多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐりは知る人ぞ知る東京都の城跡

東京都は23区以外の人気で移り住みたい東京都内としては、順に町田市、三鷹市、吉祥寺市、八王子市、立川市、国分寺市、国立市、調布市、武蔵野市と続くようです。

そんな東京都23区には石垣が積まれた城跡は、天下人の城の江戸城しかありません。

23区外は戦国時代は国境があり、緊迫した状況にさらされていて後北条が西へ東へと強化していくには戦において、相手をだましらせて平定した地が多くあります。

その後北条氏の城には石垣が積まれた城跡があります。

それは八王子城址ですが、八王子は高尾山や小仏峠といった甲斐に対しての国境の場所でした。

関東を平定する後北条氏にとっての要所であったゆえ、小田原城に次ぐ大きい城を構える、構えなければならない地でもあったのでしょう。

23区以外の城跡の国境を守る後北条氏の城跡にスポットを当てて、城めぐりをしていきたいと思います。


  1. 多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐりは知る人ぞ知る東京都の城跡へアクセス
    1. 多摩地域城のめぐり 檜原城
    2. 多摩地域の城めぐり 御岳城
    3. 多摩地域の城めぐり 王子ヶ城
    4. 多摩地域の城めぐり 辛垣城・升形山城
    5. 多摩地域の城めぐり 二宮城
    6. 多摩地域の城めぐり 勝沼城
    7. 多摩地域の城めぐり 報恩寺
    8. 多摩地域の城めぐり 藤橋城
    9. 多摩地域の城めぐり 今井城
  2. 多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐり~八王子は後北条氏の栄華があふれる城跡はまだある
    1. 八王子の城めぐり 初沢城・浄泉寺城
    2. 八王子の城めぐり 片倉城
  3. 多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐりに八王子の滝山城公園として曲輪、空堀、堀切、土塁、ひき橋などが整備
    1. 八王子の城めぐり 滝山城
    2. 八王子の城めぐり 高月城
  4. 多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐりに八王子城は難攻不落と称された城
    1. 八王子の城めぐり 八王子城
  5. 城めぐりに多摩ニュータウンの近代化に消えた東京都23区以外の城
    1. 多摩ニュータウンの城めぐり 三田城(三田氏館)
    2. 多摩ニュータウンの城めぐり 立川氏館
    3. 多摩ニュータウンの城めぐり 高安寺城
  6. 城めぐりに東京都23区以外の多摩地域は城跡ラッシュの場
    1. 東京都23区以外の城めぐり 関戸城
    2. 東京都23区以外の城めぐり 諏訪坂館
    3. 東京都23区以外の城めぐり 大丸城
    4. 東京都23区以外の城めぐり 百村館
    5. 東京都23区以外の城めぐり 長沼城
    6. 東京都23区以外の城めぐり 百草城
    7. 東京都23区以外の城めぐり 平山城
    8. 東京都23区以外の城めぐり 由木城
    9. 東京都23区以外の城めぐり 高幡城
  7. 多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐり あとがき
  8. 八王子・多摩地域食べ歩き おまけ

多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐりは知る人ぞ知る東京都の城跡へアクセス

多摩地域城のめぐり 檜原城

檜原(ひのはら)街道の払沢の滝のそばに「檜原城」はあります。

檜原城の築城・城主などについては不明の所が多いが、少なくとも戦国時代の後北条氏時代後半に戦略上の理由からこの地に築かれ利用されてきたものと考えられる。

天正18年(1590)豊臣・徳川両軍の関東侵攻の折には、後北条氏の支城として機能していたが、同年7月12日両軍に攻められ落城。

以後、廃城となる。

城跡は主郭を中心に南と北に伸びる尾根を階段状に削平した小規模な郭(くるわ)からなり、郭は細い土橋で接続され、南に延びる尾根には数本の堅堀が設けられ、敵からの攻撃をうけにくくするような工夫が施されている。

都内に現存する中世城郭のうち、戦国初期の構造をよく残しており、歴史的・学術的にみて価値は高い。(東京都教育委員会)

