町田市の城跡は鎌倉時代より始まりが多い遺構を巡る(武蔵国の城跡)

町田市は多摩地域南部に位置する市です。

小田急小田原線とJR横浜線が交差する町田駅周辺は首都圏有数の一大商業拠点、繁華街として発展しています。

駅前は百貨店やファッションビルなど、大型商業施設や飲食店が集積する商業都市がたくさんあります。

しかし一辺して駅から外れると、自然がたくさん残る土地柄で、町田リス園や町田薬師池公園のような自然豊かで梅、椿、桜などが春夏秋冬を通じて見れる場所があります。

NHKの「ブラタモリ」でも放送されたように、神奈川県と間違えられる東京都町田市ですが、豊臣秀吉とよとみひでよし公が領土分けの際、境川さかいがわをさかいに相模国と武蔵国に分けたことがことの発端だったようです。

複雑地形の関東ローム層でおおわれた土地であるこの町田市の城跡を紹介していきます。

鎌倉時代から鎌倉街道が通る交通の要所町田市の城跡

成瀬城

まずは「成瀬城跡」ですが、平安時代後期から鎌倉時代にかけてこの地を所領していた、鳴瀬四郎太郎なるせしろうたろう氏の居城が始まりだと伝わります。

その後1524年に江戸城を攻略した北条氏鋼ほうじょううじつな氏が支配を握って、小机城の出城として改修した。

恩田川に面した地形を利用し、城郭を整えたようで曲輪くるわ空堀からぼり、井戸跡がみれます。

遺構は都市開発によりほとんど消滅していて、一部が市民の方々の活動で城山公園として残されている。

桜の時期には、花見が楽しめる公園です。

東京都町田市南成瀬3丁目16−16

小山城

全く遺構は近代化によりなくなっていますが、「小山城おやまじょう」は鎌倉幕府創設にあたり、源頼朝みなもとのよりとも公に従い公を挙げた小山太郎有高おやまたろうありたか氏の居城があったとされます。

多摩ニュータウンの開発前の発掘調査で土橋、空堀、段切状遺構、腰曲輪、柱穴等が検出されたという。

今は地中に埋まってしまって遺構はなく居城があったことが語り継がれる。

東京都町田市小山町

井出沢城・殿ノ城

次に鎌倉街道に面した辺りにほどなく、町田市民球場の近くに本町田菅原神社が鎮座するこの地に「井出沢城いでさわじょう」がある。

城跡の遺構はほとんど残っていませんが、鎌倉幕府の防御拠点として鎌倉街道とともに整備されたとする城だと伝わります。

また、建武2年(1335年)に北条氏残党の北条時行ほうじょうときゆき氏の反後醍醐天皇ごだいごてんのう派がここで足利尊氏あしかがたかうじ氏の弟の足利直義あしかがなおよし氏が迎え撃ちしました。(井出の沢の戦い)

しかし直義軍は敗退を喫し鎌倉へ落ちて行きます。

のち鎌倉の二階堂に幽閉されていた護良親王もりよししんのうは、足利氏が鎌倉から下向する際に足手まといとなることを理由に、足利直義氏の命を受けた淵辺義博ふちのべよしひろ氏によって殺害されてしまう。

その悲劇を起こす命を受けた淵辺義博氏の居館は、この井出沢城址の近くにあり、境川を越えたところに淵辺義博居館が遺跡として残っている。

資料が不詳で井出沢城は鎌倉時代に交通の要所で作られたようだが、城主など詳しいことは不明です。

本町田菅原神社の出沢の戦いの公園ともなっている同じ場所に殿ノ城とののじょうの伝承があります。

小さな本町田おやしき児童公園に今はなっていますが、井出沢城いでさわじょうの位置とほぼ重なっているので井出沢城と殿ノ城は同じ居城とも考えられますが詳細は不明となっています。

東京都町田市本町田802

島崎屋敷跡・中島屋敷跡

ここから左側(東側)に見える操車場そうしゃじょう付近にはかつて小高い丘がありました。

江戸時代の地誌ちしには、戦国時代に八王子城で討ち死にした、島崎二郎某しまざきじろうぼうの館跡があって鎮守の森や馬場跡もあったと記されています。

島崎氏の先祖は、鹿島神社や香取神宮に近い常陸国ひたちのくに(茨城県)行方郡なめかたぐんの島崎城付近から来たとも伝えられますが詳細は不明です。

江戸時代の初め(寛永年間)には嘉右エ門屋敷かいもんやしきもあったと伝えらえています。(案内板より)

