Googleで「仙台」をアクセスすると必ずでてくるキーワードは、”伊達政宗(だてまさむね)氏”はもちろんのこと、「青葉城(のちの仙台城)」、「広瀬川」、「仙台七夕まつり」、「ずんたもち」とどれも政宗公がからむ内容のものがでてきますね。
それもそのはず、奥州の英雄の伊達政宗公の時より始まったとされる、仙台七夕まつりはコロナの影響もありましたが、毎年華やかな飾りが施され、たくさんの出店も並び、たくさんの人々で賑わう日本有数の大きなイベントのひとつです。
しかしその仙台は、東北震災において自然の猛威により、大きな被害を受けました。
仙台市の市民はこの自然による現実を突きつけられ、苦しみに落ち込みこの状況を恨んだと思います。
しかしそこから奮起して、大きな礎(いしずえ)をつくっていった伊達政宗氏の意思を受け継ぐかのように、立ち上がりさらに先へ進んでいく一歩が仙台城跡なのかと思われます。
その地域活性といえば地元の方々には失礼かもしれません。
ですが、礎を築いた伊達政宗公の青葉城(仙台城)の城下町や、正宗公の眠る瑞鳳殿(ずいほうでん)を観光し、少しでも仙台や東北の復興になればと思っています。
ぜひ今回もこのブログに最後までお立ち寄りして下さい。
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!奥州の英雄の伊達政宗の造った城下町は東北震災に沈まない、沈むことはない!忘れてはいけない東日本大震災
仙台周辺を襲った大地震「東日本大震災 2011.3.11」
これからもこの仙台の歴史を忘れることなく、ここに戦国に強く生きた侍やおんな衆や民が住み、育んだ時代もさることながら、東日本大震災というおおきな自然による災害を受けた被災地となった、この出来事を私たちは忘れることなくいきたいと思います。
今後も東北復興に何か出来るとすれば、観光でもいい、現地に行って土地に触れ、この話を伝えていく事なのかと思います。
しかし仙台の地元の方はこの震災で非さむことばかりでなく、前を向きく姿は、仙台駅周辺の人の賑わい、活気に満ちた様子をみた私にとっては、仙台の人たちは震災に負けることはない。
そんな仙台魂の礎を造ったのは伊達政宗氏の心なのか。
そこに仙台城址がいつまでも仙台のシンボルとして残っていってほしいものです。
時に非道な侍で、時に託いまれなる名君よと謳われた、奥州の英雄の正宗魂がここ仙台にはあるのでしょう。
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!独眼竜と呼ばれた伊達政宗公が眠る瑞鳳殿の再建
この仙台に大きな城郭の仙台城を造り、伊達家の栄華をつくった政宗公が眠る「瑞鳳寺(ずいほうじ)」がやや本丸跡から離れたところにあり、そこに政宗公の眠る「瑞鳳殿」が建立されています。
その瑞鳳殿本殿が、2022年10月末から2023年3月末まで黒漆の塗り直しや彩色の補筆やクリーニングなどが行われ修繕されたことが新しいニュースとなっています
昭和6年に瑞鳳殿に付随する唐門や拝殿,透塀,南廊下,繋廊下,涅槃門などに感仙殿(かんせんでん)等が旧国宝に指定されていました。
しかしくしくも、昭和20年の第2次世界大戦の仙台空襲により、かなりの崩壊をここも余儀なくされてしまいました。
しかし政宗公生誕400周年に当たる昭和40年代になると、瑞鳳殿再建の機運が高まっていきます。
その後1979年に瑞鳳殿が再建され、1985年には感仙殿と善応殿(ぜんのうでん)も再建されて「仙台・青葉まつり」も復活し仙台は活気に満ちました。
その後NHK大河ドラマで1987年(昭和62年)に連載で放送された「独眼竜政宗」です。
若き日の渡辺謙さんが演じた独眼竜政宗は、驚異の最高視率最終話では47,8%を記録したドラマの第1回目で、瑞鳳殿再建に伴い政宗公の御遺体の発掘がされたシーンがあります。
遺品と共に埋葬された中には、19歳の冬の時に九死に一生を得た「人取り橋の戦い(ひととりばしのたたかい)」で着用していた、「鉄黒漆五枚銅具足(てつくろうるしごまいどうぐそく)」などがありました。