多摩地域の城めぐり 御岳城

御岳駅から旧道を行くも良し、御岳登山ケーブルに乗って景観を眺めながら御岳平までワープして「武蔵御岳神社」からほど近い場所に「御岳城」はあります。

「新編武蔵国風土記稿」によれば、建久二年(1191)に畠山重忠(はたけやましげただ)氏が杣保に領地を賜り、御岳山に城を築いたとされる。また、応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」に際し、関東管領上杉憲基(うえすぎのりもと)氏が御岳山に陣をとったとあります。

その後北条氏照(ほうじょううじてる)氏の加護により御岳城は聖なる山城として、戦時の避難場所として扱われたように伝わっています。

この城はやはり武蔵御岳神社の参拝と同時に散策するのがおすすめです。

「鎌倉殿の13人」でおなじみの「清廉の武将 畠山重忠像」もあり畠山氏が源頼朝(みなもとのよりとも)公に所領を与えられた地でもあります。

季節に応じての自然にもふれられるところですから、一年通じて目の保養になる観光地ですからお好みの時期に行きたいものです。

多摩地域の城めぐり 王子ヶ城

また後北条氏から離れますが「檜原森のおもちゃ美術館」の先の「王子ヶ城」があります。

現在は八坂神社が城址に鎮座しています。

ここは平安時代に村上源氏の為平親王の子、源為定(みなもとのためさだ)氏の居館があったという伝承がこの山深い里に残っている。

かすかに往時の遺構が残り古の時代にタイムスリップする場所です。

多摩地域の城めぐり 辛垣城・升形山城

後北条氏に抗った青梅の豪族三田氏の詰城の「辛垣城(からかいじょう)」が二俣尾にあります。

ここ辛垣山(標高四五〇メートル)の山頂には、青梅地方の中世の豪族三田氏がたて籠もった天嶮(てんけん)の要害である辛垣城があり、市内青梅六丁目(旧師岡)の勝沼城に対して「西城」と呼ばれた。

永禄六年(一五六三)八王子の滝山城主北条氏照の軍勢に攻められ落城、城主三田綱秀は岩槻(いわつき)城(埼玉県岩槻市)に落ちのびたが、同年十月その地で自害し、三田一族は滅亡した。

城跡にあたる山頂の平坦部は、大正末期まで行われた石灰石の採取により崩れ、当時の遺構は、はっきりしないが、堀切りや堅堀りをとどめている現状である。(青梅市教育委員会)

物見山(物見やぐらがあったとする場所)から尾根続きで、升形山城が付城のようにあります。

山城になってるこの城の散策時は、両方セットで見学したいものです。

多摩地域の城めぐり 二宮城

あきる野市にある二宮神社は室町時代に築城された「二宮城」が大石信重(おおいしのぶしげ)氏の居城があったことを昭和47年の発掘調査の関連は資料の出没しなかったが、昭和58年の秋川市教育委員会(当時)による発掘調査では、神社東側段丘上の「御屋敷」と呼ばれる地点から、一四世紀の豪族居館跡が発見されました。(東京教育委員会)

土塁、虎口とみられる遺構が神社内に見られます。

多摩地域の城めぐり 勝沼城

東青梅駅そばにその西城はあり、裏方側というのでしょうか吹上しょうぶ公園もあるところに勝沼城址はあります。

勝沼城の築城年代や築城者の名前は不明である。

平将門(たいらのまさかど)氏の末裔(まつえい)と称し多摩川上流地域を領していた三田氏の居城であったが、永禄六年(一五六三)滝山城の北条氏照によって滅ぼされた。

勝沼城にはその後北条氏照の家臣師岡山城守将影(もろおかやましろのかみまさかげ)氏が入って城の改変を行ったため師岡城ともいわれている。天正一八年(一五九〇)八王子城落城とともに廃城となった。

現在三つの曲輪が現存しており、空堀や土塁などの遺構が良好に保存されている。

一部省略(東京都教育委員会)

多摩地域の城めぐり 報恩寺

青梅市今井寺の霞川沿いにも三田氏の城砦があり、現在は報恩寺として鎮座していますが、戦国の世には後北条氏とのにらみ合いが続き、この地に砦が築かれていた遺構が今に残ります。

多摩地域の城めぐり 藤橋城

報恩寺城址からそれほど離れていない位置に、北条氏照(ほうじょううじてる)氏家臣の平山寅吉(ひらやまとらきち)氏や藤橋小三郎(ふじはしこさぶろう)氏の居城跡と伝わります。

