二本松少年隊のタブー!二本松城は戊辰戦争で最期まで義を護った幕末武士たちがいた!そして戦国にも悲劇があった城

福島にある二本松城は霞ヶ城とも呼ばれ、春にはソメイヨシノやヤマザクラなどが咲き乱れるんばかりの景色も有名な観光地の県立自然公園として整備されています。

戦国時代の頃からも交通の要所にあったこの二本松城は、いくつかの合戦にさらされた場所です。

現在は東北自動車道もそばを通り二本松インターから車でのアクセスもしやすい場所に位置してるといえます。

また城跡を挟んだ阿武隈川(あぶくまがわ)側に東北本線のJR二本松駅もあり、そばに国道4号線が通ります。

この国道4号線は仙台市の方に続き、さらに平泉、盛岡市を越えその先の青森駅まで続く、東京都入谷を結ぶ街道である。

その重要な場所にある二本松城は、室町時代にこの地の塩沢・殿地が岡を”二本松(にほんまつ)”と改めた畠山(はたけやま)氏の居城で、1441~1443年に畠山7代目当主の二本松氏が本格的に二本松城を築城したとあります。

その福島県にある二本松城跡は、東北自動車道からも見える城跡で、戦国時代は若き伊達政宗(だてまさむね)氏の悲劇があり、江戸幕末が終わり明治維新となっていく時代に、激戦の場にさらされる悲劇の二本松少年隊の歴史に残ります。

そこに触れながら、二本松城を巡っていきます。

今回も最後まで私のブログにお立会いして下さるとうれしいです。

二本松少年隊のタブー!戊辰戦争での戦の場所で矢面にたたされた悲劇の城の二本松城

鳥羽伏見の戦いにより新政府軍が奥州(東北部)へ進軍開始する

第15代徳川将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公が大政奉還(たいせいほうかん)によって、江戸幕府より政権が天皇に返上奉り、新たに天皇を護衛する薩摩,長州,土佐からなる”新政府軍”が立ち上がりました。

この後、新政府軍を不服にする旧幕府軍を引き入り大阪城に入った徳川慶喜氏は、新幕府軍との”鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)”になってしまい徳川慶喜氏のとった行動は、いろんな見方がありますが兵力においては新政府軍に劣っていなかったはずでした。

しかし新政府軍の最後の隠し玉の”錦御旗(にしきのみはた)”が掲げられた時点で、賊軍のそしりに恐れて最期まで抗うことをせずに、味方兵を残し大将慶喜公は大阪を抜け出し江戸へ引き上げてしまったところで、ありえない戦の行動に総大将のレッテルを張られてしまったと思われます。

ですが、徳川慶喜という大将がいなくなっても、旧幕府軍らはあきらめない意思の藩がまだいました。

おもに新幕府軍は薩摩藩、長州藩、土佐藩が中核となる軍でありましたが、相対する旧幕府軍側は“奥羽列藩同盟(おうしゅうれっぱんどうめい)”を結び、新政府に意を唱え軍力に屈さぬ構えを取ったのでした。

そこに白羽の矢が立てられるのが幕末に、”京都守護職”をになっていた松平容保(まつだいらかたもり)守護代がいる会津藩でありました。

禁門の変(きんもんのへん)では新幕府軍の長州藩は苦湯を飲まされていますので、会津藩は天敵であり恨みの標的でした。

鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は新政府に突破され、いよいよ会津に戦の火ぶたが向けられていきます。

戊辰戦争の戦の場所 二本松の戦いで若き二本松少年の悲劇

こうした背景で、会津若松城の戦いが歴史上で大きく取られています。

若い少年で組まれた白虎隊(びゃっこたい)を導入させ、会津藩総出と土方副長率いる新撰組が援軍で戦う戦が、NHK大河ドラマ「八重の桜」や年末時代劇スペシャルの「白虎隊」で描かれています。

しかしその陰に隠れたところで、名もなき若き少年たちが出陣し命を落とすことになります

それが二本松の戦いでした。

白河口を突破した新政府軍は最初に二本松城攻めに入ります。

二本松藩は奥羽列藩同盟を貫き、約1000の兵で、向かう新政府軍はおよそ2000の兵に攻め込まれます。

すでに敗北は火を見るよりも明らかであったのに、裏切れば味方であった会津藩攻めの先陣に立たされることを断じてせぬ構えで義を貫きます。

急遽若き少年を挙兵をつどり、17歳からという令状も嘆願希望(たんがんきぼう)の少年たちが出願し、藩主もやむなく出陣許可をし集まった12~17歳の少年62名が結集されました。