東京都多摩市唐木田2丁目

また、現在は近代開発化により遺構は全くありませんが、島崎氏と同じく後北条氏に仕えたいた中島源右衛門なかじまげんえもん氏の屋敷があったと伝わります。

宇台畑といわれていた丘陵があり、馬場跡とされる場所もありました。

源右衛門氏も八王子城攻めの際、討ち死して果てた一人だといわれています。

この付近は町田市小野路があり鎌倉街道が通り、いにしえより交通の要所であったようです。

東京都多摩市南野3丁目

小山田城

あのNHK大河ドラマ、「風林火山」や「武田信玄たけだしんげん」でも登場する小山田信茂おやまだのぶしげ氏の先祖が、鎌倉時代に源頼朝公の御家人であった小山田有重氏によって、築かれた城がここ大泉寺境内に遺構が残ってます。

小山田城址」です。

曲輪や土塁、堀切、空堀、馬出が良好に残っています。

小山田城は北条時政ほうじょうときまさ氏の策略によって、鎌倉からこの地も追われた小山田氏は甲府へと逃れていきます。

その後時代は変わり、1476年の「長尾景春ながおかげはるの乱」が起こると、扇谷上杉おうぎがやつうえすぎ氏と山内上杉やまのうちうえすぎ氏の防衛拠点として太田道灌おおたどうかん氏がこの城を修復して利用しましたが、景春方に攻め落とされるなど、戦国時代までこの城は使われていったようです。

現在城跡の拝観には大泉寺の敷地内になるため許可が必要となります。

 東京都町田市下小山田町336−25

三輪城(沢山城)

奈良町にある児童厚生施設の「こどもの国」から道路を登っていくと、「TBS緑山スタジオ」があります。

そのそばに沢谷戸自然公園の横道を通って行くと「三輪城址(沢山城址)」があります。

柵が設けられた通りを進むと、すぐお墓があり虎口となって、その先に曲輪が広がり、空堀なども良好に遺構が残ります。

ただし個人の方の敷地内を所有者の方の配慮で見れるようになっており、団体さんで押しかけるのはNGとなるので配慮が必要です。

資料は少なく諸説もあるが、三輪城は1320年頃斎藤氏、矢部氏、荻野氏が大和国城上郡三輪という所から移り住んだこと始まりのようで、その後戦国時代には後北条氏の配下であったことのと書状が残っていると伝わる。

 東京都町田市三輪町1897

またこの奈良町のこどもの国とTBS緑山スタジオの真ん中に、私の10代の頃で1980年頃ですが「緑山峠」がありました。

つづら折りの坂となっていて、週末の夜にはドリフト族が集まる場所になっていました。

現在の緑山峠があった所は、事故も多くあり怪奇スポットで有名な峠で、通りは廃道となりました。

そんな世間をさわがした通りは、今は霊園もでき散歩道に最適な通りですが、行くとつくづくこんな狭い道を車やバイクで飛ばして登ったものだと。

ちょっと横道にそれましたか。

小野小町伝説が残る城跡

小野路城

町田市に残る城跡で最後は「小野路城跡」は山城で古道が残る景観な所です。

乗越八幡跡があり道祖神や庚申塔といった石碑が祀られており、ちょっと時代をタイムスリップしたように感じられます。

腰曲輪の場所に居城があったとされる所には現在は社が祀られている。

鎌倉時代に鎌倉殿御家人であった小山田二郎重義おやまだじろうしげよし氏の居城で曲輪、土塁、横堀などが良好に残っている。

しかし、1476年に「長尾景春の乱」で扇谷上杉の拠点となり、長尾勢に攻め落とされたと伝わります。

鎌倉街道から小野路宿に入る通りに伝・砦跡があり、小野路城東方に小野路関屋城を設け戦に備えた陣城があったと伝わります。

その後戦国時代には大石氏の所領となっていった。

土塁、曲輪、空堀、井戸などが良好に残っています。

小山田緑地の自然保護地域になっており、遺構も良好に残ってきたようです。

またここは小野小町おののこまち伝説があり、「小町井戸」は小野小町が病にかかった折にこの山に千日こもり、この水で目を洗ったところ全快したという伝説があり、今なお水をたたえています。

この小野路城跡の近くの小野路宿通りのところに「小野神社」もあり小野小町ロマンの伝承が残っている地域である。

あとがき

以上町田市の城跡には石垣はなく、天守閣や本丸などしっかりした建造物が残っている城というものはありません。

現地の土塁や堀跡の背景を自分の中で、その時代にタイムスリップしてここに門があって、柵で道が整えられていたなど創造しながら楽しむ。

そんな城跡がほとんどですが、足を運んで歴史的ロマンにふれてみて頂けたらと思います。

おまけ

町田市のおすすめなお店などをご紹介します。

泰厳歴史美術館たいがんれきしびじゅつかん」に行って、戦国武将の織田信長公の安土桃山の歴史を振り返りませんか。

町田市中町1-4-10

気さくで誰でも入りやすい「森のレストラン」でお手頃ランチはどうでしょう。

町田市森野2-2ー36 町田市民ホール1F

コメント

タイトルとURLをコピーしました