かつて小牧山城(こまきやまじょう)には、あの織田信長(おだのぶなが)氏が天守を築かせた平山城があった場所です。
ここ小牧山に清州城より上洛(じょうらく)が早くできる要所として、信長氏の命で居城を築かせた際に、大手門からの真っすぐ登る”大手道”が造られるようになる礎(いしずえ)となった城です。
この頃から、今も史跡で残る街道に1里(約4km)ごとに塚を設けて、道しるべに1里塚を織田信長氏は造らせるなど、新しいことを取り入れて実行もしていったのでした。
しかし小牧山城を信長氏は3年くらいしか使わず、その後稲葉山城(のちの岐阜城)を攻め落とし移り住むことになって、重臣や家臣団はもちろん、城下に住んでいた農民や商人、寺院などもごっそり移っていきこの地は廃城となります。
さてその後、京に激震が走りました。
織田信長氏は家臣の明智光秀(あけちみつひで)氏の謀反(むほん)によって、1582年に「本能寺の変」で討たれてしまいます。
その小牧山で織田信長公亡き後、権力争いの戦が行われようとしています。
その小牧山城をクローズアップしていきたいと思います。
今回も私のブログに最後までお立ち寄りをよろしくお願いします。
小牧山城で小牧山の戦いが起こるまでの軌跡
小牧山の小牧長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)で豊臣秀吉氏と徳川家康氏が戦になるまでの長い軌跡があります。
あの織田信長公が本能寺であえなく最期となった後、明智光秀氏討伐(とうばつ)に即動けたのは、羽柴秀吉(はしばひでよし)【のち豊臣秀吉(とよとみひでよし)】氏でした。
その時秀吉軍は、中国攻めで毛利軍との戦の最中であり、本能寺の変が明智光秀氏の謀反(むほん)により起こったことを知ったのは、備中高松城を護る清水宗治(しみずむねはる)城主の城を水攻めで兵糧を断たせている最中でした。
毛利軍の吉川元春(きっかわもとはる)氏・小早川隆景(こばやかわたかかげ)氏に密書を届けるための使いの輩(やから)を捕らえた羽柴軍は、その数日のうちに本能寺方の使いから、織田信長公の訃報(ふほう)の知らせの文の内容が一致していることで、信長公は既に光秀氏によって討たれたことを知ります。
信長公の弔い合戦をするのに悲しみに迷ってる暇はない秀吉氏を、軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)氏の進言により、密かに毛利軍の外交僧である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)氏と対談を図り、和議(わぎ)の申し立てをしました。
毛利軍の要求されていた備中(びっちゅう)、備後(びんご)、美作(みまさか)、伯耆(ほうき)、出雲(いずも)の5か国を毛利軍領土とすることを条件と示したことに対して、秀吉側は備中、美作、伯耆の3か国の割譲と清水宗治氏の切腹(せっぷく)が和睦条件とし、受け入れられました。
そうして、清水宗治氏が切腹するのを見届けると、薪や旗はそのままにして京へ向けて一気に全軍は中国街道を駆け戻ります。
これが世にいう「中国大返し」でした。
もちろん車も電車もない時代ですから、現在なら高速道路を使えば車で半日とかからない距離ですが、230kmに及ぶ距離を馬もしくは、自分たちの足で駆けて戻っていきました。
途中街道には、夜道に薪を焚かせ明るく照らさせ、水や焼き米や味噌を要所に置かせて、少しでも前に進んでいけるように先手をうたせたのは言うまでもありません。
ここは家臣の石田三成(いしだみつなり)氏の才でした。
そんな用意周到にことを運ばせて、豊臣軍は明智軍が居座る安土城へひた走り向かいました。
70kmもの道のりの中継地点の姫路城(当時黒田官兵衛氏の居城)には、2日間で到達して一時陣を休ませます。