このことで二本松城の少年隊のことがタブーとされてきたのやもしれません。

「藩のため戦争に出て戦うことは武士の子として当然の事であって、特に語るべきことではない。

生まれながらにして、既に心に決めていた事だから、戦争に出ることになって、
恐ろしいとは思わなかった。
出陣の前夜などは、今の子どもの修学旅行の前夜のようなはしゃぎようだった。」

(広報にほんまつ 2018.7より)

二本松少年たちは、はやっていました。

というよりは、この地を守るための正義感が強かったのです。

二本松城の外で戦う二本松少年たちに、あまりにも若い少年たちを見てすぐには新政府軍らも攻撃できずに、一時睨みあいが続いたいわれています。

しかし血気にはやる二本松少年たちは、銃を放ち、突進してしまう者もいたという。

新政府軍に、二本松城下を守る兵は西の守りに兵はかりだされており不足して、各地の戦線で休む暇なく応援にきた者や、農民、少年やご家老で白刃の槍や刀で応戦しますが、新政府軍の武器、弾薬の威力におされ、結果何人もの尊い若い命が二本松城下の大壇口に散ってしまいました。

二本松城内では、戦の責任を持って家老丹波一学(にわいちがく)氏や服部久左衛門(はっとりきゅうざえもん)氏が自刃して城を自焼しました。

また城の本丸でも丹羽和左衛門(にわわざえもん)氏と安部井又之丞(あべいまたのじょう)氏も藩壊滅に責任を取ったとみられ、二人は自刃した。

そして二本松城は降伏を余儀なくされています。

この二本松のことは武士道を貫いた事として、新政府軍より語られた話しだといわれてます。

二本松少年隊のタブー!二本松城跡に造られた二本松少年隊群像

実際の話幕末の激戦時には、「二本松少年隊」という正式な名称はまだ無かったといわれています。

戊辰戦争で急ぎ集められた若き少年たちの嘆願により、18歳以上とされていましたが、止む無く少年も受理されていったといいます。

二本松少年隊と正式に名が決められたのは、戊辰戦争50回忌に二本松の戦いに木村銃太郎(きむらじゅうたろう)門下生として出陣していた水野好之(みずのよしゆき)氏により、”二本松戊辰少年隊記”が配布され、そこから晴れて「二本松少年隊」と呼ばれるようになりました。

陣羽織(じんばおり)に身につけ勇ましく闘う姿は、藩を守ろうとする意志が伝わる像で、現代の私も含め何人の現代人がこの少年たちの行動に身を投じれるのか、と考えさせられます。

ロシアがウクライナに紛争を起こす時世があり、その時自分はどう行動するべきかと?

その悲劇を繰り返してはいけないということと、たった150年余りの前にこの戦が、日本人同士で争った歴史があったことを後世に知らせていくためのものだと思います。

この後世に名付けられました、二本松少年隊は62人中戦死した16名の墓が丹羽家代々の菩提寺の「大隣寺」に眠ります。

戦が終結後、板垣退助(いたがきたいすけ)参謀が二本松藩を語った言葉が残ります。

「一藩こぞって身命を擲ち(なげうち)、斃(たお)れてのち已むまで戦い抜き、武士道の精髄を尽くしたのは二本松をもって最上とする」

とこう絶賛した。

しかしその反面こうした武力による平定には、二本松少年隊や会津の白虎隊の悲劇の歴史があったことは、今後語り継がれていかなければならないことと思います。

彼らが眠る場所は、二本松城からでて東北自動車道の二本松インター側で、近くに「二本松観光センター 隊士館」からすぐの所になります。

この悲劇の戊辰戦争に終止符が打たれた、鶴ヶ城にちなんだブログも投稿していますので後で読んでみて下さい。

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二本松少年隊のタブー!二本松城跡を観光しよう

JR二本松駅からほど近く城の入り口になる、二本松城大手門(坂下門)跡が民家との間にまずはひょっこりという感じでお目見えします。

その近くには1145年に地頭だった安達藤久郎盛長(あだちとうくろうもりなが)氏が、屋敷のを設け、ここに熊野大神を祀ったことから始まった二本松神社が鎮座しています。

