安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えた?現在令和の発掘調査がすすむ幻の安土城天守閣の復元は

戦国歴史のドラマでは必ず出てくる戦国武将で、誰もが知る有名な三英傑(さんえいけつ)と呼ばれている、織田信長(おだのぶなが)氏に豊臣秀吉(とよとみひでよし)氏と徳川家康(とくがわいえやす)氏であります。

その中でも特に基盤となる人物が、戦国時代というキーワードに欠かせないダークヒーローが織田信長氏であります。

NHK大河ドラマでも織田信長公は、必ずといっていいほど大半を占めて、話の筋書きに入ってきてますね。

しかしその織田信長公が築城した今や幻の城と呼ばれる、絢爛豪華な安土城の天守閣は、なぜかたった6年だけで焼失してなくなったといわれています。

どうしてなのでしょうか?

また、その安土城の天守閣や本丸などはどこにあったのか?なぜなくなったのか?なぜ燃えてしまったのか?など謎を解明しようと、現在も考古学者や大学教授が遺構発掘調査の探求が行われています。

そうした努力が、謎に包まれて無くなってしまったミステリーとロマンの、幻の安土城天守閣への復元のプロジェクトにつながっていくことを、今後の展開に期待を込めてこのブログを作成していきます。

城好きの方ならもちろんですが、お城の観光でも安土城は人気のスポットですから、この題材に注目する一人として私のブログに最後までお立ち寄りしてほしいと思っています。

  1. 安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えた?現在も幻の安土城天守閣は謎だらけ
    1. 安土城天守閣はなぜ6年でなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えた?現在、安土山にそびえた新しい造りの大城郭の天守
    2. 安土城はなぜなくなったのか?なぜ燃えてしまったのか?戦国の歴史においてのターニングポイントのその過程
    3. 安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えたのか?当時金箔が施された新しき天守閣があった全貌は
    4. 安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えたのか?当時築城された安土城の事をルイス・フロイス宣教師はこう記述
  2. 安土城の天守閣はなぜなくなった?現在令和の復元プロジェクトに期待をこめておこなわれる発掘調査の今は
    1. 安土城の令和の復元プロジェクトに期待!滋賀県では3回の発掘調査を実施
    2. 滋賀県の安土城発掘調査の成果
  3. 滋賀県立安土城考古学博物館で安土城の天守閣はなぜなくなったのかに迫る!
  4. 安土城天主 信長の館
  5. 安土城はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えたのか? 安土城の簡単歴史とあらまし
  6. 安土城はどこに?安土城へアクセス・駐車場
    1. 安土城の駐車場
  7. 安土城跡でグルメの食べ歩き おまけ
    1. 安土城跡でグルメ 西の湖すてーしょん
    2. 安土城跡でグルメ 味葦庵
    3. 安土城跡でグルメ 囲炉裏料理 わ
  8. 安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えた?あとがき

安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えた?現在も幻の安土城天守閣は謎だらけ

安土城天守閣はなぜ6年でなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えた?現在、安土山にそびえた新しい造りの大城郭の天守

信長公の先の居城だった小牧山城よりも京にも近く、天下布武(てんかふぶ)を掲げた織田信長公の政は、安土城を拠点に移して城郭には、天守様(天皇)もここに移り住んで頂く御殿も用意されたとされています。

また安土城の築城にあたり、城下の整備も同時に進行させていき、「楽市楽座(らくいちらくざ)」を進んで取り入れて、多くの商人や、寺院にキリスト教の布教も許して、安土城城下に人々が集まるよう仕組みを造っていきました。

楽市楽座とは簡単に、ここの安土城城下に移り住み商人や商いを行う者たちに、税の取り立てを軽くさせ、城外の者も関所を無くして自由に往来ができて、流通の流れがよくなる画期的な経済のしくみでもありました。

しかし乱世の習いで、力による征圧的な武力による政治も進める織田信長公に対して、あまりにも非道と受け止めた武将の謀反もありました。

重臣であった松永久秀(まつながひさひで)氏や荒木村重(あらきむらしげ)氏などの離反による謀反が繰り返されたことにより、自分のことをあえて天下の大魔王と名乗って、自らが日ノ本を取り仕切ると考えたのでしょうか。

要は、そもそもこの乱世に天守様は飾りで、自ら(=織田信長氏)がこの日ノ本の政を指揮する国王になるという、当時としても考えられない志向をもったことにより、筆頭頭(ひっとうがしら)の明智光秀氏により成敗の行動が起こされてしまったと考えられています。

