この織田信長(おだのぶなが)氏と言えば、若いころは尾張のうつけ者と呼ばれたり、中年期には天下の大魔王といわれ(自ら名乗った説もあり)、天下統一まであと一歩というところであえなく、重臣の明智光秀(あけちみつひで)氏の謀反(むほん)によって本能寺で自害に追い込まれてしまった人物として有名な歴史人ですね。
それが世にいう”本能寺の変(ほんのうじのへん)”は誰もが知る歴史的出来ですよね。
誰もが知るさまざまなNHK大河ドラマやテレビ番組の題材として、織田信長という人物は抜擢され、戦国時代には欠かせない”ダークヒーロー?”でしょう。
2022,11月に放映されている映画「レジェンド&バタフライ」には、キャストとしてこれも芸能界のレジェンドの木村拓哉さんが織田信長役で、濃姫には綾瀬はるかさんという並びになっています。
さらに岐阜城下の金華橋道りで、木村拓哉さん演じる織田信長氏と伊藤英明さん演じる濃姫の侍従の福富平太郎貞家(ふくとみへいたろうさだいえ)氏でのパレードが行われ、応募数1万5千の観覧参加者に対して、96万人に及ぶ応募があるほどの盛況ぶりだったとか。
その織田信長氏が、最初の標的とした岐阜城金華山の見どころや、斎藤道三(さいとうどうさん)氏とからんだ歴史も巡っていきたいと思います。
ぜひ最後まで私のこのブログにお立会いして下さい。
岐阜城の見どころとその歴史は?織田信長が築いた岐阜城の城郭
岐阜城金華山の見どころとその歴史は?望楼型4重5階の天守が築かれた城
現在は模擬天守で廃城とされていた城跡を整備し、独立式望楼型3重4階 RC造復興・再建された天守が、金華山の山頂にそびえ立ちかなりの山城ともなり、ロープウエイで天守手前までアクセスが出来るようにもなっています。
現在そびえ立つ岐阜城天守閣は、幾分往時の外観はおしゃれに造り変えられてしまってるようで、忠実な再建ではない建造になっています。
さあ!その天守閣を目指していきましょう!
そこは戦国時代の山城なので、歩いて大手道の七曲り登山道をいくと約1時間くらいかかる距離があるので、心して登るように。
ロープウエイを降り、本丸の天守に登る登城途中に別れ道があります。(斎藤道三・織田信長ゆかりの岐阜城の看板を右へ進んだ場所)
土塀側の天守下側の道を進むと、本丸井戸の遺構の跡が残っています。
その井戸の周りに石垣の遺構が残されています。
ここは今後発掘調査により真義が明らかになると思われますが、信長の時代の石垣だといわれていますが、今後が本当に楽しみです。
国の指定史跡になっており石垣や曲輪、土塁、堀切、井戸が残りそして天守と冠木門が再建されています。
山城の頂上に敷かれた天守の大きな石垣は、威厳に満ちたいかにも織田信長氏がかかげた天下布武の城が、戦国時代には建っていたのだと想像がふくらみます。
そして岐阜公園として整備もされ、公園入口の立派な門の前には、「若き日の織田信長像」がたち天守が入るように写真が撮れる、絶好の撮影スポットとなっています。
ぜひ岐阜城に足を運んだ際はお立ち寄りしてみてください。
その他に織田信長公ゆかりの城めぐりブログを投稿していますので、良かったら後で読んでみて下さい。
岐阜城の見どころとその歴史は?信長居館跡の発掘調査が進行
現在の岐阜城の冠木門が建てられている階段の先に、信長氏や正室の濃姫の帰蝶様や側室などの付き人が住んだ居館跡の発掘調査が進んでいます。
石垣や滝や池の跡など、徐々に装いが表れてきています。
金箔の牡丹や菊の紋章が描かれた瓦の一部も出土しています。
庭園が置かれたとされる場所には巨岩が残り、そこに滝が流れ落ちるように造られていたと考えられています。
朱塗りの橋の横には当時の滝が残り面影を残しています。
当時のことをルイスフロイスは、「四階御殿」と表現した銀閣寺の東山殿のような絢爛な建物が建てられていたと考えられていて、ここもこれから発掘調査が行われ、復元に向けて柴崎市長は意欲的に活動を支援する意向です。
さらに令和4年にも発掘調査がすすめられ、岐阜城天守の崖のようになっている辺りには、池田恒興(いけだつねおき)時代の石垣も見られており、斎藤道三期に織田信長期、そして池田恒興期の石垣が見れるようになってきています。
今後も岐阜城の城郭再建に期待大で楽しみですね。
岐阜城金華山の見どころとその歴史は?斎藤道三が織田信長に託した地の稲葉山城
岐阜城金華山の見どころとその歴史は?戦国時代の下剋上は油売り職人が武士にのし上がる時代