その伊達政宗公は東北の暴れん坊と呼ばれ、時にたぐいまれなる名君よと言い伝えられた伊達政宗公の眠る瑞鳳殿も、今は華やかさを装う歴史建造物は立派に再現されました。
「独眼竜政宗」ブームにより、毎年たくさんの観光客でにぎわう観光スポットのひとつになってます。
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!奥州の英雄の伊達政宗の造った青葉城(仙台)城下町 青葉山と広瀬川で天然の要害
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!伊達政宗の造った城下町は東北震災では沈まない!青葉山に造られた仙台城
千代とその頃呼ばれていた地に青葉山より手を加え、広瀬川を堀に仕立てた城を構えた天然の要害(ようがい)の山城でした。
築城したのは、初代当主伊達朝宗(だてともむね)氏より数えて第17代当主伊達政宗公です。
9代当主政宗公の名を受け継ぎ、右目を疱瘡(ほうそう)で幼少時期に失っていたことで、第17代当主”独眼竜伊達政宗”と呼ばれた伊達当主政宗公となりました。
天下分け目の”関ヶ原の合戦”において徳川家康(とくがわいえやす)軍に与し、地領と伊達家存亡を施した伊達政宗氏は、この千代に名を変えて仙臺城(仙台城)を築城します。
仙台城が完成し、入城の時詠んだ句が「入りそめて 国豊かなるみぎりとや 千代とかぎらじ 仙臺の松」と。
伊達政宗は、関ヶ原合戦後、将軍徳川家康公の許しを得て千代に居城を移すことにしたのが始まりです。
1600年(慶長5年)12月、政宗は青葉山に登って縄張りを開始しました。
地名を千代から仙臺(仙台)と改めます。
仙台が新しい本拠地に選ばれた理由として、
- 仙台付近は陸路は東海道の延長上にある「海道」とかつての東山道に由来する「山道」が合流し、水路は名取川・広瀬川を経由して閖上などの港から太平洋に通じるなど交通の要所であったこと。
- 岩出山城を居城に定めたのは豊臣政権の伊達氏を封じ込める政策によって一方的に決められた城であったこと。
- 関ヶ原の戦いの際に徳川家康と約束されたと言われている「百万石の御墨付」が実現されていた場合(置賜郡・伊達郡など7郡が政宗に与えられた場合)、岩出山城は新しい領国の中で北に偏り過ぎていたことがあったとされる。 (仙台城ーWikipediaより)
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!奥州の英雄の伊達政宗の造った城下町は東北震災に沈まない 仙台城本丸御殿は清水の舞台を装う建築
仙台城本丸御殿の構造は、まるで京の「清水の舞台」を思わすように崖に迫り出すように造られた懸造(かけづくり)の眺瀛閣(ちょうえいかく)の建築があり、往時は仙台の城下を一望でき太平洋の40キロ先を見渡せたと聞き及びます。
天守は江戸幕府の徳川家康公に配慮し築城されなかったようでした。
しかし抜け目のない伊達政宗氏は大きな石垣が構築されていて、いずれ自らが天下人となった折には、ここに壮大な天守を築城しようと考えていた場所があります。
1639年(寛永16年)の二ノ丸御殿の完成後は本丸が使われることは少なかったようです。
430畳の大広間は金碧障(きんぺきしょう)の壁画で飾られ、京の聚楽第の大広間と類似した設計であった本丸御殿として、豪華絢爛(ごうかけんらん)かつ、きらびやかな装いだったと伝わります。
しかし当時の本丸,二ノ丸御殿絵図や書物、写真が残っていないため、再建は難しいとされています。
城郭は本丸、二の丸、西の丸、脇櫓、大手門、三の丸の構成でした。
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!奥州の英雄の伊達政宗が築いた仙台城は明治維新後はどうなった
1873年(明治6年)の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)」で仙台城は「存城」とされます。
これに先立つ1869年(明治2年)の版籍奉還(はいはんちけん)で仙台城には勤政庁設置されます。
