北海道は江戸時代の幕末に蝦夷地(えぞち)と呼ばれていました。
函館山から見える北国の荒波は、いかなるほどの凍てつく寒さだったのでしょうか。
現在では北海道のツアーなどでは、五稜郭(ごりょうかく)内の見学は欠かせなく、五稜郭タワーが造られていて、歴史ドラマや大河ドラマ“新選組!”などで映像化された土方歳三最期の一日の背景を見ることができます。
私は、令和3年に公開された映画”燃えよ剣”で岡田准一さんが演じていたような、幕末の出来事ラストサムライ物語があったことを全く知らない20代のあの頃でした。
そんな新撰組(しんせんぐみ)を背負って鬼の副長土方歳三(ひじかたとしぞう)氏は、新天地の蝦夷地で最期の砦となる五稜郭に来た歴史にふれていきたいと思います。
また、2024.3.27のフジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー番外編」で、新選組の近藤勇氏と土方歳三氏の知られざる素顔に迫るべく、イギリスの超次元能力者ジャッキー・デニソンさんが残留思念よって、二人の出来事の真相に迫りました。
その番組内容も含め自分なりの客観で、新撰組の二人をつづっていきます。
ぜひ今回も最後まで私のブログにお立会い下さい。
五稜郭公園は新選組の鬼の副長土方歳三の聖地!鬼の副長土方歳三がジャッキー・デニソンさんの残留思念により眠る地を探る
五稜郭公園は新選組の鬼の副長土方歳三の聖地!「奇跡体験!アンビリバボー番外編」で超次元能力者ジャッキー・デニソンさんが感じ取ったものは?
2024.3.27の「奇跡体験!アンビリバボー番外編」で、箱館での土方歳三氏の軌跡をたどりました。
そこで、土方歳三氏の子孫に当たる佐藤福子さんは、佐藤家16代目の方ですが、その福子さんの希望は、土方歳三の最期の一日は、歳三氏はどんな思いをしていたのか?
それと今どこで土方歳三氏が眠っているのか?をジャッキーさんに真実を問います。
土方歳三最期の一日はどうであり、どこで土方歳三氏は息絶えて、どこに葬られたのか?をジャッキーさんは残留思念より真意に迫りました。
そこで歴史学者は、馬上で拳銃に討たれ当時の一本木関門で即死したと歴史ではいわれています。
しかしジャッキーさんいわく土方歳三氏は、一本木関門の本来の場所ですぐに亡くならず、意識が失ったり、取り戻したりを繰り返しながら、しばらく意識があってその夜に最期を迎えたと語った。
そして、土方歳三氏はどこに埋葬されたのかという疑問に、あとで詳しくは記しますが、碧血碑に埋葬された伝わりますが、五稜郭内にある一本松の土饅頭(どまんじゅう)といわれる地に、新撰組大志たちが見守る中で、その土饅頭に葬られたと話します。
そこには感動の、ジャッキーさんが残留念から感じとった真意がありました。
すでにYouTubeでその放送は配信もされてますから、興味深い内容なので見て下さい。
ほかにも、土方歳三氏の義兄の佐藤彦五郎(さとうひこごろう)に届けたのは、16歳の市村鉄之助(いちむらてつのすけ)氏が届けた写真はよく知られています。
その他に今まで公表されていなかった遺髪も届けられていた事が、ジャッキーさんは読み取っていました。
そのことには佐藤福子さんも息をのみ、ご自分の顔を一瞬手で覆い、その歴史のことをすぐに語って頂けます。
当時の市村鉄之助がぼろぼろの服で、土方歳三の写真や、遺品を届けた語りべに口を開きます。
佐藤福子さんは、ジャッキーさんをすでに信頼して、誰にも公表していなかった土方歳三氏は、写真と自分の遺髪に300両を鉄之助氏に持たせて「佐藤彦五郎へ届けろ」と命じ、姉佐藤乃ぶへ手紙も添えていたことを語ります。