そこで明智光秀氏との戦に備え秀吉氏は、書状をいくつも認(したた)めて、周辺の大名に戦のお味方につかせる内容を綴りました。
そしてわずか5日ほどで摂津国(せっつのくに)【現在の大阪北部辺り】に到達しました。
これを知った明智光秀氏は、あまりの速さに驚き安土城から出て山崎へ向かいます。
羽柴秀吉対明智光秀の天下分け目の“天王山”のゆくえは
その後、備中高松より10日ほどで陣を整え山崎にて明智光秀軍と対峙した羽柴軍は、姫路城で認めた書状効果もあり、約3万5000ともいわれる大軍勢となっていました。(山崎の戦い:やまざきのたたかい)
対する明智軍は、期待していた親族の細川藤孝(ほそかわふじたか)・忠興(ただおき)父子は喪に服す理由で、どちらにもつかない恭順の意を示し明智軍に参陣されなかった。
一方明智軍は、斎藤利三(さいとうとしみつ)氏や伊勢貞興(いせさだおき)氏らで総勢約1万5000で対峙しました。
結果は火を見るより明らかで2倍近くの兵力の差に、戦が切って取られた時点より、羽柴軍が優勢で戦は進み、約3時間ほどでほぼ決着はついたと歴史に伝わります。
勝龍寺城に退却していた明智光秀氏は、密かに脱出をして居城の坂本城へ数兵と共に向かいます。
その途中、「明智藪(あけちやぶ)」といわれる付近で、戦によって田畑を荒らされた農民による落ち武者狩りに遭遇し、竹やりに刺されてあえない最期となりました。
現在その地は本教寺寺領にあり史跡となっています
明智藪:京都府京都市伏見区小栗栖小阪町
織田信長公死去後、羽柴秀吉の派閥争いが始まる
織田信長公の敵討ちを勝利で治めた羽柴秀吉氏は、信長重臣の中では下座でしたが、これより前へ出てこれる立ち位置となり、ほかの重臣にも一目置かれる立場になりました。
信長公亡き後の「清須会議」は映画で大泉洋さん(羽柴秀吉役)と役所広司さん【柴田勝家(しばたかついえ)役】らで構成される、三谷幸喜さんの演出もとでリアルに映画化されてましたね。
天正10年6月の本能寺の変において、織田家前当主織田信長公は京都で明智光秀氏の謀反により焼け落ちていく本能寺の中で自刃し果てます。
同じく京にいた、信長氏の嫡男織田家当主であった織田信忠(おだのぶただ)氏もその時明智軍に取り囲まれてしまい、二条新御所で切腹しています。
この事件に寄り後継者討議が清州城にて行われました。
これが歴史に残る「清須会議」になります。
織田氏筆頭家臣の柴田勝家氏は、強引に信長公の次男織田信雄(おだのぶかつ)氏と三男織田信孝(おだのぶたか)氏を跡目として主張しうります。
しかし、対抗する秀吉氏は亡くなった信忠氏が嫡男(ちゃくなん)で、信長公嫡孫(ちゃくそん)の当時わずか3歳の三法師(さんほうし)を織田家嫡流と掲げ、そこに不服もあったが、誰一人と意を唱えることが出来ずに秀吉氏の主張が押し通されていきました。
事実三法師はまだ幼児に過ぎず、家臣団の支持もままにならない所にあるため、織田家家督を継いだ三法師を織田信雄氏と信孝氏が後見人となり、それを羽柴秀吉氏と柴田勝家氏、丹羽長秀(にわながひで)氏、池田恒興(いけだつねおき)氏の重臣4人が補佐するしくみが出来ました。
羽柴秀吉対柴田勝家の「決戦!賤ヶ岳の戦い」
その後秀吉氏の振る舞いはまるで自分が天下人のように行動しつつあり、そのことが鼻についていた、織田信雄氏の後ろ盾として奉公する柴田勝家氏がとうとう動きます。
自分が上に立とうとする秀吉氏に対して、織田信長公の意志を継ぎ、織田の血の流れを重んじた勝家氏との対決の火ぶたが切って落とされます。
しかし大雪の時期の越前、北の庄は動けなく、雪の時期が過ぎた3月始めに柴田軍は動くと、その動きに合わせるように羽柴軍も進行していきます。
お互いに砦を築き、賤ヶ岳(しずがたけ)で対峙します。
一時劣勢になった羽柴軍は坂本城へ全軍引いていきますが、すぐさま柴田軍の気の緩みを誘った上で、美濃大返し(みのうおおがえし)を仕掛けます。