1871年(明治4年)には東北鎮台が仙台城を本営にして駐屯します。
残念ながらこのときに本丸御殿が破却され、石材と木材が兵舎建設に流用しました。
後に東北鎮台は仙台鎮台と改称します。
また、壮大な仙台城の大手門は脇櫓と共に1931年(昭和6年)に旧国宝に指定されましたが、その後大手門と共に第2次の戦災により、本当に残念なことに両方焼失してしまいました。
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!奥州の英雄の伊達政宗が礎を築いた仙台城の大手門に希望の光
1967年(昭和42年)に民間の寄付により大手町の隅櫓が外観復元され、現在は唯一復元された建造物となっています。
仙台城大手門はその時復元はされず、当時の姿をパネル案内で見れるのみとなっています。
しかし令和2年の調査で焼失前の隅櫓とは形状が異なる事が分かり、大手門の再建と一体的に焼失前の形に再建されることになったようです。
これは明治から昭和にかけて写し残されたスナップ写真や、実測図の平面図などが残されていたことや、市民や仙台を愛する方々の努力によるものだと思われます。
そして有識者の仙台城跡保存活用計画等検討委員会は、2021年2月3日に仙台城大手門復元と隅櫓建て替えを盛り込んだプロジェクトが了承されました。
さらに巽門跡から本丸跡へ至る登城路の復元整備も盛り込まれており、正宗没後400年の2036年完成をめざして現在動いてます。
これは城好きの私はもちろん、城ファンの方々にも朗報ですね。
それまで生きていればぜひぜひ拝見しに行きたく思ってます。
伊達政宗が築いた仙台城跡の周辺は近代化された都市へ
いまや伊達政宗が礎を築いた仙台城跡の周辺は、近代商業化都市へと変貌していきました。
仙台駅周辺は近代商業化され、まるで東京駅と変わらぬ賑わいで店舗、ビル、バスターミナルでアクセスがしやすい街です。
仙台駅から仙台城に向けてというか、二の丸に設けられた東北大学川内キャンパスに向けて延びている地下鉄東西線が開通しています。
東は広瀬川が今も残り流れ、当時から仙台城の時を刻んでます。
大橋を渡ると先ほど触れました、昭和6年に国宝に指定された二階建、瓦葺の豪勢な仙台城大手門と脇櫓がありました。
しかし、昭和20年のアメリカ軍による仙台空襲によって、残念なことに焼失してしまいました。
現在は昭和42年に再建された大手門脇櫓が再建され、本丸、二の丸の分かれ道に建ちます。
本丸側へ向かう前に三の丸付近に設けられた「仙台市博物館」があり仙台城の事はもちろんのこと、仙台の歴史に触れることができます。
政宗公の陣羽織や甲冑なども展示されています。
その昔は難所の山道だった本丸へ向かう通りも、今は車が何台も行きかう舗装された道路になっていますが、本丸跡に向かう通りに壮大な本丸北壁石垣が圧巻です。
諸説ありますがこの本丸北壁石垣の上には、家康公を出し抜いて天守が建てられるための石垣ともいわれています。
伊達政宗公は死に際に、「この城は泰平の世には向かん。わしが死んだら修築しろ」と家臣や忠宗氏に言い残したとの逸話が残っています。
また本丸跡にあった本丸御殿の大広間の礎石跡が見ることが出来ます。
畳敷き部分と縁側を含めて約430畳にも及ぶ大規模な武家御殿建築であったと伝えられています。
今回残念ながら、この本丸御殿の復元に関しては却下されました。
それは、本丸御殿の懸造の原位置となる地面がないことと、約430畳の大広間の写真などの資料が残っていないことがあげられました。
これらがそろっていないと史跡の復元することは、文化財保護法に違反建築になってしまうことが理由になります。
しかしながら令和の現在では、「仙台城VR(バーチャルリアリティ)ゴ→」の専用のスコープで見どころポイントをのぞくと、リアルに伊達政宗公が約400年前に築いた当時の様子が見ることができます。
見どころポイントは
①仙台城上空俯瞰 ②詰の門 ③御成門 ④大広間外観 ⑤上段の間 ⑥上々段の間
⑦能舞台 ⑧懸造より展望 の8カ所です。
青葉城展示史料館にて、専用スコープは貸し出しがあります。
ぜひ体験したいものです!