現存する遺構は、東西七〇メートルの曲輪(くるわ)と付属する腰曲輪(こしくるわ)、土塁(どるい)、空堀(からぼり)の遺構が残っています。

『武蔵名勝図会』(文政三年・一八二〇)に、次のように記されている。

「平山越前守虎吉という人の住居の地なり。この平山氏は北条氏照に仕えたる人なり。

平山右衛門大夫・同伊賀守などは檜原村に城跡あり。

又、平井村・大久野村あたりは平山氏が旧跡なれば、この越前守もその一族なるべし。

ここは土居わ廻らし、城跡もありて、その内の広さ東西二十間余、南北凡そ五十間程、入口の城戸門跡と覚しきところは南向きにて、すべて平地なり。

西より北へ廻らして今井村の水田に臨み、霞川の流れを帯びたり。

この辺は崖にして高さ二丈あまりなり」。(青梅市教育委員会)

現在藤橋城址公園として整備されて、市民の方たちに守られた城跡の一つです。

多摩地域の城めぐり 今井城

「今井城」ですが、今井城は今井四郎左衛門尉経家(いまいしろうさえもんのじょうつねいえ)氏の居城と伝わります。

今井氏は武蔵七党の児玉党出身とされ、経家氏のあとも数代にわたって本拠としましたが、天正年間(1573年~1592年)に北条氏に滅ぼされました。

昭和四十二年に発掘調査を行った結果、正和(しょうわ)元年(一三一二)から大永(だいえい)二年(一五二二)にかけての板碑(いたび)や開元通宝(かいげんつうほう)等が発見された。

また、遺構の保存状態も良好であることが判明し、小規模ながら中世城郭としてきわめて貴重な遺構であることが明らかとなった。(青梅市教育委員会)一部省略

この内容で築城時期についても、鎌倉時代後半から室町時代中頃までにあった居館を、今井氏が改修して築城した城と調査により解明されています。



多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐり~八王子は後北条氏の栄華があふれる城跡はまだある

八王子の城めぐり 初沢城・浄泉寺城

高尾山の南側には初沢(はつざわ)城と浄泉寺城があります。

初沢城は山城でハイキングコースとして整備もされていて、良好に遺構が残っています。

最終的に後北条氏の城の一つとなり、八王子城の出城となっていますが、もとは鎌倉時代初期の御家人で武蔵七党の横山党の一族の椚田氏の居城とつたわります。

その後扇谷上杉氏の軍が山内上杉軍を破った「立河原の戦い」の際、落城した扇谷上杉方の椚田塁があった。

また浄泉寺城は北条氏照氏の家臣

氏の居城がありました。

ここは平安時代が始まりで、鎌倉権五郎景政氏の居城だったことが伝承されてます。

1590年の小田原討伐で八王子城の守りについた近藤出羽守助実(こんどうでわのかみすけざね)氏は、力攻めをうけ壮絶な討ち死をしました。

初沢城もその時、浄泉寺城共々落城とあいなってます。

八王子の城めぐり 片倉城

片倉城は現在「片倉城跡公園」として整備されて、公園内にはユリ科のカタクリの群生地があります。

片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城郭館です。

北・東・南の外周部は約三〇mの急崖となっており、自然の地形を生かした城郭です。

西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。

現道の配置等から第二郭の西方にも堀切がなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。

空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。

「新編武蔵風土記稿」などでは応永年間(一三九四~一四二八)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。

築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などのほかの中世城郭との比較から一五世紀後半以降に築城され、一六世紀代に廃城となったと推測されています。

しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要所であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。(東京都教育委員会)

多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐりに八王子の滝山城公園として曲輪、空堀、堀切、土塁、ひき橋などが整備

