横浜市の城は面影だけが残る城跡が多く謎めいている(青木城・権限山城から茅ヶ崎、小机城などお城マニア編)

関東の城跡

車のナンバープレートに若い頃は、横浜ナンバーに憧れた人は多いかと思われます。

横浜みなとみらいに生まれ変わった現在の横浜は、江戸時代の幕末には横浜村に黒船来航があり佐久間象山(さくましょうざん)氏の唱えもあって、鎖国体制から開港への時代の変動の場となりました。

明治維新には日本初の鉄道が、新橋から横浜間に敷かれた交通の重要な場となったのが横浜市です。

貿易の要所となる初代横浜駅となった「桜木町駅」の先にみなとみらいはあり、「横浜みなとみらい21」の開催地の名残りのよこはまコスモワールドには観覧車が今も残ってます。

現在の交通路では横浜ベイブリッジが1989年に開通され、横浜ランドマークタワーやクイーンズスクエア横浜、横浜ワールドポーターズ、赤レンガパークや横浜ベイクォーターと数多くの大規模な商業施設が揃った大都市に発展しています。

山下町、伊勢佐木町や中華街など繁華街が駅周辺にひろがっています。

その横浜市は港北ニュータウンや磯子、金沢八景、長津田、二俣川、保土ヶ谷他面積437.4K㎡の中にある城跡をめぐって紹介していきます。

今回も私のブログをぜひ最後までお立ち寄りください。


横浜市の城は面影だけが残る城跡が多く謎めいている城めぐり

横浜市の城 青木城・権限山城

横浜駅に一番近い現在は本覚寺が建立されている場所に「青木城」がありました。
戦国時代は後北条氏の被官・多米氏の居城があり、国道1号線と鉄道をはさんで現在幸ヶ谷公園になっている場所に「権現山城」がありました。

1510年に扇谷上杉氏の被官上田正盛(うえだまさもり)氏が関東進出を狙う伊勢宗瑞【いせそうずい:のちの北条早雲(ほうじょうそううん)】氏と通じて上杉氏に謀反し権限山に権限山城の砦(とりで)をつくり挙兵をする。

扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏と山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏がこれを攻め「権現山の戦い」が勃発した戦場の場の舞台でもあります。

上杉氏にこの戦は伊勢宗瑞氏は負けはしましたが、その後も進出は留まらず、権現山はやがて後北条氏が掌握して対上杉氏の前線となり、多米元興(たべもとおき)周防守氏が青木城主として配置された。

青木城も権現山城も遺構はなく春の桜が、戦があったという名残を消し時代の流れを憂いています。

青木城跡:横浜市神奈川区高島台1−2 本覚寺

権現山城跡:横浜市神奈川区幸ケ谷3−5

横浜市の城 蒔田城

後北条に従う多米氏は、1569年に武田信玄(たけだしんげん)氏が小田原城を攻撃した際、多米周防守は青木城を捨て北条氏綱(ほうじょううじつな)氏の娘婿である吉良頼康(きらよりやす)氏の居城「蒔田城(まいたじょう)」の守備にあたったと伝わる。

その蒔田城跡は横浜市内で最古の寺院「弘明寺(ぐみょうじ)」の先の「横浜英和女学院」敷地となっています。

昭和59年に英和学院の校名が「成美学園」だった時期に、グランド整備に伴い校舎の一部で発掘調査が行われた。

その結果縄文時代前期・弥生時代・古墳時代の竪穴住居跡など、古代の集落が検出され、その中に中世の遺物として火鉢片が1点出土したという。

現在、横浜英和学院が所在する大岡川右岸の標高35メートル程のあたりにある校舎内が蒔田城の本曲輪だったとされています。

学院建設に伴い遺構はほとんど削平された可能性が高いですが、周辺に空堀(からぼり)や腰曲輪(こしぐるわ)などの一部遺構が確認できるのみ。

蒔田城跡:横浜市南区蒔田町124

横浜市の城 寺尾城

武田信玄氏の小田原攻めの際、5代当主諏訪馬之助(すわうまのすけ)氏が小田原城の守備に出向いていた留守中に武田軍に攻められた落城した「寺尾城」(横浜市鶴見区馬場)があります。

