2024年1月1日に起こった、能瀬半島地震の被害に遭われた方たちには、心よりお悔やみ申し上げます。
救援物資が地震による影響で、なかなか支援が届かない状況などや、電話に電気,ガス,水道が使えない状態で、現在の状況やこれからの情報なども途絶え、非常に不安な日々が続いている状況のさなか、現地の方々は不便と、不安な現状になっていると思います。
1月22日のNEWS番組では、徐々に寸断されていた道路の改修も行われ、水道の復旧工事も回復に向かっておる情報を目にして、頑張ってくださいと祈ることしかできない小さな自分がいます。
私が考えた末、たくさんの募金をすることは出来ませんので、少しのことしかできませんが、石川県産や金沢のお土産物産展などに会社帰りに立ち寄って、何か購入することによって、少しでも救援のお役に立ってもらえればと思うのがやっとです。
そんな被災の時期ですが、石川県金沢に一人でも多くの方が観光に行くことで、そこから救援につながってもらえたらと思い、このブログを再度投稿しました。
大きく金沢の街を戦国時代に発展させ、加賀百万石の礎を造った前田利家(まえだとしいえ)氏とまつゆかりの金沢城の石垣の歴史や城下を巡っていきます。
今回もこのブログを最後までお立会いください。
金沢城の天守閣はなぜなくなった?金沢城の石垣とその歴史は?
金沢城の天守閣はなぜなくなった?石垣とその歴史は?加賀百万石の礎を造った前田利家の大天守
さて金沢城公園を観光して、いく時間か周っていると皆さん疑問に思われる点が出てこられるかと思います。
金沢城ほどの大きなお城なのに天守閣はどこに?ときょろきょろし始めるのでは。
城を少しでもかじってきた人なら、加賀百万石と言われた有名な戦国武将の前田利家氏とおまつ様のいた城に”天守閣”が無いなんて、そんなことはないでしょう!と。
だって戦国の城といえば、大阪城や松本城、熊本城、姫路城、小田原城にだって天守閣ってあったよね~って。(ちょっとしつこかったかな)
しかしそうなんです。
当時、前田利家氏や利長氏に改修された金沢城郭には、天守や二ノ丸、三ノ丸、新丸、北ノ丸などもあり、五大老の職を大坂で担っていた前田家に相応(ふさわ)しい、五重の天守が築かれていたといわれています。
1587年に高山右近(たかやまうこん)氏も携わりしっかりした石垣のうえに大天守が築城されていました。
しかし残念なことに1603年には、落雷により天守は消失してしまい、その後は徳川幕府に遠慮もあって代わりに三重櫓が築城され、天守は再建されることなく明治維新を迎えました。
今までもこれだけ金沢城公園は県の方でも、力を注いで門や櫓に橋など復元と修復を続けてきています。
ですが、江戸初期に消失してしまった天守の資料がほとんど残っておらず、さらに歴史をたどると金沢城は何度も火事にみまわれて、江戸時代においても多くの修繕を重ねてきたお城なんです。
忠実な復元のみならず、資料自体が少なくては復元許可が降りなかったことが今日の現状です(残念です)
金沢城の天守閣はなぜなくなった?金沢城の復元プロジェクトの総仕上げへ
現在復元されてきた金沢城址の姿は、江戸時代中期の様子が復元されてきました。
何度も繰り返すように金沢城址は、江戸時代も明治に入っても天災と火事にみまわれてきたお城でした。
本丸にあった天守が消失し、その後藩主のための二ノ丸を拡張して御殿を新たに造営するも、また大火にみまわれ、再建を繰り返しされてきました。
明治には金沢城跡は軍事施設になっていました。
1996年までかつて城だった敷地に金沢大学丸の内キャンパスがここにあったことが、逆にまるで夢だったかのように、現在は金沢城公園は金沢城としての姿が復元されてきました。
そして、金沢城最後の総仕上げともいうプロジェクトが始まっています。
すでに金沢城二ノ丸御殿の復元へ向けて、2020年より埋蔵文化財調査が行われており、「史跡金沢城跡保存活用計画」が文化庁より了解も得られています。
2001年に復元されている五十軒長屋との位置関係も、調査により詳細も明らかとなっています。