時は戦国時代、室町幕府は応仁の乱(おうにんのらん)に始まり、下剋上の乱世が続く中、足利公の政治的力は衰退をし続ける中に、油売り職人で生計を立てていた一人の名もなき商人がいた。
新九郎(しんくろう)と名乗る一人の男は、ある武将に商いをしてるには惜しい人物と施され、きっぱりと油売り商人を辞めます。
その後武士をめざして、その頃美濃(みの)を納めていた美濃守護士の土岐氏小守護代(ときしこしゅごだい)の長井長弘(ながいながひろ)氏の家臣に取り立てられます。
そこで頭角を現した新九郎は、土岐氏守護の次男の土岐頼芸(ときよりのり)氏につき骨肉の争いの土岐頼純(ときよりずみ)氏との戦に頼芸氏を盛り立てます。
その後戦は朝倉氏や六角氏が加担し、美濃全体が戦場化となってしまいます。
美濃守護代の斎藤利良(さいとうとしなが)氏が病死してしまうと、守護代をかすめ取り斎藤新九郎利政(さいとうしんくろうとしまさ)と新九郎は名乗るようになり、鎌倉時代からある稲葉山城を本格的に改修し居城としました。
その人は美濃の蝮(みののまむし)と恐れらるようになる斎藤道三(さいとうどうさん)氏その人でありました。
岐阜城金華山の見どころとその歴史は?斎藤道三が稲葉山城の基盤をつくった
その後は主君であった土岐頼芸氏と対立することとなり、織田信秀(おだのぶひで)氏の後援を得た頼芸氏は、朝倉氏とも縁を結び美濃へ侵攻します。
そして、織田信秀氏(織田信長の父)は大規模な稲葉山城を攻め入ります。
しかし斎藤利政氏(斎藤道三)は稲葉山城に籠城(ろうじょう)しつつも、織田信秀氏を窮地(きゅうち)まで追い込む戦をしたといわれています。
この難攻不落の城に舌を巻いた信秀氏は斎藤氏と和睦(わぼく)し、嫡男信長氏に利政氏の娘の帰蝶(きちょう)を嫁にさしだすことで、織田家との結びを深いものとしました。
岐阜城金華山の見どころとその歴史は?尾張のうつけ織田信長と美濃の蝮斎藤道三
帰蝶の婚儀が済んだのち、利政氏は尾張のうつけと正徳寺で会見をします。
このことはエピソードとして、織田信長氏と斎藤道三氏の色んなドラマで演じられ語られている歴史です。
以前、木村拓哉さん出演の1998年にTBS放送時代劇ドラマ「織田信長」や、NHK大河ドラマはもちろんのことで、ルイス・フロイスから見た信長氏を描いた「信長 KING OF ZIPANGU」が知られます。
新しい放送では、明智光秀氏から見た信長氏を描いた「麒麟(きりん)がくる」などや、「軍師官兵衛」などなど戦国ドラマにはほとんどが、信長氏や秀吉氏,家康氏の三人は欠かせない御三家です。
しかしその中のダントツで信長氏は誰かしらに演じられ、その歴史のことがドラマ化されてきました。
話しをもどします。
斎藤利政氏は会見前に寺の隅でこっそりと、信長氏といううつけはどんな者かを見てやろうと、街道沿いの古寺で待ち構えます。
すると大勢の鉄砲隊と護衛に囲まれながら、あっけらかんと入場してくる信長氏を見て度肝を抜かれます。
さらに会見には、髪を整髪して現れた信長氏に感銘し、会見もなごやかにすすみ、会見後家臣らに「我が子たちは、あのうつけの門前に馬をつなぐようになる」と話したと伝わります。
その後徐々に家臣に疎まれるようになった利政氏は、半ば強制的に家臣に隠居に追い込まれ、やむなく嫡男の斎藤義龍(さいとうよしたつ)氏に家督と稲葉山城を譲り、鷺山城へ隠居し髪をそり、名を”道三”としました。
道三氏は隠居後、次男の孫四郎や喜平次を寵愛していったとあり、義龍氏との間に溝がうまれていきます。
仕儀はいかがだったかは定かではなく思われますが、しかし嫡男の義龍氏を廃嫡(はいちゃく)する企て(くわだて)する動きが父道三氏にあり、それに激怒し恐れを抱いた義龍氏は、弟たちを殺害してしまい戦に発展していったように歴史には記されています。
この戦にほとんど道三氏に味方する家臣団はおらず、多勢に無勢の争いにて約2500の道三氏は義龍氏の約17000の兵に押され、長良川に散ったという。(長良川の戦い:ながらがわのたたかい)
これには信長氏は道三氏の応援に向かうも間に合わなく、殿(しんがり)を務め、鉄砲で追っ手をつけはなし、逃げ切った伝わります。
織田信長氏は義龍打倒を横目にしつつ、まずは尾張平定に力をそそぎます。
この頃、京に上り天下に号令の動きに出た、今川義元(いまがわよしもと)氏が織田氏領地の尾張を途中割烹します。