八王子の城めぐり 滝山城

当城は、山内上杉氏重臣の大石氏が築城した城を北条氏照氏が改修した城です。

河越夜戦により後北条氏が武蔵国の支配を確立すると、大石氏は北条氏照氏を娘婿に迎え、大石氏は後北条氏に属した。

先に詰城のようになっている「高月城」もありますが、滝山城を大幅に氏照氏の改修によって堅固な城に仕上がった。

しかし、1569年小田原に侵攻する武田信玄軍により攻撃を受け、落城は免れるも三の丸が攻略されたことによる。

さらに太閤秀吉軍の攻めを予想して、さらにより堅固な城の築城を八王子に進めるようになります。

その武田信玄氏との廿里町が戦場となった、廿里(とどり)古戦場で砦跡があります。(廿里山合戦の地)

信玄氏の武将小山田信茂氏は甲州から小仏峠を越えて攻め込みます。

北条氏照家臣の横地監物(よこちけんもつ)氏・中山勘解由(なかやまかげゆ)氏・布施出羽守(ふせでわのかみ)氏らが迎え撃ちますが、あっけなく豊臣勢に敗れ去ったと伝わります。

現在滝山城は都立滝山公園として整備されて、国指定史跡と続日本100名城に認定されたくさんの観光の方が訪れています。

多摩川と谷地川の間に築城さられたこの城跡は曲輪、三の丸、小宮曲輪、千畳敷、馬出、二の丸、中の丸、本丸、井戸の遺構がしっかり残っています。

ぜひ見学しに足を運んでいただいて、石垣の城ではなく土塁の城ですが、その大堀切の崖のような高さに圧倒されてもらいたいです。

八王子の城めぐり 高月城

高月城跡は長禄年間(1457~59)、武蔵国守護代大石顕重(おおいしあきしげ)が築いたといわれ、滝山城に大石定重が城を移すまで、代々大石氏が居城にした城として知られています。

加住丘陵の自然の要害を利用し、秋川と多摩川の合流点近くに位置した小高い台地上に築かれており、現在は空堀・土塁等が一部残っています。(滝山文化協会、加住地区自治会・町会連合会)

ここも滝山城、高月城を歩く距離のリスクはありますが、ぜひセットで見学したいものです。

*なぜか秋川ふれあいランドに続く166号線には、廃墟になってる「HOTEL高月城」の看板の方が高月城跡の目印になっています。*

高月城跡は正直そんなに大きい城郭ではなく、地主さんの配慮で入場自由に見学できる場所です。

両方見学されるときは、高月城に行ってから滝山城にアクセスするのが上策と心得まする。


多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐりに八王子城は難攻不落と称された城

八王子の城めぐり 八王子城

天正15年(1587年)に約16年かけて太閤秀吉公の戦に備えて築城された「八王子城」は、八王子神社が鎮座する山城でJR中央本線と中央自動車道を高尾山と挟んだ形の位置にあります。

ほとんど山全体が八王子城の城郭と、かなり大きいものになり現在のハイキングコースになる山城コースを登っていくと、7合目前に金子丸があり、先に進むと柵門台が8合目になります。

さらに進んでいくと9合目のパノラマの見晴台に着きます。

そのさきに「日吉八王子神社」が鎮座し、松木曲輪があり、さらに上に行くと、標高445mの山頂に到着します。

実際には、本丸と呼ぶより物見台のような建物があったとされ、逆に本当の本丸となるところは御主殿の滝がある方向の山の下に位置する場所に大手門を進み、曳橋を渡ると虎口石垣が往時の状態の復元されていますが、鏑木門をくぐると御主殿があった大広場があります。

その復元とはいえ曳橋を渡ると見える虎口石垣の迫力には、城好きにはもちろんのこと、お城に興味ない方でもその石垣の威厳のようなものに圧倒されるものを感じるのではないでしょうか。

しかしながらこれだけの堅固な山城でしたが、小田原攻めの際1590年に八王子城は、城主北条氏照氏など重臣は小田原に出向き籠城していたため、家来衆や姫子や農民程度の多勢に無勢の備えで、秀吉軍の前田利家(まえだとしいえ)氏や上杉景勝(うえすぎかげかつ)氏の軍勢に力攻めに半日で落城。

御主殿の滝の城山川は次々と自害して身を投げた侍衆や姫子の血で、三日三晩赤く染まったと伝わります。

現在では自ら命を絶った後北条の方々のご供養の習わしで、この地域には「赤まんま供養」が今でもされ、先祖を思い弔われています。

城めぐりに多摩ニュータウンの近代化に消えた東京都23区以外の城

多摩ニュータウンの城めぐり 三田城(三田氏館)