その事はいろんな歴史探求でも論じられていき、またわかりやすいのはNHK大河ドラマの一幕においても、「江~姫たちの戦国」や「軍師官兵衛」,「黄金の日々」,「信長 KING OF ZIPANGU」,「利家とまつ~加賀百万石物語」,「功名が辻」そして、「麒麟(きりん)がくる」などで織田信長公が赤裸々に描かれてきました。

その安土城の天守閣はどこに?なぜなくなったのか?なぜ燃えてしまったのか?の話に戻しますと、明智光秀氏が羽柴秀吉氏と山崎の合戦(やまざきのかっせん)に明智軍は勢いに乗る羽柴軍に敗れました。

その後農民の竹やりに藪の中で明智光秀氏は撃たれ死にし、数日後には安土城は落雷によって、豪華絢爛と詠われた大天守は焼けてしまったという説がひとつあります。

しかしそこには諸説あり、織田政権に変わって、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)氏が、政権をにぎるために安土城の天守閣を焼くよう命じたと。

その後、一時の天下人となった際に明智光秀氏に責任を擦り付けて、中国大返しをしてきた羽柴軍に驚き、安土城の天守閣や本丸を光秀氏が焼き払って、山崎に軍を備えたとの伝承もあります。

しかしこれについては信憑性に欠けていて、政を図っていく拠点を明智軍が秀吉軍との戦に動くときに、わざわざ安土城を焼き払ってしまう事は考えても理にあわないことで、このことはやはり豊臣秀吉氏の明智光秀氏を悪いイメージをつけるための後付けのつくり話と考えられています。

また織田信雄(おだのぶかつ)氏が愚かにも、安土城の天守閣や本丸を焼失させたというルイス・フロイス宣教師の文書では伝えられています。

あるいは、空になった安土城をどさくさに野盗衆により、財宝や家財を盗み、その際に証拠を残さないよう安土城の天守閣もろとも、焼いてしまったという様々な論がでています。

これは、NHK企画の劇場版「タイムスクープハンター 安土城最後の一日」と題された映画が、2013年8月に上映されたときの内容の事柄が、その安土城の天守閣がなぜ焼けてなくなってしまったのかが、戦慄に映像化されています。

要潤さんや時任三郎さん、杏さんに夏帆さんが出演している映画で、歴史の表舞台に立たない人々に注目した内容の興味深い映画化でした。

この映画の内容には、かなりの安土城焼失についての真実味が含まれていて、共感する部分が多かったと私は感じました。

護りの兵が薄くなった安土城に野盗衆が入り込んで、財宝を奪おうとする部分がリアルに描かれていました。

そのドタバタが熾きている処で、ある者が廊下を灯すろうそくをひっかけて倒し、その火が燃え広がっていき、天守が焼けていっていく、、、というフィナーレでしたが、非常に私的には説得感があって、その方向の見方はその時までありませんでしたが、妙に納得された映画内容でした。

よかったらまだ見てない方は、NetflixやTUTAYAレンタルで拝聴していただければと思います。

要するに安土城の天守閣はなぜなくなってしまったのか?、いつなくなったのか?は、実際に現在も謎に満ちたこととなっていて、今もそのミステリーは、永遠のテーマとなっています。

また本能寺で数人の家臣の森蘭丸(もりらんまる)、成利(ながとし)、長氏(ながうじ)等の小姓衆とで、明智光秀軍の約1万5000の兵とやり合う中、傷を負った織田信長公は本能寺の屋内で火に包まれて自刃をし、その骨も残らず本能寺の灰になったといわれています。

そうした骨一本も残さず亡くなっていった織田信長公の最期に、歴史を探求する人間にとっては、ミステリアスな部分に魅力を感じて、今なお織田信長公と、その安土城の考察が語り継がれていくのでしょう。

安土城はなぜなくなったのか?なぜ燃えてしまったのか?戦国の歴史においてのターニングポイントのその過程

ときに安土城の天守閣には、豪華絢爛に金箔が施され、ここでも城の築城の概念を取りはらい、独立式望楼型5重6階地下1階の天守の5階には、八角堂が造られた約35mもの高さを誇る大天守だったと伝わります。