今では宅地化が進んでしまい、城の縄張りは不明瞭になりつつありますが、わずかに遺構を残し台地斜面のマンション内に緑地帯には、土塁とみられるところが保存されている。

また隣接する「殿山公園」内には堅堀が保存されています。

地域名に「馬場」などや「寺尾」が残ります。

新興住宅街の本丸があったあたりでしょうか、高台場所に「寺尾城址」の石碑が残り、城があったことを偲ばれています。

寺尾城址:横浜市鶴見区馬場3ー15ー1

横浜市の城 獅子ヶ谷城

横浜市鶴見区にはもう一つ「旧横溝家住宅長屋門」として公園となっている、その背後には殿山に詰城の「獅子ヶ谷城」がありました。

慶長2年頃に小田切氏の居城となっていたようです。

現在は「日本城郭大系」では横溝屋敷背後の山が獅子ヶ谷城となっていますが、横浜市の「埋蔵文化財包蔵地」地図では横溝屋敷背後は縄文・弥生時代の遺跡(遺跡番号・港北区192)とのみ記載されている。

獅子ヶ谷城跡:横浜市鶴見区獅子ケ谷3丁目


横浜市の城 新横浜付近に残るまさに面影の城跡

横浜市の城 篠原城

新横浜駅で新横浜駅で新幹線も開設されて、新横浜プリンスや横浜アリーナ,日産スタジアムが90商業都市です。

大企業のオフィスが立ち並ぶ新横浜駅北口バスターミナル側とJR横浜線を挟み、篠原口側は対照的に住宅やアパート、寺院や畑がある風貌になりますが、小高い場所に金子氏が戦国に築城したとされる「篠原城址」の案内板がります。

想像以上の大きな縄張りだったように思われますが、現在はほとんどの遺構は住宅化により消失してしまっています。

一部曲輪、空堀、土塁が残っています。

2017年に港北芸術祭25周年記念として港北公会堂で、「まぼろしの篠原城」と篠原城を題材とした五大路子さんの朗読劇がありました。

ちなみに五代路子さんは横浜市港北区の出身がきっかけでこの企画が運んだようです。余談ですが。

篠原城址:横浜市港北区篠原町2564

横浜市の城 大豆戸城

篠原城址(金子城址)から1kmほどの場所には港北区大豆戸町があり、八杉神社から本乗寺にかけた一帯が後北条氏家臣の小幡泰久(おばたやすひさ)氏の居城「大豆戸城」があったと伝わります。

菊名駅から向かうきつい斜面を上がっていく要害の地形にあったとされますが、現在は遺構はほとんど消滅してしまって住宅地になってしまってます。

近くに「八神神社」や「本乗寺」に一部遺構が残るのか高台に構えられた居城だったのでしょう。

大豆戸城跡:横浜市港北区篠原北2ー8

横浜市の城 大曾根城

さらに東急東横線の大倉山駅近くの大倉山公園の近くに、北条早雲氏の頃から後北条氏に仕える重臣笠原氏の築城した「大曾根城」がありました。

鶴見川近くの民家の敷地に殿谷の塁蹟を説明した石碑が残ってます。

肝心の大曾根城のあった場所は資料があまりなく東電の鉄塔が丘陵の所にある高台の所に居城はあったと伝わります。

大倉山公園の近くにある龍松院には「小机城」の二代目当主の笠原能登守康勝(かさはらのとのかみやすかつ)氏が開基したとされる記念碑が設置されています。

現在は大倉山公園は梅が200本近く植えられている公園で、坂の上の高台の所に横浜市指定有形文化財の大倉山記念館もあります。

大倉山駅付近は商店街で賑わっており、現在では市民の生活の憩いの場となっております。

大曾根城跡:横浜市港北区大倉山6ー49

横浜のお城で平安、鎌倉時代から伝わる古の城跡遺構

横浜市の城 今井城(今井砦)