多摩川に向かって張り出した青柳丘陵の台地上録辺にある「谷保の城山」は、中世の城館跡であったという伝承があります。

この地は従来から「三田城」あるいは「三田氏館」と呼ばれ、中世三田氏との関連が推測されてきましたが、鎌倉御家人であった津戸三郎為守( つのとのさぶろうためもり)氏が城主であったとする史料も存在します。

現在、土塁や堀の跡を確認することができますが、発掘調査などが行われておらず、城館の性格や城主などその詳細は不明です。(東京都教育委員会 案内板より)

土塁や堀の跡が残され確認可能で、東京都旧跡に指定されています。

なお三田氏は、平将門(たいらのまさかど)氏の後裔(こうえい)と称し、青梅を本拠に置き、西多摩から入間郡にかけて支配していた豪族で、後北条氏に敗れて本家は滅亡しています。

現在三田氏館の所には谷保の城山歴史環境保全地域や城山公園が設けられ、散歩しながら自然に触れられる憩いの場にもなっています。

多摩ニュータウンの城めぐり 立川氏館

立川駅より多摩川方向の残堀川に沿って、「立川氏館跡」があります。

臨済宗建長寺普済寺の地が立川宮内少輔氏の居城とされています。

この鎌倉時代の居城に南北朝時代に屋敷内に寺(普済寺の前進)を建立し、戦国末に立川氏滅亡した後に現在の普済寺となったとされてきました。

平成八年(1996)以降の発掘調査等により、一五世紀前半から一六世紀前半期にかけての屋敷に伴う建物跡、井戸跡、門跡、柵列跡や東側土塁脇から区画を示すV字溝などの遺構が発見されています。(東京都教育委員会 案内板より 一部省略)

多摩ニュータウンの城めぐり 高安寺城

「高安寺城」は城砦化された寺院で、新田義貞(にったよしさだ)氏が北条泰家(ほうじょうやすいえ)氏が率いる鎌倉幕府軍を撃破した「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」で本陣を置いた城です。

要衝にあったため、室町時代には鎌倉公方・足利氏の支城として使われ、さらに戦国時代には上杉氏や北条氏など関東における中心勢力が拠点として利用しています。

現在城址には高安寺の境内となっており、遺構は残っていません。

近くの分倍河原駅の駅前(バスロータリー側)には新田義貞騎馬像が建てられています。


城めぐりに東京都23区以外の多摩地域は城跡ラッシュの場

東京都23区以外の城めぐり 関戸城

聖蹟桜ヶ丘駅からやや離れてはいますが、ここも現在城址は宅地化のため、断片的な遺構しか確認できませんが、いろは坂をのぼったところ「関戸城址」の標柱が建てられています。

元弘(げんこう)三年(一三三三)の新田軍鎌倉攻めの関戸合戦では、一帯が戦場と化し、義貞(よしさだ)軍が北条泰家(やすいえ)軍を敗走させた後、陣をこの台にすえた跡であることから「天守台」と言われるようになったとも伝えられている。

その後は、武蔵野合戦(一三五二年)、永享(えいきょう)の乱(一四三八年)、明応(めいおう)三年(一四九四年)の戦いなどで多くの軍勢が往来し、長い間要害(ようがい)の地として幾多の戦乱を体験してきた。(案内板より)

この付近は江戸時代中頃まで宿場として大いに賑わっていました。

明和五年(一七六八)には大火もあり、時代とともに賑わいを失ってしまいました。

しかし、今でも屋号などに名残が見受けられます。(関戸案内板より 一部省略)

関戸天守台付近は宅地化によりほとんどの遺構は消失しまってます。

しかし所々に土塁が残り、金毘羅様にいろは坂などがあり往時を感じられる部分はあるよう感じられます。

関戸砦跡のそばには「関戸」があり、戦国時期前に当地は、元弘三年(一三三三)に新田義貞軍と北条軍が戦った古戦場として有名であり、関戸古戦場跡の供養塔や侍塚横溝八郎之墓があります。

