新田金山城跡・石垣の城郭!スタンプをもらいに行く新田義貞ゆかりの新田の庄があった山城は面白いゾ!

歴史・文化

関東の城跡には石垣を積んだ城は、ほかの地域に比べるとそれほど多くはありません。

土で成ると書いて、城の土塁で防御する即席型の関東ローム層の地形を生かしたやり方がほとんどです。

しかしこの新田金山城跡は山城であるのにも関わらず、石垣がたくさん採れる石の宝庫に城を構えた一石二鳥の戦国の城だったのです。

「ぐんまこどもの国」と「高山公園」に、はさまれるように位置するこの鎌倉時代に繫栄した、新田氏の新田の庄のこの地に残る「新田金山城跡」をめぐっていきます。

石垣萌子(いしがきもえこ)の私があなたに贈る、必見の山城です。

ぜひ、いいと思ったら足を運んでもらいたいものですので、最後までこのブログにお立ち寄りください。


新田金山城跡・石垣の城郭!スタンプをもらいに行く新田義貞ゆかりの新田の庄があった山城

新田の庄はとんぼがたくさん飛び交う自然豊かな町

サイクリングで行くと、秋にはたくさんの赤とんぼが飛び交う自然豊かな地域です。

合併前の木崎町にあたる土地に日光例幣使街道木崎宿(にっこうれいへいしかいどうきさきしゅく)が存在し、明治時代初期まで遊女の街として栄えていたようです。

当時の遊女は越後から売られてきた娘達であり、彼女らの歌った越後口説が地元民に伝承されて、木崎に伝わる木崎音頭や八木節になったといわれています。

ときに1333年、執権北条高時(しっけんほうじょうたかとき)公を新田荘(にったのしょう)を拠点とする新田義貞(にったよしさだ)軍と、隣の国の足利高氏(あしかがたかうじ:のち足利尊氏)氏が挙兵し、鎌倉と京の六波羅探題(ろくはらたんだい)にそれぞれ攻め込んで、約150年続いた鎌倉幕府を滅ぼします。

ここから後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による「建武の新政(けんむのしんせい)」の政(まつりごと)が行われていきます。

しかし貧困な民の生活は鎌倉時代と変わりませんでした。

やがて京では反乱が起こるようになり、領地が隣接する足利尊氏氏とともに新政権の軍事を担いますが、当然意見の違いによって一触即発となり、南北朝に分かれて長く抗争することになる歴史が続くことになり、そのはざまに足利尊氏氏によって「室町幕府」が開かれていきました。

その後、南朝滅亡とともに新田氏本流も姿を消しますが、「新田金山城」の岩松氏は新田氏の後裔(こうえい)を称し、後年の徳川氏はその傍流を自称していきます。

さて、新田金山城の入り口というか登城口に、平成21年5月に解説された太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設があります。

ここは新田金山城の古くからの、新田の庄の頃歴史から、民の暮らしなどが簡単に知れます。

新田金山城の城郭模型があり、往時の金山城の雰囲気が感じられます。

またパンフレットもありまして、新田金山城跡を散策する前の情報を知ることができます。

お城スタンプもここで押していくことが出来ますので、必ず寄って行くことをお勧めいたします。

別件ですが、新田義貞氏にもクローズアップした大河ドラマ「太平記」に因んだ、ブログを投稿していますので、こちらも後で読んでみて下さい。

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新田金山城は山城に築かれていた素晴らしい石垣の城

新田金山城はなかなかのハイキングコースにもなる山城です。

まずは竪堀の看板があり、この先に待ち構えている石垣というフォアグラの期待感が膨れます。

中腹に着くと道が分かれていますので、先に西矢倉台跡側を見て物見台の反対の道を次に進むといいと思われます。

そうすると楽しみと、期待感爆発の物見台下通路・馬場下通路の石垣群がお出迎えしてくれます。

さらに先に進むと、馬場曲輪跡に迫力の大堀切があります。

少し折れ曲がった先に関東平野を一望に収めることができ、西方は一段低くなっており月ノ池があります。

そしてそして、周りに人が居ても思わず「す、すげえ」と声が出てしまう大手虎口の石垣群に、しばし心を奪われて、足が止まったまま遠目から見入ってしまうのでは。

またもう一つ大きな日ノ池がこれまた圧巻です。

この井戸は、当時色々な儀式などの祝い事や祈願の場としても使われていたようですが、戦の籠城戦にでもなると水は大切な資源ですから、これだけ大きな井戸があれば、2~3か月は凌げるというものですね。