青葉城展示史料館:営業時間 8:00~18:00
☎0222277077
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1
伊達政宗公騎馬銅像が見守る、仙台城跡の城下町は東北震災に沈むことはない
現在伊達おもてなし武将隊が滞在する、本丸跡には政宗公騎馬銅像が君臨しています。
第2次世界大戦時には政宗公像も金属提出により取り除かれてしまいましたが、本丸跡には二代目騎馬銅像が今は立ってます。
あのいまわしい「東日本大震災、2011・3・11」で仙台を含む、東日本は大きな地震の影響と津波もさらにおそい、たくさんの市民の方たちが被害にあい、帰らぬ人となってしまいました。
地震は仙台城にも被害をもたらしました。
石垣の一部が崩壊し、本丸跡の時計台は壊れ、政宗公騎馬銅像は傾く被害をだしました。
しかしその被害にも負けず東北復興に向けて、東北の方々は活動を続けます。
2023年5月には政宗公騎馬銅像も修復され公開されています。
支倉常長とさとう宗幸さんの青葉城恋唄
仙台城は別名”青葉城”ともいい、そこに宮城県古川育ちのさとう宗幸さんが1978年にメジャーデビューして唄った、「青葉城恋唄」にもでてくる広瀬川は仙台の象徴でした。
🎵広瀬川 流れる岸辺 想い出は帰らず 早瀬踊る光に 揺れていた君の瞳♪
この歌がきっかけだったのか、わたくし事ですが、父親が仙台市白石出身で、仙台城の話を小学校4,5年生の頃だったかよく聞かされたことを覚えています。
そして話をもどして、さとう宗幸さんはNHK大河ドラマの「独眼竜政宗」に支倉常長(はせくらつねなが)役で出演し、役柄の常長氏はスペイン、ローマを渡り海外に日の本の王は、”伊達政宗”だという内容の書状を法王へ送る役目を担いました。
しかし日ノ本に常長氏が戻ったころには、徳川幕府より鎖国制度が敷かれてしまい、支倉常長氏は日ノ本に戻ったその後は、主君政宗公に蟄居(ちっきょ)を命じられるという数奇な人生で幕を下ろした人物でした。
その悲運な常長氏は、大手門跡の東北大学川内キャンパス内、二の丸跡に支倉常長像がひっそり残ります。
青葉城(仙台城)跡周辺でランチの紹介
仙台駅付近はたくさんのいい店がありますが、私からの行ってみてな所を紹介。
青葉城(仙台城)跡周辺でランチ 仙台朝市商店街 イトーコーヒー
仙台駅を買い物散歩するなら「仙台朝市商店街」へ。
昭和20年の空襲で焼け野原になり、戦争に落胆するものもあるなか、この周辺には、いくつもの露店が並び繁栄されていった歴史がある商店街です。
お惣菜、野菜、果物などがたくさん買い揃います。
そのなかに110coffeeはあり、ランチとはいえませんが、一服にブレンドコーヒー(450円)やりんごジュース(400円)をすすりながら、チーズケーキ(490円)あるいはバナナとりんごのパウンドケーキ(450円)でコーヒーブレイクを。
営業時間:8:00~16:00(日曜定休)
☎09020201100
〒980-0021 宮城県仙台市青葉区中央4丁目3−28
青葉城(仙台城)跡周辺でランチ ナポリの青
スイーツのお店もたくさんありますが「ナポリの青」がおすすめです。
アイスクリームサンデーレストランです。
自家製イタリアンソフトクリームの仙台いちごとマスカルポーネとジャージー牛乳のセットで、瑞鳳殿拝観した後に行ってみて下さい。
営業時間:10:00~17:00(月火曜定休)
☎0222137654
〒980-0814 宮城県仙台市青葉区霊屋下19−8 レストランパリンカ
青葉城(仙台城)跡周辺でランチ 伊達の牛たん本舗青葉城店
総席数14席の青葉城跡内に本店店舗があるこの店は、ランチタイムもあります。
メニューも多く、牛たんカレー(1420円)や牛たんシチュー定食(2300円)に牛たん定食(塩味,みそ味,ミックス:2360円)、極厚芯たん定食(3200円)などなどがあります。