そんな安土城の大天守は、築城を始めてから完成に至って、たった6年でなぜか焼け落ちてなくなってしまいました。

そこには、織田家筆頭の家臣だった明智光秀(あけちみつひで)氏の謀反が絡んでいました。

本能寺で天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝に、明智光秀軍によって火を見るより明らかで、多勢に無勢の兵に攻めいられ、織田信長公は討ち取られてしまいます。

播磨平定に陣を張る羽柴筑前秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)軍の加勢を命じられていた明智光秀氏でしたが、播磨に向かわず謀反により、京の本能寺で100人程の使いを連れての茶会に寄っていた織田信長公へ兵を向け、攻め入った出来事でありました。

この事件は、当時の日ノ本を震撼させた世にいう「本能寺の変(ほんのうじのへん)」という時代のターニングポイントでした。

すぐさま仇討ちに動いたのは、羽柴秀吉(はしばひでよし)氏が黒田官兵衛(くろだかんべえ)氏や石田三成(いしだみつなり)氏らと意を決しての、世にいう「中国大返し」をします。

播磨攻めのしめくくりとなった毛利攻めを和議により治め、すぐさま京までの約230kmにも及ぶ道のりを、高速道路はおろか自動車もない時代ですから、原動力は自分の足と馬を使って、その距離を軍勢と一緒に駆け抜けました。

道中には、いくつものかがり火を立てさせて夜道を明るく照らさせて、水や焼き米や塩を途中に配備させて、みなを走り続けさせるために、石田三成氏が早馬で先回りをしてお膳立てもさせたといいます。

本能寺の変で信長公が亡き者となってから、たった7日間というこの時代においては、急速な帰還でした。(車もねえ、電車もねえ、バスは1日1度も来ない戦国時代!*吉幾三さんごめんなさい)

そして天下分け目の「山崎の合戦(やまざきのかっせん)」では、ほぼ半日で兵が整わなかった明智光秀軍を羽柴軍が打ち破ることとなります。

しかし安土城は、その後には政の城として残されずに、安土城の天守閣ははなぜか焼け落ちてなくなってしまったと歴史に伝わります。

安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えたのか?当時金箔が施された新しき天守閣があった全貌は

戦国の世に、琵琶湖湖畔の安土山に築城された安土城の現在は、天守跡には天守台の石垣が残りますが、当時はもっと高く石積が積まれていたといわれていますが、それもそのはずです。

戦国きっての総石垣で造られた、城郭を石積みで囲んだのが安土城でした。

そのほか大手門などや櫓門などの石垣が残る城山跡になっています。

繰り返しになりますが、安土城は戦国きっての総石垣の城だったと伝わり、城内に荒く削られた大きい石の間に小さい石をくべてのせて威厳をだした野面積(のづらづみ)で造られていました。

ここ安土城から石垣積に定評ある穴太衆積(あのうしゅうづみ)が着目されていきました。

現在でも安土城跡の石垣の途中途中には、荒々しく積まれた石垣の間に寺院から持ち出された石造や墓石なども石垣に使われて、当時の寺院としては迷惑千万なことですが、そんなところも今となっては歴史の名残となっていて、見どころのひとつになっています。

安土城がおかれた城郭の周辺は琵琶湖に面していましたが、現在の安土城の城郭周辺は、埋め立てられていて近代の土地になってしまっていますが、当時は天然の要害として琵琶湖が、安土城の城郭の付近までありました。

安土城の天守の最上階を住まいとしていた信長公は、この琵琶湖の景色を天守より独り占めして、ときに戦(いくさ)の続く乱世を憂い、ときに琵琶湖の季節の移り変わりを儚いながらこの琵琶湖を眺めていたことでしょう。

織田信長公が魁で総石垣の城を築城し、入り口は虎口(こぐち)にせず、広い大手道のある城を小牧山城を始めにして、この安土城にも整備しました。

登城する門も大手門と合わせて4つの門が城の麓(ふもと)にあったとされて、さらに当時織田信長公の命では観光客というのか市民から入場料を取って、安土城内を周って摠見(そうけんじ)などを観光できるようになっていました。