場所はがらっと変わって、横浜市保土ヶ谷区今井町には木曽義仲(きそよしなか)氏の四天王の一人、今井兼平(いまいかねひら)氏の居城の「今井城」があったとされますが、それは地名の伝承に過ぎないようでした。

しかし昭和30年10月に当城の守護神であった城山稲荷社のところから埋蔵金が掘り出されました。

大カメに古銭が百貫(約四百キログラム)その種類は宗銭、南宗銭、元銭、明銭など中国から渡来銭で、江戸期のものは一切含まれておらず、鎌倉から戦国期に使用された通貨であった。(今井城と城主墓の案内板より一部省略)

現在は保土ヶ谷二俣川線の金剛寺があり、その先に民家の駐車場脇の細い道の階段を登っていくと、竹やぶに囲まれた所に石碑と祠が設けられ時代を偲んでおります。

今井城跡:横浜市保土ケ谷区今井町111

横浜市の城 榎下城

緑区三保町には戦国時代に後北条氏の山田右京之進(やまだうきょうのしん)氏の居城となっていた城跡がありました。

現在はJR横浜線沿いに恩田川もあり、中山駅と十日市場駅の間に位置するところに「舊城寺(きゅうじょうじ)」(旧城寺)が建立する位置に「榎下城(えのしたじょう)」(久保城)があったと伝わります。

永享年間(1429~1441年)に上杉憲清(うえすぎのりきよ)氏が築いたと伝えられ、自然の丘陵を利用し、本丸は一段高いところに位置し、内外に空堀をめぐらし、さらに土を盛って土塁を築き、大手口には侵入者をまっすぐ城内に入れないために喰い違いの虎口という独特な土塁を築いてます。

山田右京之進城跡碑の先には現役の弓道場もあり本丸があったとされる場所に建っています。

榎下城跡:横浜市緑区三保町2038 (奪城寺)

横浜市の城 富士塚城(富士塚公園)

富士塚公園の周辺は、源頼朝(みなもとのよりとも)氏が石橋山に兵を挙げたとき、平家側関東総大将大庭景親(おおばかげちか)氏に従いながら、頼朝氏を助けた飯田五郎家義(いいだごろういえよし)の館があったといわれるところで、公園には富士塚城址碑が建てられています。

明治32年、五輪塔や納骨瓶の出土を機に家義を偲び公園裏の竹藪に「古賢大菩薩」の石塔が建てられました。

近くの東泉寺(とうせんじ)境内には「薬王院殿家興順能大居士」と刻まれた家義の供養塔や家義ゆかりの薬師堂があり、薬師堂如来像にまつわる伝説も残っています。(泉区役所案内)

富士塚城址:横浜市泉区下飯田町1015−1

横浜市の城 長尾城(戦国大名、上杉謙信の祖の居館跡)

栄区長尾台にあったとされる平安時代の長尾氏の居城がありました。

保元・平治の乱後、平清盛(たいらのきよもり)政権時代となり伊豆に流されていた頼朝が平家打倒の兵を石橋山で挙げたのは治承4年(1180)8月のことだった。

このとき平家側の総大将は大場景親氏で、先陣は弟俣野五郎景尚(またのごろうかげひさ)氏と家臣、当長尾台の長尾兄弟。

源氏は岡崎義実(おかざきよしざね)氏の嫡男真田与一(さなだよいち)氏と陶山文三主従(とうやまぶんぞうしゅじ)でしたが、与一氏の討死で敗れた頼朝たちは山中を逃げまどい五日後、岩浜から房総へ船で敗走したことは戦記に大書されています。

海を渡り頼朝たちは房総の豪族を御家人とし反撃に転じた。

鎌倉入りには当初、頼朝氏に敵対した武相の豪族等が御家人として加わり、長尾兄弟も同様でしたが、俣野氏は生涯を平家に尽くした滅びました。

頼朝は平家を亡ぼし鎌倉幕府を樹立したが頼朝死後は北条氏の時代となった。

しかしそれから150年後の元弘3年(1333)に、北条一族も新田義貞(にったよしさだ)氏によって滅ぼされ、南北朝争乱で勝者となった足利尊氏(あしかがたかうじ)氏は京の室町幕府の出先機関として鎌倉府を設けた。