実際復元には明治初期に撮られた写真が残っていました。
しかし加賀百万石と呼ばれた加賀藩の御殿は、それは豪華絢爛の内装で彩られていたところをどう復元していくかにありました。
その中で金沢城に関する資料調査をすすめると、1811年の二ノ丸御殿の再建工事に採取した、前田家御大工頭が残していた「二之御丸御殿御造営内装等覚及び見本・絵型」が金沢市立玉川図書館の加越能文庫で確認され、夢の実現へ大いなる一歩となりました。
その中には、建物の仕様だけではなく、詳細に残された飾り金具の絵図や内装に使われた唐紙の実物見本も収録されていました。
このほか御殿の間取りや寸法が記された絵図が納められていました。
石川県ではこれまでの復元工事で培った方向で、史実を尊重した本物志向の姿勢で復元工事の取り組みを行っていく方向性です。
二ノ丸御殿は、大きく3つのエリアに区分されています。
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- 表向き:儀礼や政務の場
- 御居間廻り:藩主の居住空間
- 奥向:女性たちの居住空間
先ずは表向きと呼ばれた玄関口から取り組まれていきますが、総ケヤキ造りで欄間彫刻が飾られて、折上各天井に黒漆が塗られ、杉戸には総金箔張りで描かれた虎の障壁画が飾られるなど加賀百万石の大名屋敷にふさわしい豪華絢爛な御殿の再建がされていくのでしょう。
おおよそ200億円かかるといわれる復元プロジェクトは、この先2032年の完成をめざして進んでいきます。
私もまだ生きていて、体が動ければぜひとも観光に金沢城址へ必ず行きたい、と節に思っています。
金沢城の石垣とその歴史は?加賀百万石の金沢城を観光の見どころは
さて、NHK2002年大河ドラマの「利家とまつ」の放送で、この金沢城の城下町は一段とにぎやかになりました。
その金沢ですが、街並みも近代化して、商業施設のビルや雑居ビルなどが駅周辺に立ち並んでますが、ひとたび城下へ入ると、そこは江戸時代にタイムスリップしたかのような木造建物の店や民家があり、観光に来た方たちが金沢に来てるんだと実感させる空間と面影がありますよね。
さて日本100名城に認定されている金沢城址は、前田利家氏が犀川と浅野川に挟まれた大地に築城させた平山城です。
金沢城を観光の見どころは石川門や高麗門、表門北方太鼓塀、表門南方太鼓塀などや三十軒長屋に鶴丸倉庫が現存されて、国の重要文化財にもなっています。
何といっても金沢城といえば、まず目に飛び込む独特の海鼠壁(なまこかべ)でしょう。
この壁が石川門をはじめとして、城内を観光されるといたる所で目にされるでしょう。
正方形に造られた黒瓦を、互い違いに均等に腰高まで埋め込まれた模様が美観を際立てています。
壁面に瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法のひとつで、目地の継ぎ目がナマコのように見えることから”なまこかべ”と呼ばれています。
本来は防火や防水を目的につくられた壁で、金沢市ではおなじみの壁づくりです。
街の民家でもこの様相がそこここで見ることができます。
しかしこの海鼠壁は、いざ戦になった時には実践的な壁で、海鼠壁の瓦をこわして穴をあけることで、鉄砲を撃つ隠し狭間(かくしさま)だったといわれています。
また金沢城内の櫓や門など建物に使われる屋根瓦は、北国の気温に非常に対応し、耐久性のいい鉛で造られた鉛瓦(なまりがわら)を載せています。
これも戦国時代に築城された建造家の知恵で、いざ籠城戦になったときに鉛瓦を溶かして、鉄砲の弾薬に使用も可能とした備えでもありました。
また、粋な加賀のお城の石垣には、藩主屋敷には切込みはぎできれいに整理されて積まれた石には、赤戸室、青戸室の石が使われて美観のいい石垣の見栄えを強調しています。
さらに金沢城は”石垣の博物館”といわれていて、石川門をくぐった中には広い枡形(ますがた)があって、そこの向かい合わせの石垣には、方や切込みはぎで、その横側は打ち込みはぎになっているという美観と遊び心をもった石垣造りが見られます。