その先に細い道を入っていくと延命寺があり、そこが「佐伯氏屋敷跡」の伝承もあり、詳細は不明ですが散策し歴史の空想をするのはよい場所と思われます。

かつて戦場だった関戸城跡の付近の街は、時代が変わり今はスタジオジブリの映画「耳をすませば」の聖地となってましたがそれは余談です。

東京都23区以外の城めぐり 諏訪坂館

乞田(こった)川を越えた付近に馬引沢(まひきさわ)という地名があります。

源頼朝公が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)氏のひかえる奥州討伐のためここを通ったとされます。

この土地は蛇崩の激しい沢筋にさしかかったところ、突然頼朝公の乗った馬が暴れだして沢の深みに落ちてしまったところより「馬引沢」とよばれる由来。

そこにあったとされる「諏訪坂館」は、西に乞田川を控えた丘陵地西側の斜面に築かれていたが、現在は多摩ニュータウン建設による市街化で完全に破壊され、往時とはその様相は一変している。

東京都23区以外の城めぐり 大丸城

この乞田川沿いには鎌倉街道が通り、関戸の多摩川渡河点にも近く、かつては交通の要地でした。

京王稲城駅とJR南武線の稲城長沼駅の間には、「大丸城」、「百村(もむら)館」、「長沼城」がありました。

3城とも遺構や痕跡は跡形もなく、近代化の波により無くなってしまってます。

伝承として大丸城は「城山公園」が近くにあり、「城山みはらし通り」や「天神山通り」と名がつけられておるのと、案内板があります。

1333年の鎌倉の北条攻めで新田義貞氏が、一時の戦の砦を敷いた場所とも、1530年に上杉朝興氏が府中に出陣した際、小田原の後北条家が「小沢天神山城」に入っていますので、その際に物見櫓として使用された可能性は充分あるとされてますが、多摩ニュータウンの開発で住宅化された今となっては詳細は不明のようです。

東京都23区以外の城めぐり 百村館

百村館跡は稲城中央公園野球場の南多摩尾根幹線道路を挟んだ向かい側、小さな竪神社がありますがそのあたりが百村館があった場所と推定されています。

新編武蔵風土記稿で館台としての記述があるが、その歴史については何も伝えられていないようです。

東京都23区以外の城めぐり 長沼城

そして長沼城があった場所は全くの住宅が立ち並び、遺構は無くなっています。

稲城市第一土地区画整理組合 案内の石碑により               この地はその昔、源頼朝に仕えた武将長沼五郎宗政(ながぬまごろうむねまさ)一族の館(長沼城)のあった所といわれ「新編武蔵風土記稿」また江戸時代中期建設され、明治30年で廃寺となった報恩寺の跡地でもある。

東京都23区以外の城めぐり 百草城

高幡不動尊の手前に百草園駅があり、そこに「百草(もぐさ)城」はあり1987年になって地元の郷土史家である宮田太郎氏によって発見された城で、鎌倉〜戦国時代に稼働したとされていますが、築城者も城主もはっきりしない山城です。

百草園内に物見(見晴台)等の最高到達ヶ所がありますが庭園の為にかなり手が入っています。

また南隣の百草八幡神社も曲輪と目されていて、更に西側の朝日山緑地には余り手の入っていない馬場・堀切・土塁・虎口と思われる地形が確認できます。

京王百草園は江戸の昔から語り継がれる名園と歌われますが、ほとんどの百草城の遺構は園内にふくまれていて、百草園の見学がてら百草城跡を拝観するような形で城ファンの方は行くようです。

ゆったりとした和のひとときをご堪能ください、と宣伝になってしまってますか。

「新編武蔵風土記稿」には、新田義貞氏が国分寺を攻めた際に、この寺院も兵火にあって焼失した、といったことが書かれているといいます。

東京都23区以外の城めぐり 平山城

平山城址公園の側にまさしく「平山城址」はあります。

平山城は武蔵七党のひとつで、西党・日奉(ひまつり)氏の一族である平山氏の居城です。

日奉直季(ひまつりなおき)氏がこの地に居館を構え、平山氏を称したのがはじまりとされます。

直季の子・平山季重(ひらやますえしげ)氏は源義経氏に従い、源平合戦で数々の戦功を挙げています。その後、平山氏は1416年(応永23年)の「上杉禅秀の乱」でも活躍し、檜原谷を与えられ、檜原城を築いて本拠を移しています。