そのことも触れた、多摩の新選組のはじまりのようなブログも投稿していますので、良かったら後で読んでみて下さい。
五稜郭公園は新選組の鬼の副長土方歳三の聖地!幕末、大政奉還、そして戊辰戦争へ
大政奉還(たいせいほうかん)がされ、約260年続いた江戸幕府が幕を閉じ、土方歳三氏や残る新撰組は京都から会津へ松平容保(まつだいらかたもり)氏と下ります。
その後新政府軍による制圧が西郷隆盛(さいごうたかもり)氏の戦略で始まり、反抗の意を示す会津へも進行が否応なしに差し向けられ、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まり母成峠(ぼなりとうげ)を突破され、会津内に新政府軍の進行を許すことになる。
若者で集めた白虎隊(びゃっこたい)を導入して城の外を護らせ、残りの兵や民を会津若松城に籠城させた松平容保氏らも、新政府軍のミニエー銃やアームストロング砲の威力に城のほとんどが崩壊していきます。
ここに会津市民の悲劇がたくさん歴史で残ることになります。
白虎隊を題材にしたドラマやNHK大河ドラマで綾瀬はるかさん出演の、「八重の桜」でも放送されたように、白虎隊の若者たちの飯盛山での悲劇の自決や、西郷頼母(さいごうたのぼ)氏の妻子たちの非業の自害もあり、なぎなたで新政府軍に立ち向かう女衆も力の差は歴然と見えていて、たくさんの会津の民が亡くなっていきました。
山本八重(やまもとやえ)氏も籠城中ミニエー銃で、小兵隊たちを指揮して応戦しますが、負傷者が多数出ていることも疲労困憊もあり、これ以上の籠城して戦を続けることは偲びえず、松平容保公は約1か月に及んだ会津若松城の籠城戦を解き、開城を決断することを選びます。
その後、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いで惨敗を規した新撰組の隊長近藤勇(こんどういさみ)氏らと土方歳三氏はおちあい、千葉県の流山を陣屋に虎視眈々(こしたんたん)と再起を図ります。
しかし新政府軍に察知されてしまいここも囲まれてしまいます。
ここで近藤勇氏は、土方歳三氏のいうことを聞かず、新政府軍に戦を終わらせるよう嘆願すると動こうとしました。
どうしても頑なに土方氏の話しを聞かない近藤氏に対して、「近藤勇という名前を新政府軍にだすな。そして絶対に死ぬんじゃねえぞ。」
と話しそこで近藤氏と別れ、土方氏は残った新撰組と北へ向かうことになります。
それが二人の最後の別れの場となってしまいます。
五稜郭公園は新選組の鬼の副長土方歳三の聖地!土方歳三が率いる新選組は蝦夷地に新しき国をもとめて
その後残った新撰組と土方歳三氏らは、勝海舟(かつかいしゅう)氏の勧めで大政奉還されてしまった江戸から離れた、さらに北へむかいます。
旧幕府軍にいたラストサムライたちは、蝦夷地を新天地にして新たな国を造ろうとする榎本武揚(えのもとたけあき)氏や大鳥圭介(おおとりけいすけ)氏と共に、今一度新政府軍の明治維新に一泡吹かせるがごとくのり込むのでした。
函館に上陸した榎本氏や大鳥氏、土方氏らは1500人ほどの新政府軍を撃退して、五稜郭を奪います。
まだ松前藩が松前城を護っていたことを懸念した土方氏は、すぐさま兵を引き連れ、松前城を小銃をもたせて攻め入り、応戦する松前城軍の門を突破して松前城を奪取します。
ここに軍事司令官の役目を担う比類なき指導者と土方歳三氏はなっていったようです。
それは、流山で別れ、その後新政府軍に捕まり、先に板橋で斬首となった近藤勇氏はまだ土方歳三氏の中で強く生きているかように、がむしゃらに突き進む歳三氏だったようだ。