長尾氏は是に仕え次第に強大となり、戦国時代に長尾景虎(ながおかげとら)氏はついに上杉謙信(うえすぎけんしん)と称し、関東管領から戦国大名として北は出羽、南は上野、西は加賀に至る広大な領土を有した大名として知られます。

この長尾台は戦国史を飾る名将上杉謙信の先祖、長尾氏の発祥の地である。(大正地区歴史散歩の会)

長尾城跡:横浜市横浜市栄区長尾台町349−3


横浜市の城で消滅していった城跡も歴史は深い

横浜市の城跡 岡津城

相模国鎌倉郡(さがみのくにかまくらぐん)現在の泉区岡津町に室町から戦国時代にかけての扇谷上杉氏の上杉朝良(うえすぎともよし)氏の居城がありました。

その後玉縄城に進出した伊勢宗瑞(北条早雲)氏に攻略され後北条家臣で江戸衆の太田氏が所領とされた。

しかし1590年に小田原討伐で太閤秀吉公に後北条氏が滅亡され、徳川家康(とくがわいえやす)氏が関東入りし代官として彦坂元正(ひこさかもとまさ)氏がつき、岡津陣屋が置かれますが慶長11年に廃止されます。

現在は室町時代に建立されたと伝わる三嶋神社があり、その横に横浜市立岡津中があり、岡津中のグランドに本丸があったのと、三嶋神社のあたりは曲輪の遺構が一部残るのみ。

岡津城跡:横浜市泉区岡津町2352

横浜市の城跡 川和城

港北区川和町には古の源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)氏の郎党の熊井太郎忠基(くまいたろうただもと)氏の居城があり、奥州平泉に義経氏が落ちていく際にお供した者のひとりです。