押されて兵を引いたと思われた羽柴軍が、突然約13里(52km)を5時間ほどで戻って来ます。
この奇襲に動揺した柴田軍は応戦を余儀なくされます。
しかしその激戦の中、柴田勝家氏が一番信用する先陣に就いていた前田利家(まえだとしいえ)氏は、友人の秀吉氏にもお恩人の勝家氏のどちらにも戦いでついていく事に耐えられなくなったのか、先陣から軍を離脱してしまいます。
この前田利家氏の行動により、柴田軍の士気は乱れ、さらに戦線離脱する兵も相次ぎ、柴田勝家軍は羽柴運に押されていき、北の庄城に逃げ戻ります。
陣を立て直す間もなく、勢いにのる羽柴軍は北の庄城を取囲みました。
北の庄城の総攻めが行われようとされる前日に、勝家氏は残った兵らと最後の宴で酒を振る舞いました。
そして、妻お市の方に娘三人の子らを連れて、秀吉氏の陣へ下ることをすすめますが、お市の方は断固として、最期まで勝家氏に添い遂げることで意思を曲げなかったといいます。
そして残された3人のお市の方の連れ子(茶々、初、江)は総攻めが始まると、羽柴軍側に送り届けられ、柴田軍の3000の兵たちは城を枕に討ち死にしていく中、天守台の間で柴田勝家氏やお市の方、勝家氏家臣団は自刃する中、それを見届けた家臣の中村文荷斎(なかむらぶんかさい)氏はいいつけ道理にまいた火薬に火をつけ、天守は爆発炎上して、あえなく柴田軍は滅びたのでした。
観光地 賤ケ岳古戦場跡
琵琶湖と余呉湖に挟まれるようにある賤ケ岳は、賤ケ岳古戦場登山口が整備されていて、リフトで10分くらいで山頂に行ける方法と余呉湖側からてくてくと歩いてハイキングコースを登る二通りがあります。
ですがリフトは12月から4月中旬は休業していて、平日の運行も休止していることがあり行く前に要確認となります。
登山を楽しんでいかれれば、余呉湖の7本槍の地とうたわれる場所で国民宿舎余呉湖荘跡がそばにある賤ケ岳登山道を登っていく方法があります。
ハイキングコースを1550m登っていくと山頂の展望台からは、天気のいい日は余呉湖の一望の景色が登ってきた疲れを癒してくれるでしょう。
ここに400年前に柴田勝家氏と対峙して、羽柴筑前秀吉氏が砦を築いた場所になります。
今は観光地として自由に見て周れることができます。
ここで戦があったなんてほんと兵どもが夢のあとと言った趣で、行楽にいい場所となっております。
滋賀県長浜市木之本町大音
賤ケ岳古戦場 アクセス
●公共交通機関(電車)
・JR北陸本線の木ノ本駅で下車で徒歩だと3kmほどあり、303号線を賤ケ岳リフト乗り場方面へ進む道のりになります。
・JR北陸本線の余呉駅下車はの行き方はハイキングコースのみの登山口となります。
約4kmほどの道のりとなり、余呉湖を巡りながら岩崎山の大岩を超え、国民宿舎余呉湖荘跡があるあたりに賤ケ岳古戦場へのハイキングコース入り口があります。
●マイカー
・北陸自動車道で名古屋方面から木之元ICを降りて、木之元ⅠC口を左折して303号線を賤ケ岳へ進む方法だとリフト乗り場側へ行きます。
長浜市立伊香具小学校のところで右折した先に賤ケ岳リフト駐車場が第一、第二無料駐車場があります。
滋賀県長浜市木之本町大音1061
・北陸自動車道の木之元ICを降りてぐるりと周るルートで、365号線を進み北陸本線JR余呉駅に向かい33号線から532号線に入り、余呉湖に沿って進むと無料駐車場の切通しと7本槍古戦場の案内が駐車場にあります。
こちらは歩いて登るハイキングコースのみになります。
滋賀県長浜市余呉町川並(国民宿舎余呉湖荘跡そば)
小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と徳川家康のそれぞれの動きは
名実ともに柴田勝家氏を破った秀吉氏は、さらに大手を振るうようになります。
今や織田家の血筋に関係なく、まるで自分が天下人のような振る舞いをさらに強め、織田信雄氏は蔑(ないがし)ろにされることに対立を深めます。