それは織田信長氏にとって自慢の城だったのでしょう。

ここで、摠見寺の鐘が安土城跡に登城すると残っていて、今でも鐘がつけるようになっています。

♬町は今~ガラスの中~ということで、「あの鐘を鳴らすのはあなた」をしていって下さいませ。

だいぶ横道に反れたので、話を戻します。

戦国の城郭造りを踏まえると、この戦国の乱世の中で安土城は防御性の薄い城で、普通は折れ曲がった入り口のいわゆる枡形にするのが城づくりの基本でした。

しかし信長公は新しきもの造りの先駆者で、城に威厳を持たせるかのように大手道は約8mもの幅があり、大手門か中腹まで約130mの直線を描いた石積の階段が続き、攻めにくい城の基本の虎口の概念をはらいました。

ここの虎口とは、敵が攻めてきた際に通り道をわざと狭い道にして、相手の兵がそこを通っていくにも、一気に大勢で攻め押し寄せる事が出来ないように狭い道にしたものをいいます。

周りは高い土塁で細い道だけがあって、人ひとりしか通れないようにしてあり、相手の勢いを抑えて、横矢などを設ければ、一毛打尽(いちもうだじん)に相手の兵を鉄砲等も投じて封じられる設備のことをいいます。

そう戦国乱世の真っ只中の時期ですから、この時期に築城されるどの武将の城にも、入り口に虎口は備えられていましたが、信長公はその概念をこの安土城では取り除きました。

ここには、天守様(現在の天皇陛下)を向かい入れて移り住んで頂き、政(まつりごと)を司る拠点と織田信長公は考えていたことが強いとされています。

そして大手道の周辺には、家臣らの屋敷を造らせて住まわせ、城の護りの要とする考えだったように思われます。

その大手道の両側は、高石垣でその上に土塀があり、もちろん狭間も設けられていて要塞のごとくだったと。

敵軍が攻めよってきても、城下より城内の入り口には、家臣団が配置されていることで防御となしたのでした。

約130mのまっすぐな大手道を登りきると、ようやくその先のところでつづら折りの道となり、枡形門(ますがたもん)の役目となる黒金門(くろがねもん)が設けられていて、そこに城の守りの要(かなめ)にしたようです。

かなり石垣の大きさがこの辺りから、下の方に比べると大きくなってきているのを感じ、石垣萌子はキュンキュンしてしまいます~

しかし、その家臣団の屋敷も配備されて護りが出来ている安土城は、なぜ焼け落ちていつ無くなったのでしょうか。

現在も謎は深まるばかりです。

安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えたのか?当時築城された安土城の事をルイス・フロイス宣教師はこう記述

・中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ財産と豪華さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩し得るものである。

・多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。

それらにはいずれも金が施されおり見事な出来栄えを示していた。

・そして真ん中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。

この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほどに見事な建築技術によって道営された。

事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他とりどりの肖像が、そのすべてを埋め尽くしている。

外部では、これらの層ごとに数々の色分けがなされている。

あるものは、日本用いられている漆塗(うるしぬり)、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。

他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。

この天守はもっとも堅牢で華美な瓦で覆われている。

それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。

屋根にはしごく気品のある技巧をこらした形をした雄大な怪人面が置かれている。

と称賛しています。(ルイス・フロイス 日本史よりの一部)

しかしこのルイス・フロイスの残した資料が、現在において資料がほとんど残っていない安土城の事柄の唯一の謎を解いていく手がかりとなっていきました。

安土城の天守閣はなぜなくなった?現在令和の復元プロジェクトに期待をこめておこなわれる発掘調査の今は

安土城の令和の復元プロジェクトに期待!滋賀県では3回の発掘調査を実施

そして安土城の現在には、2023年10月より滋賀県は、織田信長公が築いた安土城の復元を目指すべく、今まで手付かずだった天守跡のある北側の部分の発掘調査にのりだしています。

これまで滋賀県では3回の発掘調査を実施しており、昭和後半から平成と調査が進められていきました。

しかし城郭の保護という理由で、大がかりな調査には至っていないようでしたが、中では一部では出土した金箔瓦に破片となった金の鯱(しゃちほこ)に、天守や本丸の礎石などが発見されています。

また、さまざまな安土城の天守の立体図が、現在の技術映像で描かれてはいるものの、実際にはルイス・フロイス宣教師が残した日本史にある文面も手掛かりですが、実際には、「安土山図屏風(あづちやまずびようぶ)」が当地に織田信長氏の命で、加納永徳(かのうえいとく)氏が描いたものがあるといわれています。