その今川勢の大軍約40000に対し、織田信長氏は籠城(ろうじょう)を選ばず、わずか約3000の兵で向かい、義元氏の滞在する雨が降りしきる桶狭間に奇襲をかけたといわれます。
義元軍の横を突き兵を崩し、見事に義元氏の首を取った信長伝説の「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」がこれでした。
これにより後顧の憂い(こうこのうれい)がなくなり、兵糧(ひょうろう)を蓄え戦に備えます。
そして、これから本当の信長氏の戦になる前に、義龍氏は30半ばで病死してしまい、信長氏は道三氏の仇を討つことはあえなく夢に終わってしまうのでした。
岐阜城の見どころとその歴史は?織田信長は岐阜城で天下布武を掲げた城で斎藤道三が討たれる
岐阜城金華山の見どころとその歴史は?稲葉山城にクーデターの激震
斎藤義龍氏の死去後は、稲葉山城の城主は嫡男の斎藤龍興(さいとうたつおき)氏が務めていました。
しかし政(まつりごと)や図りごとには劣っていた龍興氏は、戦で多くの重臣を失い、家臣も信長氏に引き抜かれ、人望が乏しかったようです。
すっかりやる気をなくした龍興氏は、遊びめと毎日酒におぼれる日々を送っていました。
それを見ていた龍興氏の軍師の竹中半兵衛(たけなかはんべえ)氏による謀反により、飛騨守(ひだのかみ)らを討ち取り、十数人で城を乗っ取り、龍興氏を城から追放する演出をしました。
ただそれは龍興氏に対し、竹中半兵衛氏はお灸をすえる事程度の考えで、数か月後には龍興氏に稲葉山城は返上したのでした。
その後織田信長氏は浅井長政(あざいながまさ)氏に妹お市殿を嫁がせ縁組みを交わし、龍興氏の勢力拡大を阻止し、息の根をつぶしにかかります。
織田軍の稲葉山城攻めの遂行が進む中、龍興氏に見切りをつけ、半兵衛氏は隠居しますが、木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし:のちの豊臣秀吉)氏の調略に乗って織田氏に入ります。
しかし半兵衛氏は織田信長氏の直下ではなく、木下藤吉郎秀吉氏の配下につくことを望み、その後は秀吉氏の軍師となります。
その後にもう一人の軍師となる黒田官兵衛(くろだかんべえ)氏と共に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)氏を短い生涯の中で支えた人物でした。
岐阜城の見どころとその歴史は?美濃を岐阜と改め稲葉山城は岐阜城となる
長きの稲葉山城の戦もようやく半兵衛氏の調略にもより、攻め挙ぐねていた稲葉山城の裏山ルートを開かされ、搦手(からめて)側より攻略して稲葉山城は落ち、龍興氏は数人の護衛と逃亡していきました。
早速、織田信長氏は稲葉山城を改築させ、高石垣の意表のある天守を設け、城下から寺も小牧山城からここへ移し居城させていったといわれています。
そして部下衆に閲覧し、この地より天下に号令を示唆する旗揚げに「天下布武(てんかふぶ)」をかかげ、この地を「岐阜(ぎふ)」と改め、稲葉山城を「岐阜城(ぎふじょう)」としました。
ここから織田信長氏は電光石火のような勢いで、明智光秀氏を側近に取り立て足利義昭(あしかがよしあき)氏を将軍と奉り京にのぼり、義昭氏を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に押し上げ、自分も天下に近づく位置に上っていきました。
こうして天下布武を掲げる織田信長氏が京に入り、これから確実なものになっていくのか。
しかしこの後さらに岐阜城は支城となり、大規模な安土城への築城を行い始めます。
その後天下統一にあと一歩となるのですが、そのお話は岐阜城のことから離れていってしまうので今回はここまでとします。
岐阜城の見どころとその歴史は?織田信長公菩提寺 崇福寺
また長良川の向こう側の岐阜城麓には、織田信長公が菩提寺として決めていた崇福寺(そうふくじ)があります。
ここ崇福寺の創建は鎌倉時代からといわれて、荒廃していた寺を戦国期に斉藤利匡(さいとうとしくに)氏が今の場所へ寺を移転し、改称したと伝わります。
あの本能寺の変で、信長公と信忠氏が討たれるた後、信長公の側室のお鍋の方様により、二人の遺品が持ち込まれ、境内に織田信長・信忠廟所が立てられています。
山門からの長い境内は見ごたえもあり、本堂前庭の石庭も清々しい風情があります。