大阪の地を所領にした秀吉氏は、織田信雄氏を安土城へ送らせます。
そして、秀吉氏は信雄氏の家臣として津川義冬氏と岡田重孝氏に浅井長時氏のいずれも織田信長氏の家臣だった三家老を懐柔し、傘下にさせようとたくらみました。
しかしそれを良しとしない信雄氏は、ここで徳川家康(とくがわいえやす)氏と同盟を組むとその三家老に理由をつけ処刑させてしまいます。
このことに激怒した秀吉氏と信雄氏は戦を構える動きとなります。
織田家の嫡流が戦に挑むことにより、大義名分ができた家康氏は、ここで秀吉氏をたたくことで、自分が政権をにぎる大いなる機会だと思ったに違いありません。
家臣からの反対を突っぱね、家康氏は信雄氏に加担します。
そして家康氏は、いち早くかつて織田信長氏が居城を構えた、小牧山城に目を向けます。
小牧山城 れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)
小牧山城の歴史を伝える情報館としてオープンしている「れきしるこまき」は一般財団法人のこまき市民文化財団にて運営される小牧山城史跡情報館です。
城郭シアターや土の城から石の城へ変わりゆく石垣模型のコーナーになっています。
小牧山歴史館と合わせ拝観していただきたい歴史資料館です。
小牧山城の復元された天守(歴史観)は、平松茂氏(個人:小牧市名誉市民)が私財を投じて、昭和43年3月26日に竣工式が挙行され、小牧市へ寄贈され建設された唯一の小牧山の歴史を知らせる資料館として、令和5年4月に「小牧山歴史館」としてリニューアルオープンしました。
一般の方200円でれきしるこまきにも両方拝観できます。
1階は小牧の歴史を知る内容で、2階は戦国時代の尾張国を知るミニシアターが行われています。
3階は戦国クイズコーナーになっていて、お子様と一緒に親御さんも戦国歴史に挑戦を。
4階は展望台になっていて、標高100mからの小牧山城からの展望が楽しめます。
ここに若き織田信長氏や徳川家康氏が、今後を占う歴史の礎を創っていったことに触れることができます。
ぜひ近くに来たら立ち寄って戦国時代の小牧長久手の戦いの歴史にふれていってください。
小牧山城に陣を構え、小牧山の戦いへ豊臣秀吉対徳川家康、いざ決戦
小牧長久手の戦いはどうする家康・織田信雄軍約3万に対し秀吉軍約10万。
自分の居城の浜松城から出立し岐阜城を目指しますが、犬山城は池田恒興(いけだつねおき)氏の寝返りで奪取され、それを知った家康氏は小牧山城に陣を構えます。
羽柴秀吉氏も徳川家康氏もお互いに砦を築き陣を敷いていきます。
小牧山城に籠城の構えをする家康氏は、小牧山城を二重の堀や高い土塁で本陣を固めていきます。
これで容易に攻め込めなくなった羽柴軍と家康軍は、数日にらみ合いと小さな小競り合い程度で日が過ぎていきます。
そこに業を煮やして秀吉氏は、家康氏居城の岡崎城に池田恒興氏や森長可(もりながよし)氏らに攻め込む案に許可を出し動かせます。
それは家康氏の忍びが動いていて、すぐにその事は家康氏の知ることとなります。
そして先を読んでいた徳川軍が、信雄軍を合わせ約9000の兵を進軍させ羽柴軍の背後をつきます。
これが長久手での合戦となり、池田恒興氏と森長可氏が討ち取られ、羽柴軍は手痛い返り討ちを浴びせるられることとなります。
色金山のふもとに位置する安昌寺(あんしょうじ)の住職らに長久手合戦の死者たちは手厚く弔われた首塚が史跡として残ります。
この戦で両軍合わせて約3000人もの死者が出る大きな戦として歴史に残り、現在は長久手古戦場公園として史跡が残されています。
しかし勝敗はこの時点ではついていませんでした。
小牧山城へアクセス
●公共交通機関(電車)
・名鉄名古屋駅(名鉄犬山方面行き)から岩倉駅で下車し、岩倉駅東口バス乗り場から名鉄バス小牧駅行(小牧市役所経由)に乗り換え、 小牧市役所前下車。