その安土山図屏風は、九州のキリシタン大名の大友宗麟(おおともそうりん)氏の名代(みょうだい)として、天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)と名付けられた4人の青年(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)を中心にローマへ派遣された際、「安土城図屏風」を献上したされています。

その安土城図屏風も時のローマ教皇に献上後は、ヴァチカン宮殿の画廊に飾られたといわれていますが、その後詳細は不明となっていて、安土城復元プロジェクト企画で、「安土城図屏風」の行方も追っていくことを研究者グループと滋賀県は動いています。

現在において、焼失してしまった安土城の天守閣築城当時の姿を記された貴重な資料として、図屏風の探索を今後していくとのことが復元へ向けた大きなキーワードともなっていくからです。

また、先に記載した2023年10月より始まっている天守の北側の発掘調査では、今後3年の2026年までを目安に行っていく予定で、滋賀県三日月知事は、「安土城がこういうお城だったと、実像解明にも近づくことになる」と話しておって、発掘調査に期待を寄せていました。

この動きには私もそうですが、歴史やお城に興味がある人たちの一つの期待と願いでもありますね。

以前の発掘調査では、安土城の伝羽柴秀吉屋敷や伝前田利家(まえだとしいえ)屋敷のように、周りの土地調査と石垣の復元の際には、陶磁器や土器など生活遺物などに茶器など多数が出土していています。

さらに約180mもの長い大手道の修復で、秀吉邸や利家邸の敷地も整備され、調査の上多聞櫓(たもんやぐら)の床をくぐる台所の排水溝などの遺構も見つかっていました。

また”ストリートミュージアム®”のスマートホンのVRで、ご自分のスマホを石垣の前に向けますと、天守や櫓や門などの建物がどのようになっていたかがリアルに見れるような現代のバーチャルシステムも利用して頂きながら、お城散策を楽しむことができますよ。

私もよく拝聴する、「お城インスタグラマーKAORIの城tube」で、”織田信長の居城・安土城〜バーチャル安土城ツアー”を参考に模していただいてから観光に行くといいですよ。

でも、そちらを見て頂くと、このブログは全部読まなくてもよくなりますか⁉

そして滋賀県では、安土城天守の再建に取り組んでいますが、実際には再建には木造再建で約505億円で、コンクリートでの再建の方が耐震がしやすく安価になるといわれますが、それでも約300億という予測がたてられています。

しかしそれでも歴史ある織田信長公の安土城の天守復元に向けての、戦国ロマンは今後も続けられていくと信じています。

滋賀県の安土城発掘調査の成果

2023年10月より滋賀県は、まだ手付かずの天守の北側部分の発掘調査を進めて、2024年1月の時点で発掘調査による成果として、いくつもの焼けた瓦などがでてきたことや、高さのそろった天守の石垣の痕跡が小石の間に出てきたことを裏付けとなり、「破城」された可能性があることを発表しています。

内容としてはNHK滋賀NEWSなどで発表されたことですが、本能寺の変で織田信長公が明智光秀軍に亡き者となった後、いつ行われたことはまだ不明ですが、意図的な人為的に天守は取り壊された破城が行われたのではないかという真意につく発見がされています。

そこにはやはり故意的に天守が焼かれ、その石垣跡や礎石に焼けた痕跡もあり、炎上の激しさを物語ものだと関係者は記しています。

崩れ落ちてきた石垣が斜面に転がって、埋まってしまった跡や、焼けた瓦の破片などが見つかってきています。

また天守のすぐ下の場所に建物があったことを記す、礎石の列が見つかっています。

その礎石がみつかった所を考古学者によると、礎石の間が広くとられていて柱と柱の間がとられているので、重要な役割の建造物と想定しており、発掘された礎石は焼けて残ったガン痕などもみられていて、天守の焼け落ちた時に同時に焼けたのではないかと読み取っています。

現時点では北側の斜面には天守が焼け落ちた時に、崩れ落ちた高石垣の石垣や焼けて割れた瓦の残害が発券されています。

そして北側の天守の近くには、天守様を迎えるための御殿なるものがあったする痕跡もみつかっています。

さらに滋賀県三日月知事は、今後20年がかりで2024年8月より幻の城が「破城」されたという可能性が高くなっている中、さらにその天守北側も重点に発掘調査を行っていくものとしています。

どちらにしても、今後長い発掘調査になっていくことになるということですが、徐々に安土城の謎解きとどんな天下布武の城を織田信長公が築いたのかに、この令和の発掘調査には期待されていくことになります。

滋賀県立安土城考古学博物館で安土城の天守閣はなぜなくなったのかに迫る!