五稜郭公園は新選組の鬼の副長土方歳三の聖地!夢の蝦夷共和国造りに土方歳三氏も心砕く
夢の蝦夷地共和国造りを榎本武揚氏と大鳥圭介氏らと共に進める
冬の蝦夷地は荒波と大雪にとざされます。
土方歳三氏の軍略で、蝦夷を平定した榎本武揚氏らはアメリカに習い、総裁を投票(選挙)で決め多くの支持を集めた榎本氏が選ばれました。
そして榎本武揚氏のめざす夢の蝦夷共和国造りに、少しづつ土方歳三氏も死に場所を求めて蝦夷地に赴いたところが、心の行きどころにいつしかしていったのでしょう。
しかし冬の蝦夷地の荒波と暴雨は半端がなく襲い、開陽丸など2隻が沈没することとなり、新政府軍に対しての防衛の切り札を失うこととなってしまいます。
また、新政府軍は大村益次郎(おおむらますじろう)氏を最高指揮官に戊辰戦争からしていましたが、その益次郎氏も冬の蝦夷地の進撃には歯が立たず、春まで攻撃を控えさせていたのでした。
その間蝦夷地にも平穏の時があったことでしょう。
旧幕府軍らで集まって、酒でも酌み交わし、蝦夷地を開拓し、夢の共和国で牧場を営み、チーズをつくってのんびり暮らすなどのひとときの戦を忘れて、そんな会話がなされたと。
土方歳三 最期の一日 新政府軍の蝦夷地の攻撃が始まる
新政府軍の最高司令官、大村益次郎氏の指揮で、蝦夷地の冬の猛威を避け春に入ると早速兵を蝦夷地へ進軍させます。
榎本武揚氏も土方氏もおおよそ予想は立てており函館山を死守するため、新撰組を兵として函館山に鈍中させていました。
鬼の副長と呼ばれた土方氏も近藤勇氏が流山で斬首され亡くなり、新撰組を背負うようになると、まるで人が変わり冗談を言って皆を戦の緊張感を和ませ、酒をふるまいひと時をみなで囲んで高笑いあいます。
明日は新政府軍より総攻撃が始まることをしばし忘れて。
その憩いの時、若い市村鉄之助(いちむらてつのすけ)氏を土方歳三氏は呼びつけ、自分の写真を彼に託し、軍を離れ多摩に届けるよう嫌がる鉄之助を施し向かわせます。
若い日の自分を鉄之助氏に重ねた歳三氏は、彼に託します。
あの有名な自分の映った写真を手渡しました。
その写真には世辞の句があり、”たとひ身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂(たま)は東の君を守らむ”と。
そして総攻撃は始まり新政府軍の大軍は次から次と兵が押し寄せ、まるで蠅のように次から次と入り込んでくる。
松前口が軍艦の砲弾攻撃をうけ、あえなく松前城は崩落します。
二股口も激戦となり土方氏率いる軍は応戦します。
五稜郭に軍を整え終結したとき、孤立無援で新選組が函館山近辺で戦っていることを土方氏は知り、榎本氏の降伏するとの声も聞かず応援に馬を走らせます。
新政府軍が占拠する場に土方氏は公然と馬で乗り込み銃弾で落馬し果てたと伝わります。
新撰組の副長土方歳三氏 享年34歳でした。
土方氏の死を五稜郭で知った榎本氏は、断腸の思いで降伏を決断。
こうして浅き夢に終わった蝦夷共和国は、新政府軍の戦によって平定されました。
新選組鬼の副長土方歳三が最期に駆け抜けた五稜郭タワーと弔いの碑
その後蝦夷地は、北海道と地名が変わり五稜郭の地は残りました。
特別史跡として残された戦場は後世に残され、大正3年より五稜郭公園となり一般公開されました。
現在では明治に取り壊された函館奉行所や板庫、土蔵などが再建されていて、五稜郭タワーも建てられ、珍しい星型の五角の土塁や水堀、石垣の景観を見ることが出来ます。
手こぎボートで堀を巡り、土塁、石垣を見たり春には桜も咲き、夜はスポットライトで幻想的な風景を官能することもできます。