西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられています。

再建されているカマド跡や南曲輪休憩所などは、ちょっとした昔の木造建屋の感じにほっこりします。

また南曲輪には中島飛行機の創設者である”中島知久平氏”の胸像が建てられています。

戦国時代の関東の山城には本格的な石垣普請の城はない」という従来の定説が発掘調査で覆されたほど、多くの石垣が多用されています。

金山頂上には、新田神社が建立されていて、当時の石垣もしっかり苔(こけ)がついて残っていて、武者走りの痕跡も見ることが出来て、ここで登城印がを購入することが出来ます。

背後の斜面には石垣の一部が残存しており、往時の様子を現在に伝えています。


新田金山城跡・石垣の城郭!新田の庄のハイキングコースもある山城の城郭

金山城は、金山山頂から樹根状に延びる尾根部を中心に縄張りされた、核となる四つの主要部からなる山城です。

金山城の主要部を山頂部の実城域とし、北方の北城域、西方の西城域、南方の八王子山ノ砦域があり、大小の堀切によって分断されています。

その広さはほぼ金山全山の約300haに及びます。

金山城の縄張りは、当初の城普請が70日余りと記録されていることから、一時期に完成したのではなく、大きく四つの時期に拡張されていった変遷を見ることが出来ます。

第一段階…金山城の築城は金山山頂を中心とした一部の空間で工事が行われ、実城、二ノ丸、三ノ丸程度の規模だったと考えられています。

第一期は、築城時からの初期段階で、日常の生活空間である館と山城がまだ一体化していない段階と考えられます。

第二段階…山城と日常空間とが一体化し、本城として拡張されていく時期と考えられています。

金山城の内乱として明応4年(1495)に起こった明応の乱では『松陰私語』の記事に「真城」(実城)と「中城」の存在が明記されています。

この「中城」は、馬場曲輪、馬場下周辺に当てることが出来るのではないかと考えられています。

このころの金山城の縄張りは、南方が御台所曲輪、南曲輪とその帯曲輪、西方が馬場曲輪、馬場下を含めて物見台下堀切まで広がったと考えられます。

第三段階…金山城が有力戦国大名により戦災を頻繁に受けて、修築がしばしば行われた時期で、永禄9年(1566)から天正12年(1584)の小田原北条氏に金山城を明け渡すまでと考えられています。

第四段階…小田原北条氏の支配下時代と考えられています。

金山城では、西城域西端の見附出丸や八王子山ノ砦から尾根伝いに延びる二重土塁と堀切などに小田原北条氏特有の縄張りが顕著に見られます。

これらは、この第四期における普請になるものと考えられています。

以上のように、金山城は改修、縄張りの拡張を重ねて、今に伝えられる規模の山城になったのです。(金山城パンフ.inddより)

新田の庄の歴史 国指定史跡新田金山城跡の発掘

新田金山城は、天正18年(1590)小田原北条氏の滅亡により廃城になりました。

このとき、土塁や通路など城の主要な施設は破壊されてしまいました。(これを「破城」といいます)