安土の歴史をさらに知る上では、この滋賀県立安土城考古学博物館を見学するのがおすすめです。

安土の歴史は時代の瓢箪山(ひょうたんやま)古墳から始まり、数々の銅鐸が出土した八幡社古墳群(はちまんしゃこふんぐん)を復元された石室が見れます。

そして、第2常設展示室のテーマは「織田信長」であり、安土城城郭の模型に安土城の石垣の復元に、安土城城壁門はなかなかの要塞だったという再現が興味をそそられます。

展示には、信長公にまつわるものがこの階は占めていて、信長公がまとっていた衣裳や、安土城絵図や、中ではたくさんの信長公の肖像と伝わる肖像画が並んでいます。

やはり、真ん中に飾られるあれが、織田信長公に一番近いポピュラーな肖像ですかね。

博物館は、ヨーロッパの修道院を思わせる造りになっていて、ルイス・フロイス修道院を重く庇護(ひご)した信長公の想いが、この建物にも備わっているかのようです。

安土城天主 信長の館

2023年4月よりリニューアルオープンして装いも新たに見学できるようになっています。

1992年の”スペイン・セルビア万国博覧会”に原寸大として飾られた、安土城の5階と6階部分が復元されていて、豪華絢爛な扉や室内の装飾が拝観できるようになっています。

朱色の柱や、金箔に彩られた6階部分の最上階の再現された造りものでも、息をのんで見てしまう実感があります。

安土城屏風絵図の復元のものや、安土城模型などが鑑賞できます。

また変わったところで展示には、信長の家康饗応膳(いえやすきょうおうぜん)のおちつき膳と晩御膳が展示されています。

また余談ですが岐阜長良川温泉郷のホテルや旅館で、この信長おもてなし御膳がいただけるレアな情報もあります。

事前に予約注文が必要になりますが、お好みの方は岐阜長良川温泉旅館協同組合のブログをチェックしてください。

拝観料金:一般610円 学生350円 小中学生170円

共通券:一般900円 学生510円 *共通券は隣接する安土城考古博物館も入館いただける券になっています。

駐車場無料(約150台収納スペースあり)

営業時間:9:00~17:00(月曜定休)

☎0748466512

〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678

安土城はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えたのか? 安土城の簡単歴史とあらまし

天下の乱れた戦国の騒乱を統一するため、足利義昭(あしかがよしあき)公を後ろ盾に明智光秀氏の真言によって、京への上洛(じょうらく)をすすめていきます。

その際に安土山の先の繖山(きぬがさやま)の山頂にあった佐々木六角(ささきろっかく)氏の観音寺山城を攻め込み、六角氏を追い出したことに始まります。

上洛すると今だ応仁の乱(おうにんのらん)の戦乱の風が残る京では、荒れ果てた京の御所に着いて、すぐさま侍所を設置して、京の治安を織田信長氏は着手したといわれます。

その後止まらずに、当時の荒れ果てた京の御所の修繕と、足利義昭氏の住いとする京のあらたな二条城の築城に着手しました。

足利義昭氏が天守様より15代将軍征夷大将軍に任ぜられると、義昭公より副将軍などの官位を奨められるもそれを断り、代わりに大津や堺に草津の商人の貿易拠点に目を向けて拝領を願いそれを受理された。

その後、琵琶湖の畔の安土山に安土城の築城を1576(天正4)年に始められます。

京でも有数な穴太衆(あのうしゅう)に石積を命じて、ここから石垣の城の礎(いしずえ)の始まりを信長氏が促したともいわれます。

総石垣で造られた安土山の城郭の頂上には、琵琶湖を一望できる今までにない豪気で豪華絢爛な八角堂も備えた、独立式望楼型5重6階地下1階の天守が築城されました。

城下町も整備されて、楽市楽座が自由に行われ、活気に満ちた町おこしをされていたと伝わります。

内裏(だいり)の清涼殿(せいりょうでん)すなわち、平安京に習った内裏の殿舎も城郭内におかれていたことが、発掘調査で明らかになっています。

そして安土城天守の構造には、東映映画で第11回(2004年)松本清張賞受賞作、第132回直木三十五賞候補の「火天の城(かてんのしろ)」で、尾張国(おわりのくに)代々の宮大工の岡部又右衛門(おかべまたうえもん)に西田敏行さんと織田信長に椎名桔平さんが主演した映画で描かれていた、「天高くそびえ立つ、天下一の城を造れ」と命じられます。