お城好きの石垣萌子には、たまらない造りに魅了されてしまいますね。
二の丸広場を下ったところに玉泉院丸庭園が復元されていて、2代目藩主利長正室の玉泉院(ぎょくせんいん)の屋敷が置かれていた場所です。
3代藩主利常氏が母玉泉院がなくなった後に玉泉院丸庭園をその場所に造営しました。
ここにある色紙短冊積石垣(しきしたんざくいしがき)に赤戸室、青戸室の石が使われて見栄え良く、段落ちの滝を演出する長い石垣を巧みに使って、滝が落ちてくる風景を映えさせています。
また玉泉院丸庭園から望む高低差22mになる石垣郡は圧巻です。
さらに安政5年の幕末に再建されている三十軒長屋が見えます。
ここにも赤戸室の石垣と青戸室の石垣がたくさん使われており、またその石垣の組み方も建物の表側と裏側で違う工法になっていますので、そんなことも含めてぜひ金沢城散策を楽しんで頂けたらと思います。
加賀百万石の金沢城の簡単歴史
金沢は織田信長(おさのぶなが)氏がこの地に天下布武(てんかふぶ)のため進行し、一向一揆衆(いっこういっきしゅう)の拠点だったこの地を武力により平定させました。
その陰の立役者は前田利家氏といわれています。
功を上げた佐久間盛政(さくまもりまさ)氏が、織田信長公の命を受け最初の金沢城を築城します。
しかし「本能寺の変」で、明智光秀(あけちみつひで)氏の謀反によって織田信長公が倒れると、派閥争いで羽柴秀吉【(はしばひでよし):のち豊臣秀吉(とよとみひでよし)】氏が”山崎の戦い”で明智軍を打ち破り、その後”賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで”柴田勝家(しばたかついえ)氏を打ち破ります。
この賤ケ岳の戦で、柴田軍に就いた佐久間盛政氏は討ち死にし、その後豊臣政権に入ると秀吉公の命で、前田利家氏の所領になり、加賀百万石にふさわしい石垣造りの天守や本丸が築かれ、城下町も整備されていきました。
その金沢城の地を前田利家氏は、一向衆のからの金沢御坊を造って繫栄していた金沢を「尾山」と改下めさせ、城も金沢城から尾山城としました。
その祖前田利家氏の像は石川橋から入って石川門のずっと右隅に鯰尾兜(なまずおのかぶと)と鎧(よろい)をまとった姿で、この金沢城下を見ています。
ちなみに利家正室のおまつの像は、金沢公園から出て前田利家氏とおまつ様を祀る尾山神社内にひっそりとあります。
ここも金沢城公園に行かれたら、ぜひ見学しておきたい場所ですよ。
しかし話を戻すと2代目嫡男の利長氏は、昔からある金沢の方がやはりいいだろうということで、尾山から金沢へこの地の名を戻したと伝わります。
そしてこの金沢は、明治維新を迎えるまで前田家は、第14代加賀藩主前田慶寧(まえだよしやす)氏まで続いていきました。
明治時代に入ると全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)にて明治政府は、金沢城に陸軍歩兵第7連隊を置き、金沢城は廃城令から外れ存続されます。
しかし明治14年に金沢城内で火災が起こり、石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫以外はすべて建物は残念なことに焼失してしまいました。
そのあとも第2次世界大戦が終結するまで、陸軍司令部が置かれています。
昭和に入り昭和24年に金沢大学の丸の内キャンパスが開校しました。
第11代加賀藩主前田治脩(まえだはるなが)氏により設立された藩校「明倫堂」が金沢大学の前進といわれますが、その由縁で金沢城址内にキャンパスが開校されたようです。
ですが、金沢大学側ももっと大学内を増築して、発展していく移行に反して、それを行うには歴史的文化史跡の場所にて、発掘調査が随時伴いました。
発掘調査報告により建築許可が降りない状況もあり、金沢大学は現在の金沢市角間にキャンパスを移出しています。
それに伴い金沢城址は1996(平成8)年に金沢城公園と改め、整備が開始されていきます。
ここから現在の金沢城の復元が始まっていきますよ!!