現在城址は「平山城址公園」となっており、平山季重氏を祀った季重神社のあるあたりが物見台だったと伝えられています。

また平山城址公園駅駅前のロータリーに季重の居館跡を示す石碑が建てられています。

東京都23区以外の城めぐり 由木城

平山城址公園か少し移動すると「由木城跡」があります。

由木城は関東管領・山内上杉氏の重臣であった大石定久(おおいしさだひさ)氏の居城でした。

定久氏はその後、家督を相続して滝山城へ居城を移していますが、その際に叔父である一種長純大和尚にこの地を譲り、1532年(天文元年)に永鱗寺が創建されました。

定久氏は北条氏照氏を養子に迎えて家督を譲りましたが、1590年(天正18年)の「小田原征伐」により北条氏が滅亡すると、定久氏の実子・定仲氏と養子・定勝氏はともに徳川家康(とくがわいえやす)氏に仕えました。

その後、関東に入封した徳川家康氏が寺を訪問して「名にしよう、永き林なり」と賞賛して寺名を「永林寺」に改めたと伝わります。

現在城址は永林寺の境内となっており遺構は残っていませんが、城址碑があります。

また墓地には大石定久氏の墓が残り、定久の銅像が建てられています。

東京都23区以外の城めぐり 高幡城

日野市というと「高幡不動尊」や新選組の鬼の副長土方歳三(ひじかたとしぞう)氏の出身地ですが、その高幡不動(金剛寺)が麓にあり、その裏山が城址で、一部は「八十八ヶ所巡礼のお遍路コース」と紹介されている。

そこに「高幡城」はあるのですが、話が文献には余りでてこないため、良くわかっていなく、室町時代には高幡氏の詰め城になっていたと考えられる。

西側の麓には南平館と呼ばれる平地がある。

曲輪、堀切、堅堀が遺構が残り八十八ヶ所巡礼しながら見ることが出来ますので、高幡不動尊の参拝がてら行くのがおすすめです。

多摩地域・八王子と多摩ニュータウンの城めぐり あとがき

多摩、八王子方面の山岳地帯は都内を流れる多摩川をたどると、奥多摩湖から続いていきます。

その多摩地域は自然豊かな場所で、古くからの時代に人が国造りというものをまだ動力機械が発達していない、いや皆無の頃に国(土地)を守り、領土を増やすため、戦に明け暮れたのかと考えると、この平和?な今の時代には不思議でもあり、またロマンというものが入り混じります。

今回関東を平定していた、後北条氏の城跡の紹介が多くなりましたが、他のブログではまた別の武将の城跡を紹介できると思いますので、がんばって資料を作成していきますので、またお立ち寄りください。

八王子・多摩地域食べ歩き おまけ

サイクリングや散歩に出かけたらちょっと立ち寄ってみて。

@高尾駅を北口に行って八王子城址側へ行くとき小腹を満たすなら「玉川亭」で天ぷらあるいはとろろそば。

東京都八王子市高尾町1585

@逆の高尾駅南側なら「たかお食堂」でカキフライあるいは生姜焼き定食なんてどうでしょう。

東京都八王子市初沢町1227

@武蔵御岳神社に登って歩き疲れて、ほっと一息で帰りの前にちょっと甘いものをのときは御嶽駅からほど近い、「あさぎやみたけ」で水出しコーヒーとチーズケーキはいかが。

東京都青梅市御岳1-105-1

@ログハウスの外観のアイスクリーム店ならここ「アルティジャーノ・ジェラテリア」で夏でも冬でもアイスしちゃおう。

東京都日野市百草329

@イートインもテイクアウトもOKなベーカリーショップ「ムッシュイワン 日野店」。

ちょっと贅沢なベーカリーと一緒にコーヒーしながらプリリアンとな午後をどうぞ。

東京都日野市南平4-10-4

@おなかが空いて今日のお昼はラーメンでがっつりな時は「銀龍」へ。

席は5~6ですが野菜炒めのキャベツやもやしがしゃきしゃきな歯ごたえ。

東京都多摩区関戸5-9-11

@和食のヒレかつ定食はひれが柔らかく絶品でした。「武くら」

東京都日野市落川2100


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