その今だかつてない5重の櫓に着手した内部には、ひと舞してもすぐには焼け落ちない大きな吹き抜けを設けるために、太く長い大木を城の中心の基礎に置いたとされています。

映画の”火天の城”でもその大黒柱の部分が、一番のつぼでドラマが描かれていたように感じます。

織田信長公が安土城の天守が出来上がると、まだ全体が未完状態でもすぐ入城したといわれます。

城が完成すると天守様の接待に自らが先導し、天守内の絢爛さや、琵琶湖の眺めなどを披露したと伝わります。

また同盟関係にあった徳川家康(とくがわいえやす)氏を明智光秀(あけちみつひで)氏に接待役を申し付け、その際も自らが天守の案内をしたといわれています。

織田信長氏は自分も加わって、天守の設計にあたったとされていますから、俗にいうお気に入りの自宅自慢をされたのでしょうか。

しかし、自分の住いにしていた安土城天守の最上階は、信頼しているものしか通さないとされていたようですので、当時天守を住まいにしたのは、織田信長公だけということも歴史に伝わり、やはり琵琶湖の眺めはそれほど良く、お気に入りで、独り占めしたかったのやもしれません。

本能寺の変後に安土城は原因不明によって、天守と本丸が火災が発生して焼け落ちてなくなってしまいました。

豊臣秀吉氏が政権をにぎる時代に大阪城が新たに築城されると、安土城はおのずと廃城となっていきます。

子のできなかった秀吉公は、甥の羽柴秀次(はしばひでつぐ)氏に関白を譲ると、城の築城を命じて、安土城からも5Kmと近い近江八幡山(おうみはちまんやま)の頂に城を築かせます。

城を築く際には、安土城の木材や石垣を再利用のためその資材を運ばせたといわれています。

(良かったらこちらの近江八幡のブログも読んでみて下さい)

近江八幡の新町通りで食べ歩きスポットは?ランチ穴場や観光名所に駐車場情報
滋賀県の人気のスポットはたくさんあり、織田信長(おだのぶなが)公が築城した安土城跡が1番人気で、その他にも彦根城や玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)などや近江神宮がありますが、八幡堀の屋形船で優雅にめぐれる近江八幡運河街も忘れてはいけない...

こうした行動はすでに豊臣秀吉公は、織田信長公の基盤は受け継ぎ、政を行うための城造りや日ノ本を動かしていくのは、「我、秀吉ぞと」知らしめるかの動きでもあったようです。

して、大正7年「安土保勝会」が設立されて、安土城保存の動きが起こります。

昭和に入り安土城址の石碑が立てられて、地震などで崩れていた大手道の石段や総石垣の石積みの修繕が行われていきました。

発掘調査と整備により、あまり神仏に目を向けない人物像のイメージがある信長公でしたが、ここに摠見寺(そうけんじ)が建立されていたこともはっきりとしてきました。

伝・徳川家康(とくがわいえやす)屋敷も摠見寺のそばにあったと記されています。

また黒鉄門や仏足石や二の丸南帯曲輪跡などに伝・羽柴秀吉屋敷や伝・前田利家(まえだとしいえ)屋敷が大手道に建てられていたことが発掘調査で全貌が明らかになってきました。

二ノ丸跡付近には、伝長谷川秀一(はせがわひでかず)屋敷や伝・森蘭丸(もりらんまる)屋敷に伝織田信忠(おだのぶただ)屋敷、伝武井夕庵(たけいせきあん)屋敷などの遺構も解かってきました。

こうしたこつこつとひたむきに活動してきたボランティア団体の動きによって、今の安土城が安全に観光できるようになっているのです。

いつか安土城の天守閣はなぜ燃えてなくなっってしまったのか?の城ではなくなり、安土城天守の忠実な再建がなされるとぜひぜひ期待しています。

安土城はどこに?安土城へアクセス・駐車場

〇公共交通機関(電車)

・JR名古屋駅~岐阜羽島駅~米原駅(東海道・山陽新幹線)

・米原駅~安土城駅(東海道・山陽本線)

・JR安土城駅北口から織田信長像を見たら右に進み、彦根道を道なりに進んで、安土西生来線201号線からさらに右の道を進むと安土城跡に到着。(約1時間30分)