暴風雨にさらされた金山城跡は、多量の土砂によって埋没し、樹木が生い茂り、城であった頃の威容さが覆い隠されてしまいました。

江戸時代の金山は、「献上松茸(こんじょうまつたけ)」の御林として、当時の役人の厳しい管理下に置かれました。

しかし、このことにより、幸いにも金山城の遺構はさらなる破壊を逃れ、現在に残されるに至ったと言えます。

その後、金山城跡は、昭和9年(1934)に金山山頂付近の18.3haが国の史跡として指定を受け、憩いの場として親しまれていました。

平成7年(1995)より、史跡の保護や、歴史学習及び憩いの場として、史跡の積極的な活用を図るために『金山城跡環境整備事業』が始まりました。

こうした市民の方々の活動により今の新田金山城跡は、安全に見学ができるように城跡の整備が行われていき、今日に至ります。

新田の庄の金山城おんな城主のエピソード

由良家に嫁いだ正室で、夫の死後に出家して妙印尼(みょういんに)輝子を名乗りました。

諸説ありますが、妙印尼は館林城主の赤井氏の出と推定されています。

下剋上(げこくじょう)により金山城城主となります。戦国の世に突入すると、関東の多くの武将がそうであるように、上杉・武田・北条の巨大勢力に翻弄され続けます。

しかし、由良家は堅城・金山城を拠点に巧みに生き残り、着実に地元での勢力を拡大しました。

やがては現在の群馬県東部の覇者にまで昇りつめます。

しかし後北条氏に与していた金山城は、戦国時代も末期をむかえると、それまで有力武将がしのぎを削ってきた関東は、ほぼ小田原の北条家が支配するところとなっていました。

第5代当主となった北条氏直は、常陸(ひたち)の佐竹を攻めることを口実に、金山城の借用という無理難題を由良家に突き付けます。

この時、当主の由良国繁(ゆらくにしげ)氏と弟の長尾顕長(ながおあきなが)氏の妙印尼の息子二人は、氏直の要請で小田原城に赴いたまま実質幽閉されてしまいます。

由良家の家臣団は、北条家に対し当主らの変換を求めます。

これに対し、北条氏邦(ほうじょううじくに)氏・氏照(うじてる)氏が兵を率いて城主不在の新田金山城を攻撃することとなりました。

しかし当主の母である妙印尼は、残った家臣たちを指揮して籠城戦(ろうじょうせん)にもちこみました。

リーダー不在で強敵を前にした者たちを束ねるには、それ相応の統率力が必要ですよね。

妙印尼はこれをやってのけ、更には後北条家と対立する常陸の佐竹義重(さたけよししげ)氏(18代当主)と連携し、関東の覇者に立ち向かいました。

交渉の結果、同年和議が成立したと伝わ、由良家は当主の解放と引き換えに堅城・金山城を北条側に明け渡し、桐生城に移ることとなりました。

そして新田金山城は1590年の小田原討伐で、小田原城開城まで落とされずに存続された伝わります。


新田金山城へアクセス

*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください

東京駅 to 金山城跡

新田金山城の周辺でランチしよう!

金山城の付近は登り下りが多いところですが、少し離れたところの紹介もありますがよかったら、ランチに行ってみて下さいなお店の紹介です。

新田金山城の周辺でランチ フタバ商店

カレーが嫌いな方はいないでしょう。

金山城を満喫した後でも先でも、「フタバ商店」はスパイスのきいた本格的カレーが食べれます。

カウンターとテーブル席とでなる内装は、おしゃれな中2階からの食事もできます。

辛さが際立つスパイス増しミート(1100円)やスパイス増しトマトミート(1150円)などにサラダ付きメニューのドライキーマ(1100円)やバーガー風キーマ(1320円)もうまそうです。

辛いのが苦手な方メニューの海老出汁キーマや牛出汁キーマもおすすめです。

営業時間:12:00~15:00

☎09021435236

〒373-0022 群馬県太田市東金井町1906−2

新田金山城の周辺でランチ 串善

お昼からがっつりいくならここ串善がおすすめです。

しかもコストがお得で、特上ロースかつや特上ヒレかつに特上海老フライ(各2200円)で、ご飯と味噌汁ももちろんついてくる。

ここにトッピングで、にんにく揚げ(1個)[100円]と自家製ソース大(500円)か自家製ソース小(300円)をかけてお召し上がれ。

東武桐生線の三枚橋駅から近いお店です。

営業時間:11:30~14:00(土日は13:30まで) 17:30~21:00[水曜定休]

☎0276223725

〒373-0053 群馬県太田市鳥山町881−10

新田金山城の周辺でランチ 山口屋

アットホームなお店で、大きな赤屋根看板のやきそばが目印の山口屋の看板メニューは、約500gの何と450円のやきそばでーす。

何年も変わらずでこのお値段で頑張り、口コミもいいし、日本テレビ系の毎週火曜日19時の「オモウマい店」でも紹介されたお店です。

お客さんに喜んでもらえるのが好きと、毎日がおまけだそうです。

肉やきそばやじゃがやきそばにからあげ7個もそれぞれ好評で、持ち帰れりで買ったからあげが、家まで持たなく帰宅途中で平らげてしまう人が続出⁉

営業時間:11:00~13:00(月火曜定休)

☎0276222538

〒373-0812 群馬県太田市東長岡町1350−1

新田金山城の周辺でスイーツ 手作りケーキ工房 リヴ・レゾン

お持ち帰りは気をつけてもらいながらも、「手作りケーキ工房 リヴ・レゾン」で美味しいケーキをテイクアウトされたら、ゆっくり家族と一緒にスイートなケーキを。

太田市東長岡町1465-3

新田金山城跡・石垣の城郭!スタンプをもらいに行く あとがき

史跡金山城跡ガイダンス施設がある所から、登山口で山歩きして登っていくルートと、さらに車などで321号から金山城路線を経由し金山城址用の駐車場までいく事も可能となっています。

何といっても石垣が魅力の山城ですが、そこに大手虎口の石積に圧巻に圧倒されっぱなしで、思いがこみ上げます。

その中にしっかりと水の処理と、水の確保が考えられており、石垣に下水用の水路がほどこしてあります。

そして、他にはない巨大な水の確保を考えた、日の池、月の池が石垣によってめぐらされた井戸があり、戦の時の水の大事さを取り入れられている。

この山城の迫力や楽しさは行った人にしか感じられないもので、1回行った方も2回、3回と行きたくなる城です。

この群馬県にある新田金山城は本当に面白いです。

ぜひ機会があれば足を運んでみてください。

では最後まで私のブログにお立ち寄り下さりありがとうございました。



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