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1999年(平成11年) – 金沢城の復元整備事業の第1期工事を着工されます。
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2001年(平成13年) – 第1期工事により、菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元完了し、金沢城公園と改称された。復元に当たって実際の木材は六寸角だが現代の耐震建築基準に合わせて八寸角が使われました。
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2006年(平成18年) – 日本100名城に選定された。石川県と金沢市は、金沢城址を中心とする「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産(文化遺産)への登録を目指し、「世界遺産暫定一覧表」への記載を国(文化庁)に共同提案したが、継続審議が適当とされ追加記載には至らなかった。
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2006年 – 2014年 第2期復元整備事業石川門の保存修理、橋爪門櫓門の復元整備などが行われた。金沢城の中核をなす二の丸御殿の復元については、2007年9月19日の石川県議会において谷本知事が「絵図、文献資料の解読に一定期間が必要であり、現時点では復元は困難(要旨)」との考えを示した。
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2008年(平成20年) – 金沢城跡として国の史跡に指定された。
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2011年(平成22年) – 河北門と、いもり堀(一部)が復元された。
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2013年(平成25年) – 石川門改修工事完成。
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2014年(平成26年) – 玉泉院丸跡の暫定的整備が完了。
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2015年(平成27年) – 玉泉院丸跡に玉泉院丸庭園と玉泉庵がオープン。
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2017年(平成29年) – 鶴の丸休憩館がリニューアルオープン。
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2018年(平成30年) – 鼠多門・鼠多門橋の復元が開始されます。
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2020年(令和2年) – 鼠多門・鼠多門橋の復元完了、一般公開中。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
加賀百万石の金沢城にアクセス
公共交通機関(電車)
●京都駅~近江今津~敦賀~福井~小松~金沢駅(サンダーバード41号特急金沢行:JR西本):約2時間30分 ・金沢駅から金沢駅通りを武蔵交差点へ向かい百万石通りをまっすぐ行くも左折ルートで尾山神社から周るって入るもよしです。:徒歩約2km
●長野駅~富山~金沢駅(かがやき517号かがやき金沢行:JR北陸新幹線):約1時間20分 ・金沢駅から金沢駅通りを武蔵交差点へ向かい百万石通りをまっすぐ行くも左折ルートで尾山神社から周るって入るもよしです。:徒歩約2km
マイカー
●京都東Ⅰ.C~大津S.A~草津P.A~多賀S.A~賤ケ岳S.A~敦賀JCT~南条S.A~尼御前S.A~徳光P.A~金沢西料金所で北陸自動車道下車。:約2時間30分
・国道8号を進み示野中町を右折して、196号線(上安原昭和町線~観音堂上辰巳線)を進む。:約6km
●(上越ルートと安曇野ルートがあります。時間的に早い上越ルートを記載)