五稜郭から函館山に向かう途中の経路には、土方歳三最期の地碑もあり戦があったことを物語ります。
また函館戦争終結あとは御遺骸はそのまま放置され、戦死者の埋葬は禁止されていたといいます。
しかし、朽ち果てる戦死者を哀れんだ柳川熊吉(やながわくまきち)という影の立役者がおり、実行寺の住職の協力もあり、函館山の麓付近を購入して、土方歳三氏や戦死者約800人の埋葬をし、明治7年には、祭祀が許され「碧血碑(へきけつひ)」を建立し戦死者の弔いを記した。
そんな先駆者たちの厚き思いに私事きですが敬意を称します。
五稜郭公園は新選組の鬼の副長土方歳三の聖地!あとがき
かつて日本の北の北海道には、西から追いやられてきたアイヌ人が住みついて本土の人間にとっては異国人のような扱いをしていたとか。
私の住む川崎市には”鹿島田(かしまだ)”という地名がありますが、古にはアイヌ人の居住地で「クヮシマダ」と呼ばれていたと、中学生の国語の授業で聞いたことを覚えています。
その他には筑波:つくぱや石川県の若狭:わっかさなど探すと南は沖縄・九州にもアイヌ人の由来があります。
20代に新婚旅行で(うん年前に離縁してますが)北海道へ1週間のバスツアーで行ったことがあります。
その時印象に残ったのは、ツアーガイドさんが話していた事が記憶にあります。
北海道は網走刑務所が明治に入り創建されて、囚人たちが人柱になるように、茂った木々の大木の上によじ登り、その大木に縄で体を巻き付けて重りの役目をしてその大木を倒していったと。
その北海道の切り開けた道に命を落としていった囚人たち存在があった話が深く残っています。
今は切り開かれて広くなった曲がりくねるこの道を、今バスは走っているんだなあなんて思いにふけってガイドさんの話を聞いていました。
また松山千春さんの出身の足寄で、アイヌ人のつくったきつねの木彫りの置き物をおみあげに買って帰ったことを覚えています。(今も部屋に飾ってあります)
また、私の地元の川崎からも近い土方歳三氏や近藤勇氏たちの育った多摩から、遠く離れた現在の北海道で夢半ばに散った土方歳三さんは、ラストサムライと呼ぶにふさわしい人だと改めて感じ入ります。
激動の幕末から明治維新を駆け抜けた志士たちがいて、今の日本の仕組みの基盤になっていったんだろう、今の平和な?(他国、ソ連とウクライナが闘争を続けていますが)世の中で暮らせているんだと感じます。
これからもそんな歴史人に史跡や城跡のブログを続けていきたく思います。
今回もお立ち寄りしていただきありがとうございました。
新撰組の鬼の副長土方歳三はラストサムライ おまけ
五稜郭近辺はたくさんのグルメ店が並んでますが、その中で一部ご紹介します。
@函館でカレーはいかがでしょうか。「函館カレーエクスプレス 五稜郭タワー店」で土方歳三セットがあります。
明治初代に作られたカレーを今に表現された中辛ポークカレーがおすすめです。
他にも、ポークカツカレーやホタテカレーにイギリス風カレー、ベジタブルカレーを星形の五稜郭を背景に堪能してください。
函館市五稜郭町43-9(五稜郭タワー2F)
@五稜郭でラーメンするならここかなあ「あじさい本店」の味彩塩ラーメンがおいしそ~。
味噌らーめんをこよなく愛する方でも(私です)ここは北海道、塩バターラーメンで手を打ちましょう。
あっさりしたスープにバターのコクと香りがほんのりして、北海道ってやっぱり最高!
どうしても塩ラーメンが受け付けられない方も白みそラーメンに赤みそラーメンなどもございます。
北海道函館市五稜郭町29-22
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