近くにある妙蓮寺は1334年に朗慶上人が「川和城跡」の麓に草庵を結んだのが始まりと伝わります。

川和・妙蓮寺の墓地上部にある木々が茂っている場所に「熊井太郎忠基壘蹟(くまいたろうただもとるいせき)」という石碑がひっそりと残っています。

戦国時代には、中田加賀守屋敷として中田加賀守の所領になっていたようです。

かつては土塁など残されていたようですが、昭和に入ると川和城跡の丘陵は採土のため削られて、川和団地などが建てられて今は遺構は残っていません。

川和城跡:横浜市都筑区川和町977 妙蓮寺

横浜市の城 佐江戸城

そこからさほど離れていない横浜上麻生道路にかつて、中原街道と南多摩から神奈川に達する古道の交差する要衝であったところに「佐江戸城」は存在していました。

1573年には他界していますが、猿渡内匠助(さるわたりたくみのすけ)氏の小机城の支城になっていたと伝わります。

現在の杉山神社の建立されている場所に西の丸があったようです。

そこのそばに無量寺がありその小高い山に道祖神があり、そのあたりには佐江戸城の本丸があったようです。

佐江戸城跡:横浜市都筑区佐江戸町2048−1

横浜市の城 笹下城・松本城

場所は少し飛びますが、横浜市港南区に玉縄衆の間宮氏が「笹下城(ささげじょう)」と支城で築いた「松本城」がありました。

今は宅地化のため遺構はありませんが、中ノ丸跡には天照大神宮が建てられています。

その笹下城は県道22号線「打越」交差点の交差点の南西よりに行った成就院山門左の墓地擁壁(ようへき)に「笹下城の空堀跡」の説明石板が設置されている。

残念ながら墓地南側の最高所を中心に城跡があったとされるが、発掘調査をする間もなく洋光台の宅地開発で完全に消滅してしまっています。

笹下城跡:横浜市港南区洋光台1ー25ー30

横浜市の城 野庭関城

時代は鎌倉時代に平戸永谷川上流の丘陵地帯の、現在の「野庭中央公園」が本曲輪があったとされる「野庭関城」があったと伝わります。

鎌倉幕府初代の侍所別当の和田義盛(わだよしもり)氏が築城した居城でした。

1213年に「和田合戦」の時はこの城に籠り、和田氏に見方する武士たちは、攻めいる北条軍に20日間も抵抗したと伝わります。

その後戦国時代に後北条氏の玉縄城の支城として石巻康保(いしまきやすもり)氏、安藤良整(あんどうりょうせい)氏が城主をつとめた城です。

鎌倉古道が通り、武蔵・相模の国境にあたる要衝で、玉縄城と笹下城の繋ぎの城の役割になっていました。

遺構は消滅して、今は公園と周りは野庭団地が建設され、近代化となり歴史は伝承で伝わります。

野庭山城跡:横浜市港南区野庭町614

横浜市の城 磯子城

磯子区磯子に現在は真照寺を含む一帯が「磯子城」があったと伝わります。

平子氏は源頼朝公の鎌倉時代からの御家人で、平子平右馬丞有長(たいらごへいまのじょうありなが)氏が建立した寺といわれます。

戦国時代に入ると扇谷上杉氏に従っていましたが、後北条氏の勢力が拡大すると臣従しました。

現在遺構は残っていません。

真照寺境内の一帯が磯子城の遺構そのものになり、伝承されています。

磯子城跡:横浜市磯子区磯子8ー15

横浜市の城 矢上城

場所は港北区日吉の慶応義塾大学日吉キャンパスに変わりますが、戦国時代に後北条家臣であった中田加賀守(なかたかがのかみ)氏の居館の「矢上城」があったようです。
高台が天然の要害でここに城があれば立地条件は良好な場所です。

殆ど遺構は消滅し、今はキャンパス内のアーチェリー場脇に「保福寺開基中田加賀守累代墳墓之地」と刻まれた石碑がありますが、今は安全上関係者以外、立ち入り禁止となってしまって拝見することは出来ません。

横浜市の城 荏田城

江田駅そばの横浜市青葉区江田町にある平山城の荏田城がありました。

ここには鎌倉時代に源義経氏に仕えた荏田源三広基(えだげんぞうひろもと)氏の居城があったという伝承があります。

戦国時代には後北条氏の城の一つで、「茅ケ崎城」や「小机城」、「榎下城」の支城として組み込まれたと考えられます。

現在は地主さんの意向で立ち入り禁止となっていますが、竹林が植えられた場所になっており、土塁や堀は良好な状態で残っていると考えられます。

横浜市の城 鳥山城

JR横浜線の小机駅の近くにある八幡神社は、源頼朝公に従った佐々木高綱(ささきたかつな)氏の居城があった場所と伝わります。

「鳥山城」の遺構は残っていませんが、八幡神社のあたりはやや高台になっており、地形を生かした土塁、曲輪にもみえる残像があります。

また周囲は河川も多い地域地域であり、館を構えるには適した場所だったと思われます。

鳥山城跡:横浜市港北区鳥山町281−1


横浜市にあった城で近代化の中で残された城址公園

横浜市の城 茅ケ崎城

港北ニュータウンの都築インターよりには現在歴史館もあり、港北ニュータウンの開発にあたって貝塚や縄文,弥生時代の古墳なども発掘されていて古代からの歴史ある場所に「茅ヶ崎城」はありました。

センター南駅そばの「歴博通り」に別の意味で港北の象徴にもなっている、右手を挙げて交通安全を訴えるゴリラが目立ちます。

茅ケ崎城跡は公園となっており、分かりやすい看板の説明番が各所にあります。

土塁、曲輪、空堀、土橋、井戸跡などが見れて定期的に手入れがされ、散歩や蝉取り、ピクニックに来る家族もいる憩いの場になっています。

平安時代に多田行綱(ただゆきつな)氏が居城にした場所と伝わります。

発掘調査では扇谷上杉氏の関連の出土遺物もあり、戦国時代には後北条氏に与する小机衆の座間氏の所領だったといわれてます。

江戸時代には庶民の村の入会地(共有地)などとして村用され、「城山」という地名とともに、今日まで保存されてきている。

茅ヶ崎城址:横浜市都筑区茅ケ崎東2ー25

横浜市の城でもっとも遺構が残る 小机城

最期は小机駅のそばの「小机城址市民の森」として「小机城」があります。

「永享の乱」で太田道灌(おおたどうかん)氏に攻められた城で要害の城と絶賛されていますが、「石神井城」を攻められここ小机城に立て籠もりますが、最期は2か月かけ落城させられた。