・国道18号線を進み信濃町野尻より上信越自動車道 に入る 信濃町Ⅰ.C~妙高S.A~上越JCT(ここより北陸自動車道:春日山トンネルあり)~名立谷浜S.A~蓮台寺P.A~有磯海S.A~小矢部砺波JCT~小矢部川S.A~不動寺P.A~金沢東料金所で下車。
・田中交差点を左折して200号線(東インター大通り)を進み森山北信号を右折した一般道を進み157号線(百万石通り)の先にあり。
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
金沢城公園駐車場
●石川県兼六駐車場
普通車1時間以内350円 以降30分/150円(5台まで電気自動車EV充電システムがあり)
*石川県観光物産館で3000円以上の買い物をすると1時間分無料になる情報ありです。
石川県金沢市小将町1−53
●金沢駅西口時計駐車場
普通車1時間以内300円 以降30分/100円
金沢市広岡1-4ー1
●名鉄協商パーキング 金沢ニシパ
普通車1時間おき/200円
金沢市広岡1-9-5
●金沢駅東駐車場
普通車1時間以内300円 以降30分/100円
金沢市昭和町16-2
金沢城の天守閣はなぜなくなった?加賀百万石の金沢城 あとがき
金沢城といえば、菱櫓と五十間長屋のビュースポットが定番でしたが、この先二ノ丸御殿が復元されると、人気ポイントは変わっていきそうですね。
利家とまつが育んだ尾山はこれかもたくさんの方が訪れ、楽しむ憩いの場所になっていくんだと感じます。
余談ですが、ここにあの戦国の時代を自由奔放に生きた、前田慶次郎(まえだけいじろう)氏も過ごしていたことも忘れてはいけないですね。
卒爾(そつじ)ながら関東神奈川県に住む私は、当面は東京大学の本郷キャンパスにある旧加賀屋敷御守殿門跡の赤門を見学し、金沢城二ノ丸御殿の復元完成を楽しみに待つとします。
そしてこれからもこの歴史を後世に伝えていってほしいと思っています。
また金沢城に関して他にもブログを投稿しておりますので、よろしかったら読んでください。
このブログで被災地の方たちにとって、一人でも多くの方たちが、観光にいくことで、救援につながるようなって頂けたらと思っています。
がんばれ石川県、がんばれ金沢!
私のブログに今回も最後までお立ち寄り頂きありがとうございました。
加賀百万石の金沢城を食べ歩き おまけ
今回はお題の金沢城の城下周辺にいいお店を見つけに練り歩きましょう。
金沢城を食べ歩き 日本料理 嬉ぐ(うらぐ)
男の隠れ家的な日本料理嬉ぐですが、予約なしならランチタイムはお弁当というメニューで、ミニ懐石が味わえます。
カウンター席7つとテーブル2人用2つに4人テーブル1つにまとまっています。
ランチタイムが11:30~14:30 ディナーは17:30~21:30です。
夜の部はおまかせメニューの6000円コースになっています。
営業時間:11:30~22:00(水曜定休)
☎0762541123
石川県金沢市大手町2−25 レジデンス 大手門 1F
金沢城を食べ歩き 食堂竹乃家
地元なら、気さくな店の雰囲気があり肩を張らずに定期的に食べに行ってしまうお店と感じました。
定食屋さんの定番のメニューで、ハンバーグ定食や生姜焼き定食、アジフライ定食、とんかつ定食とあります。
うどんやラーメンにやきそばもあり、お昼のおなかを満たしてくれる素朴な定食屋さんです。
生たまごがのっかった生カツ丼は、口コミ良好です。
営業時間6:00~16:00(月~金曜) 6:00~14:00(土曜日)
日曜、祝日定休
石川県金沢市西町藪ノ内通21-2
金沢城を食べ歩き デュ・ボンタン
食後か3時のおやつにちょっと一服でも、と思ったら立ち寄りたいお店。
清潔感あって、ガラス張りで明るい店内は、総座席48席で、車いすの方もバリアフリー対応なので気楽にはいれます。
飲み物とタルトなど頼むと、ケーキをのせたおさらにソースで描かれた絵がなんともかわいらしいです。
誕生日のおみあげにオリジナルホールはいかがでしょうか。
お店おまかせの8つのカットされたケーキを組み合わせた、タルトや生ケーキオリジナルの組み合わせで、家族に持ち帰って食べるのに便利な一品です(お値段¥5190テイクアウト用)。
営業時間:10:00~18:00(火曜定休)
☎0762829948
石川県金沢市袋町1−1ー1 かなざわはこまち
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