例年夏になりますと神奈川県では、江の島,辻堂,湘南のサザンビーチちがさきをはじめ、平塚,大磯,二宮,国府津,小田原,真鶴,湯河原と活気に満ち賑わうレジャー地です。
ドライブするカップルやファミリーも多く、サーフィン、スキューバダイビング、釣りに観光スポットめぐりには、東海道本線相模湾沿いは欠かせない地域です。
海があるところには必ず山があり、箱根湯本は温泉の地で戦国時代から温泉が湧き、傷や疲れをいやす場となっていました。
そんな戦乱末期の戦国時代にこの武蔵国の小田原を治めていた、名門”後北条氏”でした。
とうとう太閤秀吉(たいこうひでよし)公に最後まで抗い(あらがい)続けてきましたが、いよいよ終焉(しゅうえん)を迎える時が近づきます。
その小田原城の礎を造った、後北条氏にスポットを当て、戦乱末期の後北条氏の小田原城の戦いの歴史を見ていきたいと思います。
ぜひ最後までこのブログにお立ち寄りください。
小田原城を作った人は?小田原城の城主は誰?相模国の惣構の城に造り上げた後北条氏
小田原城を作った人は?小田原城の城主は誰?後北条の祖 北条早雲
鎌倉時代に源氏を支え、執権(しっけん)にて鎌倉幕府を動かした北条氏と、戦国時代に関東を治めた後北条氏は全く無縁だと歴史の諸説では語られています。
後北条の祖である伊勢宗瑞(いせそうずい)という名よりは、「北条早雲(ほうじょうそううん)」の名の方が世に知られていますが、実際には伊勢の名を早雲氏は名乗っていたようです。
浪人だった伊勢宗瑞氏は今川氏に仕官し、備中荏原荘(岡山県井原市)より関東へ入りします。
その後所領として与えられた伊豆の国に近い興福寺城(こうふくじ:現沼津市)に入り、駿河守護代の地位にその頃はあったとされます。
1494年、関東では山内上杉(やまのうちうえすぎ)家と扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の抗争【長享の乱(ちょうこうのらん)】が再燃し、扇谷上杉家の上杉定正公(うえすぎさだまさ)氏は宗瑞氏に援軍を依頼します。
扇谷側として宗瑞氏は、荒川で山内家当主で関東官僚上杉顕定(うえすぎあきさだ)氏の軍と対峙する定正氏が、あっけなく落馬で死去したことにより撤兵しました。
そして宗瑞氏は、積年の敵の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)氏の討伐を大義名分として1495年に甲斐に攻め込み、甲斐守護の武田信縄(たけだのぶつな)氏と戦いました。
同年9月にいよいよ、相模小田原城主の大森藤頼(おおもりふじより)氏を討ち小田原城を奪取しました。
このころ相模国で、大きな力を持っていた相模三浦氏の三浦道寸(みうらどうすん)氏を1512年攻め、8月に岡崎城(伊勢原市)を攻略し、道寸氏を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、道寸氏は三浦義意(みうらよしおき)氏の守る「三崎城」(三浦市)に逃げ込みます。
とうとう宗瑞氏は、鎌倉を占領し相模の支配権をほぼ掌握(しゅうあく)しました。
その後もしばしば戦火を交えましたが、徐々に三浦氏は三浦半島に封じ込められていきます。
さらに三浦氏を攻略するために宗瑞氏は「玉縄城:鎌倉の大船市」の築城を始めます。
1516年7月に三浦氏側の扇谷上杉朝興(うえすぎともおき)氏が、三浦氏救援のため玉縄城を攻め入りますが、これを打ち破り三崎城に立て籠もる道寸氏や義意氏親子兵を激戦の末に討ち死にすることになります。
逗子葉山の延命寺には、宝治合戦(ほうじかっせん)で敗れ落ち延びた道寸氏の弟・三浦道香(みうらどうこう)主従七武士之墓慰霊塔が残っています。
〒249-0006 神奈川県逗子市逗子3ー1
これで名門三浦氏は滅び、宗瑞氏は相模全域を平定したことになりました。
小田原城を作った人は?小田原城の城主は誰?2代目北条氏綱
二代目に後北条当主になったは宗瑞氏の嫡男(ちゃくなん)の北条氏綱(ほうじょううじつな)氏となり、伊勢から後北条に苗字を改名します。
父宗瑞氏が亡くなり、それまで居城は伊豆の「韮山城(にらやまじょう)」としていましたが、氏綱氏はそれまで在番していた相模の小田原城を起点とし本城化させます。