〇マイカー

・名古屋駅より広井町駅前線から菊井町線を抜けて菊井町交差点の信号を右折して、県道200号を進みます。

江川線を左折するとすぐ名古屋高速6号清州線の明道町料金所より有料高速にのる。

・明道町料金所(名古屋高速6号清州線)~清州JCT~名古屋高速16号一宮線~一宮料金所~名神高速道路~一宮JCT~木曽川~養老JCT~養老SA~伊吹PA~米原JCT~彦根トンネル~彦根料金所で高速道を下車

・国道306号線を右折~外町信号の交差点を国道8号線中山道を左折~安食西信号の交差点を左折~賀田山安食西線~賀田山町西交差点より彦根道になる~20号と交差する所より大津能登川長浜線~そのまま道なり進めば安土城址前信号の右に安土城跡があります。

安土城の駐車場

安土城駐車場と入山者用駐車場に安土城跡前多目的広場駐車場の3ヵ所の広い駐車場が完備されていて、全て無料駐車場です。

*噂によれば夕方に小遣い稼ぎのおじさんが出没するようです。

駐車料金を請求されても、無料駐車場ですから声かけられても断りましょう

〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦

安土城跡でグルメの食べ歩き おまけ

安土城跡でグルメ 西の湖すてーしょん

特に特別なメニューはなくも、カレーうどん、肉うどん(550円)にビーフカレー、五目炒飯(500円)と手ごろな料金でランチができます。

その場所は、西の湖貸切船の運航がされていて、西の湖周辺1時間コース(10000円)と八幡水郷1時間半コース(15000円)

郷土料理じゅんじゅんのお弁当が別料金となりますが、お食事をしながらの船の旅が楽しめます。

事前の予約が必要となりますので、1隻12名様までで3日前には連絡してください。

営業時間:11:00~14:30(水曜定休)

☎0748466960

〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦4187−3

安土城跡でグルメ 味葦庵

味葦庵(みよしあん)はフレンドマート安土店そばにあって、11時から14時までの60分食べ放題で1300円のランチがあり、30種類の体にいい食材が用意されたおばんざいバイキングのお昼ごはんがあります。

その他にハンバーグ定食にオムライス定食、高菜チャーハン定食(おばんざい5点盛り、御飯、おつゆ、コーヒー付き):各1000円

こじんまりとしたお店ですが、バイキングの方は、お好きな食材を食べれてなかなかいいお店です。

営業時間:11:00~14:00 17:00~22:00(水曜定休)

☎0748463138

〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦2836−1

安土城跡でグルメ 囲炉裏料理 わ

本日のランチのメニューに天婦羅盛り合わせに焼き魚、蔵尾ポークのハンバーグ、土鍋で【わ】風カレー(辛口)、豚の角煮&蔵尾ポーク(コーヒー、抹茶付き:1200円~)

それと大中牛網焼きステーキ(コーヒー、抹茶付き:2200円)があります。

店内には日本酒が並んでいて、酒好きにはたまったもんじゃない感じで、もう飲まずにはいられなく食事と一緒に追加して飲んでしまうように、隠れ家的なお店になっています。

営業時間:11:00~14:00 18:00~22:00(金曜定休)

☎0748467799

〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦4728

安土城の天守閣はなぜなくなったのか?いつなくなりなぜ燃えた?あとがき

織田信長氏と安土城の謎は知りたいと思うところ・・・・・・・・・・は大きいですが、本心は逆にこのままミステリーとして残っていき、我々の安土城ロマンの探究がこれからも続いていくことの方が、自分は逆に楽しみと感じています。

戦国時代を駆け抜けたダークヒーロー伝説は、これからも私たちに色んなカラーを見せてくれ続けていく、そちらの方に私なりの答えを今回見いだした内容にまとめました。

今回のブログはずっと題材にしたいと思っていた、織田信長公が築城させた総石垣の城、幻の安土城のことでしたが、私の歴史に対する憧れ的な気持ちですが、伝わって頂けましたでしょうか?

また今後もいろんなお城紹介を私なりの目線で送っていきますので、ぜひまた次の機会もお立ち寄りして下さい。

織田信長公の安土城の周辺の観光に参考になれば、こちらのブログも投稿していますので、後で見て下さい。

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最後まで読んで頂きありがとうございました。

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