久保丁門坂を進むと本当にささやかに、二本松城久保丁門跡が残ります。

その先を進んで、北小学校角信号を左折して進んでいくと、右側に城郭の全貌が見えてきます。

霞ヶ城公園第一駐車場の方へ右折し進むと城郭のところには、二本松少年隊群像が迎てくれます。

ここで戦でも12歳から17歳ほどの少年たちの悲劇があったのだと、ふと足が止まり思いにふけります。

その先の階段を進むと多聞櫓に箕輪門(1982年に復元)があります。

当時にはそこにある二階櫓は無かったものといわれています。

その先の塀重門跡の石垣の上には、樹齢300年の赤松が残ります。

霞ヶ城会館を横目に左へ折れると三ノ丸跡,三ノ丸御殿跡の広場があります。

その先はつづら折りの道を登って、日影の井戸を過ぎると本丸の今も残る本丸下の野面積石垣と、1995年に修築整備された天守台があります。

この天守台には戦国期を経て、いくつかの城主が変わっていくも、幻の三重の天守があったといわれています。

戊辰戦争から遡ること、戦国の世に伊達政宗氏ゆかりの二本松城の悲劇もあった

二本松城取りに政宗氏の父の悲劇もあった場所

室町時代に畠山氏が築城した二本松城も戦国時代は安泰ではなかった。

奥州制覇を目指す若き伊達政宗(だてまさむね)氏は家督を父輝宗氏より引き継いだのち、大内貞綱(おおうちさだつな)氏の裏切りに小浜城を攻めるも、貞綱氏の逃亡もあり、大内氏とつながりの深い二本松城を政宗氏は急展開に攻めます。

難攻不落な城ゆえ簡単には落ちる城ではありませんでしたが、その頃二本松城主の畠山義継(はたけやまよしつぐ)氏は宮森城に隠居していた輝宗氏に降伏を申し出ます。

ここには畠山義継氏の策略があり、何回か和議(わぎ)の面会に顔を出し、機をうかがっていたところがありました。

その日は家来の伊達成(だてしげざね)氏や留守政景(るすまさかげ)氏がついてはいたものの、伊達政宗氏は鷹狩りで不在であったといわれる。

ここは諸説ありますが、NHK大河ドラマの「独眼竜政宗」や新春大型スペシャル東映時代劇「伊達政宗」で演じられたほうを取ると、畠山義継氏は対談の帰りに少ない家臣と仕儀にあたり、輝宗氏の隙をついて拉致したのでした。

縄で腕を縛られ、刀を突きつけられた輝宗氏の前に、阿武隈川湖畔まで伊達家の家臣は手が出せずに拉致されたままで着いた。

橋をあらかじめ落とし川を渡れぬよう先回りをした家臣が、小舟も壊し、一時その場で何もできずにらみ合いが続いてました。

そこに鷹狩りから早馬の知らせで戻った政宗氏に、父輝宗氏は「政宗!天下を取りたくないのか。この父を討てえ。」と何度も政宗氏に叫び、意を規した政宗氏は鉄砲隊に打てと命じます。

畠山氏の家臣団は鉄砲で討ち捨てられ、怯んだところを斬りこみますが、義継氏はもはやこれまでと、既に打ち捨てられる前に輝宗氏の胸を何度も刀で差し、義継氏や畠山氏の残る家臣らも全て打ち捨てられますが、輝宗氏もその時は息を引き取っていました。

最愛の相談役でもあった父を殺された政宗氏は、怒り、義継氏の遺体を切り刻み、藤蔓(ふじつる)でつなぎ合わせて無残に吊るされたといわれます。

二本松城を攻め落とす政宗氏

主をなくした二本松城は、嫡男の国王丸(くにおうまる)となるもまだ11歳で、家臣たちが盛り立て政宗軍が城を取り囲もうと難攻不落の城は、籠城戦に持ち込みなかなか落ちず、東北の雪の季節は豪雪で、政宗軍も一旦軍をひきます。

その間に畠山氏は近隣諸国に応援を持ち掛け、周りの諸国も伊達家に入ってこられると厄介と、これに乗じ、佐竹氏を始めとした連合軍対伊達軍の戦に発展していきます。

まだ雪が残る中、また戦が始まり連合軍との激突は高倉城と国境沿いにあった瀬戸川の”人取り橋”(史跡 仙道人取橋古戦場)でありました。

圧倒的な数の連合軍に対して、政宗軍は応戦し、伊達政実氏が高倉城の軍の横を突き対等に渡り合い、人取り橋では重臣の鬼庭左月(おににわさげつ)氏が討ち死にする死闘も、多勢に無勢(たぜいにむぜい)の伊達軍が場を退き、夜半に終結した。

その後キーマンの佐竹氏が内紛により軍を撤退したため、他の諸国もそれに号令するかのように撤退をし始め、二本松城は戦を続ける余力を失い国王丸を連れ、家臣団は本丸を焼き、戦から撤収したといわれます。

よって、苦戦の中伊達政宗氏は、父の仇の二本松城を一矢報い奪取したのでした。

余談ですが、二本松城攻めの戦が終わり、二本松城に入城した伊達政宗氏と対談した、幼児期からの相談役の”虎哉和尚(こさいおしょう)”には大目玉をくらい、仏の教えをなんと示す!と怒鳴りつけられたという。