そののち亡くなった父の宗瑞氏を慮り、号は”早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)”と改称していた本人宗瑞氏自身は、”北条早雲”と名乗ったことはなかったようでしたが、氏綱氏の代に北条早雲と呼ぶようになったものとされる。
そうして、後世に後北条の祖の北条早雲の名で知られるようになったといわれています。
「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」という言葉があります。
2代目氏綱氏がよく言っていた言葉と伝わりますが、その志を受け継いだのは後北条三代目の嫡男北条氏康(ほうじょううじやす)氏でした。
小田原城を作った人は?小田原城の城主は誰?3代目北条氏康
関東平定を目指す氏康氏は義弟の北条綱成(ほうじょうつななり)氏と連帯し、河越城(かわごえじょう:現川越城址)を護ります。
しかし天文14年(1545年10月)に関東官僚上杉憲正(かんとうかんれいうえすぎのりまさ)氏が立ち、扇谷上杉の上杉朝定(うえすぎともさだ)氏と、古河公方の足利晴氏(あしかがはるうじ)氏の約80000の兵の関東諸大名連合軍の大軍が終結して河越城を包囲します。
その河越城に立籠(たてこ)もるは、北条綱成氏が率いる兵3000足らずですが、兵糧が十分に蓄えられ半年余りを持ちこたえます。
しかし援軍無ければその兵糧もつくのは時間の問題でした。
氏康氏は関東諸大名連合軍に偽りのそれぞれ降伏を申し立て詫び状を出し続けます。
ここはNHK大河ドラマの「風林火山」にも描かれていた、北条氏康氏は策士でありました。
”わしは関東きっての憶病者じゃ”と。
今川氏と戦状態であったところ氏康氏は、武田晴信(たけだはるのぶ:のち武田信玄)氏の仲介により一時やむなく和議(わぎ)を結びます。
その後、天文15年(1546年5月)に氏康氏は約8000の兵で、河越城へ救援に向かいますが、一旦兵を府中まで戦をせずに引かせます。
これにより上杉連合軍は後北条氏軍の戦意は低いと判断し、約10倍近い兵力差もあり楽勝気分が漂います。
河越城を囲む上杉連合軍の兵たちは、宴で酒を浴びるように呑む者や、女と戯れる衆などで河越城周辺は戦どこ吹く風の模様だったと。
そして相手を怯ませたうえで氏康氏は奇襲に動きます。
8000の兵を四隊に分け、そのうちの一隊を多目元忠(ためもとただ)氏を指揮を命じうごかさせずに置き、残り三隊を氏康自身が率いて敵陣へ向かいます。
子の刻、氏康氏の兵には兜を脱がせて身軽にさせて、山内・扇谷の両上杉軍の陣に突入した。
予期しない敵の夜襲を受けた上杉軍は大混乱に陥りました。
一連の戦闘による関東諸大名連合軍の死傷者は、13000とも16000人とも伝わっています。
氏康氏は後世の憂いを残さないため、駿河の今川義元(いまがわよしもと)氏と甲斐の武田晴信氏とで、三国同盟を結んで関東を侵略してくる他国のものから防ぐために備えた。
しかし戦国の世は浮き沈みが激しく、天下統一間近だった織田信長(おだのぶなが)公が家臣の明智光秀(あけちみつひで)氏の謀反(むほん)で、世にいう「本能寺に変」で倒れると、それに乗じて後北条家の領土は伊豆・相模・武蔵・下総・上総・上野と常陸・下野・駿河の一部を手に入れて、240万石までにのぼっていました。
小田原北条氏の征伐に信長公の意思を継ぐ秀吉氏が動く
羽柴筑前守秀吉と黒田官兵衛の本能寺の変
織田信長公の「天下布武(てんかふぶ)」の意思を継いだ、羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)氏がここで成り上がってきます。
その頃、羽柴秀吉氏は黒田官兵衛(くろだかんべえ)氏と共に播磨国攻め(はりまのくにぜめ)に集中していました。
織田軍に従わない毛利元就(もうりもとなり)氏・吉川元春(きっかわもとはる)氏・小早川隆景(こばやかわたかかげ)氏の毛利軍との中国戦の最中に、反旗を翻し織田軍から毛利氏へ寝返った「三木城」の別所長治(べっしょながはる)氏を兵糧攻めします。
三木城の周囲には約20基もの付城で固められ、柵が覆われ兵糧を絶たれた三木城は「三木の干殺し」で約1年半も耐えましたがついに開城します。
次に吉川経家(きっかわつねいえ)氏の護る「鳥取城」を攻めます。
ここでも鳥取城の周りにも付城で囲んで、地域の兵糧を買い占め、鳥取城に入る兵糧を断ち切り籠城する兵を「鳥取城の渇え殺し」と伝わる戦です。