また、関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)で、石田三成軍の西側に就いた三法師(さんぽうし)こと織田秀信(おだひでのぶ)軍が、関ヶ原より敗退し岐阜城へ籠城します。
そこに徳川家康軍の東側の福島正則(ふくしままさのり)軍と池田輝政(いけだてるまさ)軍に攻め入られ、あえなく秀信氏の家臣団38名が切腹をして果てます。
その岐阜城の血に染まった床を崇福寺が供養のため譲受け、いまも本堂の天井に張られてあります(本堂血天井)
そんな戦国ロマンも感じられる崇福寺も、ぜひ岐阜城に行く際は寄ってみたい観光場所に入れて下さい。
営業時間:9:00~17:00
☎0582312613
〒502-0817 岐阜県岐阜市長良福光2403−1
岐阜城へアクセス
〇公共交通機関(電車)
JR名古屋駅~JR岐阜駅(東海道本線 特別快速米原行):約20分
●(バス)
岐阜駅~岐阜公園歴史博物館前(12停留所越え):約20分
*そこより徒歩で登城する方法とロープウェイのご利用で天守へ向かえます。
〇マイカー
・明道町料金所より名古屋高速6号清州線へ~清州東Ⅰ.C(名古屋高速16号一宮線)~一宮料金所~名神高速道西宮線~一宮JCT~東海北陸自動車道~木曽川~岐阜各務原料金所~国道21号線(那加バイパス)~岐南Ⅰ.C右折~156号線(岐阜東バイパス)~岩戸トンネル~248号線・77号線へ~大木環境木街道~287号線(上白金真砂線)そのまま直進すれば金華山へ
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
岐阜城駐車場
〇市営岐阜公園鏡岩緑地駐車場(無料駐車場):収納台数普通車279台
・営業時間:24時間
岐阜県岐阜市鏡岩403
*それ以外は有料駐車場になってきますので、できれば行楽時期は渋滞も予想されますので、お早目の到着あるいは、公共交通機関での観光をお勧めします。
織田信長は岐阜城で天下布武を掲げた あとがき
織田信長公が天下布武をあげ、天下に名乗りを上げた城として名高いお城を今回取り上げましたが、季節に応じてこの岐阜城もいろいろな表情を見せてくれるお城で、またぜひとも行ってみたいと思います。
発掘調査もどんどん進行していくようですし、本当にこれからが楽しみな観光地です。
ぜひみなさんも足を運んでみてください。
今回もこのブログにお立ち寄りしていただきありがとうございました。
岐阜城で食べ歩き おまけ
岐阜城に行ったら立ち寄ってみてなお店の紹介です。
岐阜城周辺で食べ歩き 金華山展望レストラン ル・ポン・ドゥ・シェル
岐阜城天守に一番近いレストラン「金華山展望レストラン ル・ポン・ドゥ・シェル」岐阜を一望しながらの食事は天下布武!?
眺めもいいレストランで、おすすめは飛騨牛焼肉丼(2200円)ですが、信長どて丼(1200円)が私的におすすめ!
営業時間:9:00~21:30
☎0582626784
〒500-0000 岐阜県岐阜市槻谷18−3 金華山山頂
岐阜城周辺で食べ歩き 食堂 こより
古民家を改装した長良川温泉のお食事処の「食堂 こより」は小さなたたずまいのお店ですが、満足のいく美味しい料理がいただけます。
木のぬくもりあるなかで、日本酒を飲みながら旬替わり定食(1600円)を頂くのは、最高です。
営業時間:17:00~21:30(火曜定休)
☎0582149230
岐阜市玉井町36-1
岐阜城周辺で食べ歩き 金華山展望レストラン
美味しい焼きたてのふっくらたこ焼きがいただける「たこ焼き たこちゅう本店」はテレビでも紹介され大人気でテイクアウトも可ですが待ち時間が40分位かかるほどの盛況ぶり。
営業時間:9:00~21:30
☎0582626784
岐阜市早田東町9-54 たこちゅうビル1F 岐阜城内
岐阜城周辺で食べ歩き 更科
更科は高速そばの冷やしたぬきそばがあり、ほとんど一杯15秒くらいでテーブルに出てきます。
たまり醤油をからめた汁と揚げを絡めて食べる
愛知テレビの岐阜あたりまえトラベルから放送される、出演大久保佳代子さんと村井美樹さんに須田亜香里さん三人による演出で紹介されたそば屋さんです。
うまくて早いと3人とも絶賛でした~。
営業時間:10:30~17:45(木曜定休)
☎0582659594
〒500-8804 岐阜県岐阜市京町3丁目4
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