我五郎(そがごろう)氏が仇討ちに向かう途中ここで刀の切れ味を試そうと、路傍(ろぼう)の巨岩を真っ二つに切り落としたという伝承のある道です。
さらに坂を登り続けると旧東海道”大沢坂”があり、中間地点みたいな場所の畑宿の茶屋と畑宿一里塚が迎えてくれ、坂を登り続けてきた自分に勇気をくれさらにロードバイクをこぎます。
そのまま旧東海道を自転車をかついで石畳(いしだたみ)を進むと、”西海子坂(さいかちざか)”です。
そして東海道のつづら折りの坂、七曲りを登っていくと”橿木坂(かしのきざか)があり、江戸時代の旅人泣かせの厳しい坂でしたようで”橿の木のさかをこゆればくるしくてどんぐりほどの涙こぼるる”と読まれた道です。
そして一旦平地になったかと思うと直ぐ急な坂道になり、横には石の階段と石畳の“猿滑坂(さるすべりざか)”があり、そのさきに”追込坂”があり、頑張ってハアハアがヒイヒイになりながらこいでいくとのどかなふいんきの”箱根 甘酒茶屋の藁葺屋根(かわらぶきやね)の建物が見えればあと少しで芦ノ湖です。
お玉が池の先にはゴールの芦ノ湖
苦しい登りが続きましたが、この右側に湖が広がっています。
そう”お玉ヶ池”です。
何か清々しいのと、寂しい気持ちふと感じる池であります。
10代で奉公にだされるも親恋しさに親もとに戻ろうとした子供のお玉が、関所破りをして裏道を抜けようとして捕まってしまいま。
周りの人には逃げたことを黙って道に迷ったように話せと言われたのに、本当の事をお玉は話して、打ち首にされてしまう悲しい伝承です。
そこは元は那津奈可池(なずなかいけ)と呼ばれていました。
2ヶ月くらいの詮議(せんぎ)のうえで、お玉は厳しい関所破りの刑で一番軽い斬首になりました。
罪人は墓に葬られることは許されていなかったのですが、この池でお玉を哀れむ人が、お玉の首を洗った池がいつしかお玉ヶ池と呼ばれるようになった場所です。
遺体は親元に戻されたと伝わる哀しい出来事です。
さて箱根の森美術館を過ぎて、頑張ってさらに静岡をめざし”山中城をめざし~と行きたいところでした。
が、さすがに午後2時にもなる時間になってしまったので、今回は箱根神社を参拝して厳かな気持ちにして、海賊船と芦ノ湖に別れをつげて帰りは1号線を走り西進湖の横を通り抜けていきました。
もう足はぱんぱんです。
温泉郷までしばし歴史ある道が続き、“多田満仲(ただのみつなか)之墓”や”元箱根崖仏”、“曽我兄弟の墓”が残る付近を抜けていきます。
箱根ドールハウス美術館を道は下りになり、ぱんぱんだった足を休め、ブレーキでスピードをセーブしながら坂道を下っていきます。
小涌谷(こわくだに)を過ぎ、時間があれば足を止め、”千条(せんじょう)の滝”も見たいなあ、と思いつつ、さらに下っていく。
箱根小涌園ユネッサンスの看板が見え、温泉街になってくると、夕方でも人の往来が多く少々にぎやかなふいんきが出てきて、少し孤独からぬけでてきてほっとしてきます。
箱根登山鉄道の小涌谷駅が見え、そこからは一気に宮下駅、大平台駅も越え、早川を入り組みながら箱根湯本にもどってきました。
帰宅時間は夜の8時過ぎでした、チャンちゃんっと。
石垣山一夜城とは?秀吉公はどうやって小田原征伐を成し天下統一したか? あとがき
この小田原・箱根にも戦国ロマンがあったことを知って、40歳過ぎてからサイクリングで毎年1回は来るようになった山城ですが、この地にたくさんの武将たちが集まり、小田原城とのにらみ合いをしたんだと思うと何ともこみ上げる気持ちが起こりました。
少し離れた真鶴側には、源頼朝(みなもとのよりとも)公ゆかりの石橋山古戦場もあり、時間があれば佐奈田霊社(さなだれいしゃ)と一緒に足を運んでもらいたいです。
温泉にも浸かりにぜひ小田原・箱根湯本を満喫してください。
このブログに最後までお立会い頂きありがとうございました。
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