あまり兵糧が用意できていなかった鳥取城は、瞬く間に兵糧は尽きてしまい、籠城する兵や農民らは疲弊し4か月ほどで鳥取城は開城されました。
そして、清水宗治(しみずむねはる)氏が護る、難攻不落の沼地が天然の要害となる備中高松城の周囲を高さ7mの土塁の堤で囲み水攻めします。
梅雨の時期の大雨の自然も味方につけ、足守川の増水により備中高松城の周囲が、水城のように孤立しました。
しかしこの水攻めの最中に、こともあろうに織田家臣の明智光秀(あけちみつひで)氏の謀反により、「本能寺の変」が起こっていました。
すでに織田信長公は倒れてこの世にはいなく、直ぐにでも敵討ちに京へ戻らなくてはならない状況になりました。
NHK大河ドラマの「軍師 官兵衛」では、黒田官兵衛氏は筑前守秀吉氏に対し「殿、好機が訪れましたぞ」と助言します。
そして前代未聞の歴史史上に残ることが起こります。
中国大返し
そしてすぐさま籠城戦の高松城を奇策により、堤防で3kmにもおよぶ堤で城を囲み、梅雨の雨も利用し水攻めにて兵糧攻めを続けています。
そこで兵糧も付き始めている高松城に、清水宗治氏の自刃のみで播磨の所領安堵(しょりょうあんど)を毛利家に申し出、それを毛利軍は受け入れたことにより和議とした。
すぐさま京へ戻る秀吉軍は、約230kmある距離を車も列車もない時代にかけ続け、本能寺の変で織田信長公が倒れてから10日間で戻り陣を整えたと伝わります。
これぞ「中国大返し」である
そうして山崎の合戦で明智軍と相対します。
秀吉軍は約3万とも4万ともいわれる圧倒的な兵力であり、明智軍の約15000の兵は押され、戦いは約3時間ほどで士気が落ちた光秀軍は軍が乱れ、離反するものもあり決着がほぼついたようでありました。
わずかな手勢を引き連れて坂本城へ落ち延びる途中で明智光秀氏は、田畑を荒らされた農民の竹槍(たけやり)によってその命を落としました。【伝三日天下】
それから信長公の仇討ちを成し遂げた秀吉氏は頭角を表し、公家衆にも顔を広げます。
”源豊臣秀吉(みなもとのとよとみひでよし)公”と名を授かり、さらに関白の座へのぼり”太閤秀吉公”となります。
ここで天下統一の総仕上げに太閤秀吉公に謁見(えっけん)もなく、なおかつ秀吉公に従わない後北条氏へ「小田原攻め」にいよいよ動きます。
小田原城を作った人は?小田原城の城主はですか?相模国後北条攻めがいよいよ始まる
難攻不落の小田原城
1590年におよそ20万の大軍で小田原城を囲みます。
しかしこの難攻不落の城の惣構(そうがまえ)は総距離9kmにも及ぶ大規模な堀と土塁で囲まれた要塞(ようさい)となっていました。
4代目後北条氏の北条氏政(ほうじょううじまさ)氏は、北条氏直(ほうじょううじなお)氏や八王子城城主の北条氏輝(ほうじょううじてる)氏と共に、兵糧を太閤秀吉公が攻め込んでくることをあらかじめ予測もして、充分な蓄えをして小田原城に籠城の構えを敷いていました。
これに対し秀吉軍は北条氏につく相模国や武蔵国の城をひとつひとつ攻め落としていく方法をとっていきます。
松井田城、松山城、鉢形城、八王子城が前田利家(まえだとしいえ)軍や上杉景勝(うえすぎかげかつ)軍、そして真田昌幸(さなだまさゆき)軍等で攻め落とされました。
また「山中城」は、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)軍や徳川家康(とくがわいえやす)軍、池田輝政(いけだてるまさ)軍、丹羽長秀(にわながひで)軍等に攻め落とされます。
「韮山城」は蒲生氏郷(がもううじさと)軍と福島正則(ふくしままさのり)軍、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)軍、細川忠興(ほそかわただおき)軍等が攻め込みます。
北条水軍の拠点の下田城は羽柴秀長(はしばひでなが)氏,宇喜多秀家(うきたひでいえ)氏に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)氏や毛利水軍や徳川水軍に攻められます。
鎌倉の玉縄城は北条直重(ほうじょうなおしげ)氏がいましたが、徳川家臣の本田忠勝(ほんだただかつ)氏等に包囲されて、戦らしい戦はされず無血開城されました。