「武を持って行うなれば、父を殺されたからといい、その畠山義継氏の切り刻んだ御遺体を藤蔓(ふじづる)でつなぎ合わせ無残に吊るすとは何事!」

「丁重にご遺体を相手に戻すのが筋目、仇からの憎しみを抑えて人としての行動にかけている。」

父の仇を取り、二本松城を取ったことをめられるどころか、怒鳴りつけられたさすがの独眼竜政宗氏はこの時、虎哉和尚の前では梵天丸(ぼんてんまる)に戻って、小さくなっていたのではないのでしょうかね。

二本松城(福島県二本松市霞ヶ城公園)へアクセス

公共交通機関 (電車)東京駅~二本松駅

・JR東京駅~JR郡山駅(東北新幹線 仙台行)

・JR郡山駅~JR二本松駅

・二本松市観光案内所側より徒歩約30分(全約2時間40分)

マイカー霞ヶ城公園へ

・皇居丸の内から国道20号を大手町に向かい、神田橋料金所より首都高速都心環状線へ入る~板橋JCT~首都高速中央環状線~荒川(五色桜大橋)を左へ~首都高速川口線~東北自動車道~浦和本線料金所~蓮田SA~久喜白岡JCT~羽生PA~利根川橋~佐野SA~岩舟JCT~栃木都賀JCT~都賀西方PA~大谷PA~上河内SA~鬼怒川橋~矢板北PA~黒磯PA~那須高原SA~阿武隈PA~鏡石PA~安積PA~安達太良SA~二本松料金所で東北自動車道を下車

・県道355号線を左へ~成田町交差点信号左折~若宮一丁目交差点信号を左折~新丁坂をそのまま進めば霞ヶ城公園へ到着(約270km)

霞ヶ城公園周辺駐車場

〇霞ヶ城公園第一駐車場~第五駐車場

24時間営業(無料駐車場)

収容台数:400台

〇見晴台駐車場(収容台数約12台)

☎0243555122 (二本松市観光連盟)

〒964-0904 福島県二本松市郭内3丁目

〇見晴台駐車場

 

戊辰戦争の戦の場所 二本松城あとがき

二本松城は国史跡になっており、現在は見学無料で城内を拝観できる公園となっています。

天守台や石垣、堀切が良好に残り、箕輪門とつけ櫓などが復元されており、二本松城跡発掘調査現地説明会なども行われており、今後三の丸にあった三の丸御殿の復元・再現に向けての動きもあるようですが、今後の関係者さんたちの動きに期待したいと思います。

そして日本の歴史文化を後世に残していってほしいと思っています。

今回も最後まで私のブログにお立会いして頂き、ありがとうございました。

二本松城を食べ歩き おまけ

今回も食事処やスイーツなお店を紹介します。ここでもたくさんいいお店あるので厳選します。

二本松城を食べ歩き 小さな洋食屋さんプティリジエール

ここはまるでペンションみたいな外観のレストランで、チーズケーキや和牛ハンバーグ、ランチがあるのは「小さな洋食屋さん プティリジエール」です。

25席の店内の天井は高く、開放感があります。

カウンターにはグラスが飾られ、ワインを飲みながらハンバーグに舌づつみしたくなる整った背景です。

黒豚ハンバーグ~デミグラスソース(1880円)や黒豚チーズハンバーグオーブン焼き 北海道帆立貝柱のポワレ添え(2200円)などなど聞くだけで、よだれがでる献立が並びます。

営業時間:11:30~15:30 日曜は16:30~19:30も営業あり(月,火曜定休)

☎08052260298

〒964-0003 福島県二本松市二伊滝1ー8ー3

二本松城を食べ歩き 戒石茶屋

お座敷もありくつろぎながらおそばや東北名物のソースかつ定食はいかがですか。

食後のコーヒーとデザートもある「戒石茶屋」へ

板そば・小丼ランチセットの板そばとソースかつ丼と板そばと海鮮丼に板そばと天丼は、どれも税込うれしい1100円で出品です。

その他にも自慢の逸品の大名ソースかつ丼(ヒレ3枚:1420円)などは絶品ですよ。

営業時間:11:00~14:00(月曜定休)

☎0243231055

〒964-0904 福島県二本松市郭内3ー253ー7

二本松城を食べ歩き レストランかすみ

昭和をどことなく感じるたたずまいと店内のふいんきのあるレストラン「レストランかすみ」。

ポークソテーをいただいた後に締めでバナナパフェはどう?ですか。

レトロ感ある店内で食する、ビーフカレーやエビピラフにスパゲティ ナポリタン(900円)は昭和を思い出す~。

1050円メニューの和風ハンバーグやチーズハンバーグ,ポークジンジャー,ポークカツレツにもどことなく昭和人には、懐かしさを感じてまた来たくなるレストランです。

営業時間:11:30~19:00(日曜定休)

☎0243221502

〒964-0904 福島県二本松市郭内3ー287

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