・地下鉄名古屋駅(東山線)から栄駅(名城線) → 平安通駅(上飯田線・名鉄小牧線) → 小牧駅下車。
小牧駅よりバスで10分で小牧市役所前で下車。
小牧市役所前から徒歩約2kmほどです。
●マイカー
東名高速道の小牧Ⅰ.C より国道41号を下り、弥生町交差点を左折して約5分です。
●小牧市役所駐車場:294台収容(無料)
愛知県小牧市堀の内3-57(大手口側)
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
長久手古戦場公園へアクセス
ここはかつて織田信長公の直轄でもあった、池田恒興氏が討ち死にしたとされる終焉の地でもあります。
その史跡が後世にたてられた”勝入塚(しょうにゅうづか)”があります。
公園内には無料で拝観できる長久手市郷土資料室があります。
駐車場も49台ほど停められるスペースがあります。
長久手の戦いの資料や歴史を知ることができて、甲冑やジオラマなども飾られています。
現在は激しい戦があったことは、あたかもなかったいうように時が流れ、その歴史を公園とされ、時世に受け継がれる場となっています。
☎0561560627
愛知県長久手市武蔵塚204
小牧山城 あとがき
小牧山城をはさんで、羽柴秀吉氏と徳川家康氏がプライドをかけた戦がおこなわれた歴史にも、今後を占っていくいろいろな思惑が渦巻いていたんだと、今更ながら感じ深堀していくごとに歴史は面白いと再認識しました。
これからも街はさらに近代化していくのでしょうが、戦という悲劇が正当化されていた時代があったことを後世に伝えていくべく、活動が行われていくことをぜひ応援していきたく今後も生きている間は、ブログを作成していきたいと思っています。
今回も私のブログにお立ち寄りいただいてありがとうございました。
小牧山城お店紹介 おまけ
小牧山城の散策時に寄ってみてください。
そんなお店紹介です。
小牧山城お店紹介 珈琲香房サライ
小牧山城の大手口に近いこの珈琲香房サライは、朝7時30分からの営業で、11時までモーニングがありコーヒーのお値段だけで、デニッシュサンドがついてきます。
そのほかまだメニューはありますが、主だったのはケーキセットで、シフォンケーキやモンブランの抹茶ケーキ、チョコケーキとレギュラーブレンドやアメリカンコーヒーとのセットでお得にくつろげるこのお店はサンドイッチやクラブサンドもあります。
7:30~19:30営業(水曜定休日)
☎0568737653
愛知県小牧市小牧市堀の内1-100
小牧山城お店紹介 三八屋小牧店
一見モダンな建物なので、そば、うどんを提供するお店ではないと勘違いする佇まいな外装です。
エビマヨざるセットととうふざるセットが一段、二段、三弾セットがありお刺身と小ライスも付き、お昼のおなかを満たしてくれるお店です。
そのほか煮込みうどんや、天ぷら、かも南蛮などなどもあり、確実にお昼の空腹を満たしてくれるお店です。
営業時間:11:00~21:45
☎0568738238
愛知県小牧市山北町47
小牧山城お店紹介 プリエール
小牧山城の搦手口(からめてぐち)に近いプリエールは,8時から午後5時30までの営業の中11:30からPM3:00までがランチタイムで、パスタランチやピザランチとキッズランチがあり、さらにスープランチ、サンドイッチランチと選べるランチタイムが非常にいい。
小牧山散策の帰りがけにおみやげに買って帰るのに立ち寄れば、ショーケースにお好みのケーキで、ロールケーキあるいはガトーショコラか杏仁フルーツなどなどたくさん並ぶケーキに何をテイクアウトして買って帰るかまた迷う~。
私はやっぱりいちごのタルトを買って帰ります。
営業時間:8:00~17:00(月曜定休)
☎0568724518
愛知県小牧市間々本町286−1
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