その他、国峯城、宮崎城、厩橋城、箕輪城、白石城、松山城、西牧城、新田金山城、大胡城、白倉城、新堀城、桐生城、河越城、浅羽城、葛西城、本佐倉城、坂田城、牛久城、小金城、守谷城、東林寺城、竜ケ崎城、木原城、江戸崎城、臼井城、成東城、東金城、士気城、真里谷城、庁南城、椎津城、坂田城、小見川城、北生実城、万喜城、大崎城、水海城、寿能城、岩槻城の後北条氏側の城が落ちていきました。
後北条に与したのぼうの城 忍城
また石田三成(いしだみつなり)氏と大谷吉継(おおたによしつぐ)氏に長束正家(ながつかまさいえ)氏,鈴木重朝(すずきしげとも)氏は、北条氏勝(ほうじょううじかつ)氏が向かう館林城が降伏しました。
次に向かうのが映画の舞台にもなった「のぼうの城」の忍城攻め(おしじょうぜめ)でした。
丸墓山古墳に陣を敷いた石田三成総大将の豊臣軍は約2万の兵で忍城を囲みます。
しかし、地の利に明るい忍城当主の成田長親(なりたながちか)軍は、坂東武者や農民合わせても豊臣軍約2万の兵に対して多勢に無勢の軍しかおりませんでしたが、力攻めにも屈しませんでした。
秀吉公の命により忍城を水攻めにするため、石田三成氏は約28kmにもわたる堤を築かせます。
しかし4~5mくらいの高さでの荒川から水を引いた浮き城の本丸は簡単に沈みませんでした。
忍城に関してのブログも投稿していますので、興味ありましたら後で読んでみて下さい。
一方小田原城を攻め囲む秀吉軍は、石垣山城を80日あまりで小田原城を見下ろす位置に築き、周りの大木を完成後一気に伐採して一夜にして小田原城から見上げる御北条氏には城が築城されたように見させ、籠城を続けていた後北条氏の戦意を失わせた。
これがいわゆる「一夜城」でありました。
余談ですがこの段階で一夜城築城が進められていた時に、あの独眼竜政宗こと伊達政宗(だてまさむね)氏が箱根に出向き、秀吉公にパフォーマンスで「白装束」で謁見したことが伝わっています。
話しを戻して、黒田官兵衛氏が小田原城へ出向き和議の交渉により、五代にわたって関東支配した後北条氏は城をほとんど無血開城しました。
しかし最初の約束から変わって秀吉公は、北条氏政氏,氏照氏は切腹させ、氏直氏は高野山に蟄居され、後北条氏の栄華は終わりをつげました。
よって本家の小田原城が落ちたことにより、忍城は落城せずに戦は終わります。
このことにより忍城は敗者側ではあったが、武勇が語り継がれ歴史に名を残す名城100選に数えられたのでした。
小田原城を作った人は?小田原城の城主はですか?小田原城の後北条氏の栄華のその後
現在小田原城址は明治3年から明治5年にかけて城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建造されていました。
大正12年に関東大震災で天守の石垣も大部分が崩壊してしまいました。
その後昭和28年に3年かけて、天守台の石積工事が完成しました。
して一時小田原市制の施工20周年記念事業で、天守台には観覧車が置かれました。
一転昭和35年(1960年)に天守の再建工事が完成し、近代化の鉄筋コンクリート構造の小田原城址が完成しました。
そして神奈川県唯一の石垣で天守閣がある(復元)城跡として、拝観できる城が現在に至り、後北条氏の栄華を今も語り継がれています。
また後北条氏の菩提寺である箱根湯本の”早雲寺”には、後北条家五代の当主のお墓が並び、静かに戦国時代の栄華をこれからも伝えていってくれるのでしょう。
小田原城へアクセス
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
小田原城を作った人は?小田原城の城主はですか?おまけ
小田原城址に行ったらぜひ立ち寄ってください。
@なんといっても「小田原城天守閣」は一般510ー 小、中学生200-かかりますが、拝観するべし。
@気軽には入れて、ゆったり御飯が食べれるお店「本丸茶屋」をどうぞ。
小田原市城内6-1
@石垣山一夜城公園へ行ったら、食事はやはり「一夜城 ヨロイヅカ・ファーム」はカフェタイム、ランチタイムあり気軽に行けます。
食事もそうですが、ケーキやスイーツ、ワインなどもいただけます。
ディナーは予約が必要です。
昭和の女優で鎧塚俊彦さんの奥様だった、川島なお美さんの慰霊碑があって、今もいつくしまれています。
小田原市早川1352-110
最後まで私のこのブログにお立会い頂きありがとうございました。
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