その後一時廃城となっていましたが、後北条氏の勢力下になると北条氏綱(ほうじょううじつな)氏の手により修復され、家臣笠原信為(かさはらのぶため)氏が城主として配置され、小机衆が組織されました。

1590年に豊臣秀吉公による小田原北条討伐により後北条氏滅亡後は小机城は廃城になります。

現在は小机城址市民の森として整備されており、空堀、根古屋、西郭、東郭、土橋、虎口などが竹林と一緒に残っております。

中でも遺構で残る空堀は、Ⅴ字の急こう配に掘られた状態が良好に残り、その迫力は圧巻です。

しかし第三京浜道路の建設の際に城の縄張りが分断されてしまった。

また周辺もマンションや住宅化され、一部の遺構は破壊されてしまってますが市民の方に守られて、今も小机城址として遺構は残り受け継がれ、市民の憩いの場となっております。

小机城址祭りも毎年桜の季節に行われ、横浜市港北区の城代の笠原信為氏を偲ばれています。

もう少し深掘りした小机城址のブログも投稿していますので、どうぞみて下さい。

小机城址は戦国の戦の最初の舞台となった歴史が残る隠れた横浜市の名城
新横浜は新幹線も通る現代の交通の要所となります。東京駅から新大阪を結ぶ通過地点であり、新横浜は商業都市として駅ビル、大手企業も集まり、コンサートやイベント会場にもなる横浜アリーナや横浜F・マリノスのホームスタジアムの「日産スタジアム」もある...

小机城址:横浜市港北区小机町789

横浜市の城 あとがき

このように日本広しと言えど、横浜市はかつて「横浜村」であったこの土地には、たくさんの知らぜらる城や歴史が残る所です。

横浜市の見どころは「元町公園」や「港の見える丘公園」、「横浜ベイブリッジ」などあげるときりがありませんが、ぜひ機会があれば横浜市の城跡にもぜひ足を運んでいただいて、歴史の香りにふれてみてほしいと思います。

横浜市の城に行ったらランチを おまけ

横浜市の城の近くでランチ  グリーンズマルシェ (食堂棟2階)

慶応義塾大学日吉キャンパスの学生食堂の「グリーンズマルシェ (食堂棟2階)」は一般の方も食事することができ、意外に量も豊富で料金もリーズナブルです。

オムライスやキーマカレーなど本当この値段でこの味!しかも食堂内が広~い。

1000円でおつりがくる学生にとっての強い見方な食堂ですね。

6店がテナントで入っていて、なかなか品が豊富でうれしくも迷っちゃう~。

学生食堂なのでちょっと引け目を感じる方も、土曜日あたりは一般の方もちらほら利用しているようです。

営業時間:平日10:30〜15:00 土曜日11:30〜13:30

神奈川県横浜市港北区日吉4ー1−1

横浜市の城の近くでランチ グルメタウン

日産スタジアムで横浜マリノスのサッカー試合や乃木坂46のコンサートを見た後は、「ショップ・レストラン」でお食事をして満喫を。

4F、5Fは20店舗をこえるグルメ店が出店されていて、お腹の空き具合と、今日の気分で軽食あるいはがっつり系が選べるのが良い。

スタジアム建設内では、時期に応じて色々なイベントも開催されているので、インターネットであらかじめ調べて行くのがおすすめです。

車の方はイベントやサッカー試合開催時は、非常に渋滞、混雑しますので駐車場も日産スタジアム有料駐車場も停めにくくなるので注意です。

*営業時間と休日はお店によって異なりますが、大体10時か11時~20時、21時の営業です。

横浜市港北区小机町3300


コメント

タイトルとURLをコピーしました