どれも食欲をそそる品ばかりで、どれを注文するか迷ってしまいます。
営業時間:11:00~16:00
☎05054861334
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1 青葉城跡
仙台城跡へアクセス
●公共交通機関(電車)
〇JR那須塩原駅~黒磯~新白河~郡山~福島~白石蔵王~JR仙台駅(東北・北海道新幹線あるいは秋田新幹線):約1時
・東西線仙台駅へ徒歩約5分
・東西線 各停 八木山動物公園行仙台駅~国際センター駅:約5分
・西出口より東北大学キャンパス沿いを仙台城大手門跡へ 徒歩約15分
〇JR盛岡駅~新花巻~北上~水沢江刺~一ノ関~くりこま高原~古川~JR仙台駅(とうほく。北海道新幹線あるいは秋田新幹線):約1時間50分
・東西線仙台駅へ徒歩約5分
・東西線 各停・八木山動物公園行仙台駅~国際センター駅:約5分
・西出口より東北大学キャンパス沿いを仙台城大手門跡へ 徒歩約15分
●マイカー
〇〔那須塩原方面〕那須インター~那須高原スマートⅠC~白河中央スマートⅠC~鏡石スマートⅠC~郡山スマートⅠC~安達太良SA~福島松川スマートⅠC~国見SA~仙台南インター降りる。
・一般道の国道286号進み、北日本電線株式会社の交差点左折。
東西線八木山動物公園駅へ向かう一般道を進み、八木山ベニーランドを過ぎ八木山橋を過ぎた先に仙台城有料駐車場の埋門跡へ到達します。距離約191km
〇〔盛岡方面〕盛岡南ⅠC(東北自動車道)~紫波SA~北上~奥州スマートⅠC~前沢SA~平泉スマートⅠC~金成PA~長者原SA~三本木スマートⅠC~鶴巣PA~泉スマートⅠC~仙台宮城料金所を下車。
・国道48号をみやぎ霊園を過ぎ、青葉山公園ゴルフ練習場も過ぎ、東北大学キャンパスへ向かい、地下鉄東西線の青葉山駅からキャンパス内のみちを登ると、青葉山有料駐車場へ到達します。(距離約188km)
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
瑞鳳殿から仙台城跡へアクセス!奥州の英雄の伊達政宗の造った城下町は東北震災に沈まない!あとがき
これは忘れてはいけない歴史の一つの「東日本大震災、2011・3・11」から月日は過ぎ、まだ被災後の支援が行き届かなく心の傷が癒されないでいる方もおられると思われます。
逆に少しずつ落ち着きを取り戻し、これから仙台も正宗公が礎をつくられた歴史も取り入れ、複與されていき、これからの未来をはぐくんでいくのでしょう。
しかし、この東日本大震災という自然の災害があったことを忘れずに、これからの歴史をつくっていってもらいたいと思います。
他に伊達政宗氏の片腕だった片倉小十郎氏の白石城のブログも投稿していますので、よろしかったら読んでください。
そして最後に江戸城そばにある、今は日比谷公園になっているところに、往時に伊達氏江戸屋敷がありそこで終焉を迎えた伊達政宗氏でした。
辞世の句として「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を はれてこそゆけ」という句が残っています。
その伊達政宗氏没後338年ぶりの昭和49年10月に遺体が発掘されました。
戦争があり、崩壊していた瑞鳳殿が再建され、装いも新たに絢爛豪華な瑞鳳殿がまた見れるのは、良き時代ともいえ、ぜひ仙台に行かれた時には足を向けて見ていただきたいです、
私も再び仙台に行くよりは、必ず伊達政宗ゆかりの観光に出向きたく思っております。
今回もこのブログにお立ち寄りいただきありがとうございました。
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