お台場といえば東京の観光スポットのひとつです。
日曜、休日ともなると東京臨海副都心のお台場には、たくさんの人たちで賑わう場所です。
Walkingやランニングをする人らが行きかいます。
古いですが、フジテレビ系「踊る大捜査線」で織田裕二さんが言ったキャッチフレーズ、”お台場封鎖できませ~ん”のレインボーブリッジがある街です。
しかし江戸時代の幕末といわれた時にある出来事が起こらなければ、ここは「御台場」という名前にはなっていなかったでしょう。
その出来事は異国から、鎖国をしていた日ノ本に黒船がやってきたことに始まるのでした。
そんな近代のお台場が、テレビ東京の「出没!アド街ック天国」で2024.4.20の21時にクローズアップされました。
地元をよく知る八木亜希子さんと向井理さんがゲストで出演しました。
今回は私なりにアド街ックなお台場を感じていただくよう、歴史を織り込んだお台場の内容にしております。
今回もぜひ最後までこのブログにお立ち寄りくださいませ。
お台場の歴史にアド街ックしよう!東京臨海副都心となった現在のお台場は幕末に始まった
お台場の歴史にアド街ックしよう!黒船来航から約150年後の現在はお台場にはレインボーブリッジが通る
現在では品川台場の周辺は、埋め立てが進むことにより近代化が図られ、最新では東京都中央卸売市場が豊洲に移設されるなど、商業都市化も行われている。
レジャーではご存じ、フジテレビジョンが建設され、東京臨海副都心お台場に拍車もかかりました。
「レインボーブリッジ」も開通され、夜間にはライトアップもされて、一つの観光名所にもなり全長798mとなる吊り橋を通るゆりかもめ線も開通しています。
夜間のライトアップもデートを盛り上げてくれるワードですよね。
その横をレインボープロムナードの遊歩道をお台場や芝浦、品川方面の景色を拝観しながらウオーキング出来るようになっています。
お台場海浜公園にサイクリングに行くときは、私も芝浦からレインボーブリッジの遊歩道を使います。
もちろん橋の上から第3台場と第6台場も拝観しながら渡れますよ。
お台場では、海浜公園にてマリンスポーツやビーチスポーツを楽しむことが出来ます。
また台場駅を中心に「ダイバーシティ東京プラザ」や「東京ジョイポリス」、「アクアシティお台場」、「船の科学館」、「パレットタウン」、などなどのレクリエーション満載の場です。
*ダイバーシティ東京にあった原寸大といわれる「ガンダム立像展示」は2023年2月19日で終わり、現在は「GANDAM FACTORY YOKOHAMA」にあります。
2024年3月31日まで延長して、動くユニコーンガンダムとして展示中です。(なんだかまだまだ人気に押されて続投中です)
2022年にはダイバーシティ東京やパレットタウンは閉館して、今は残念にも大観覧車も無くなりましたが、これから壮大なアリーナスタジアムに変貌していきます。
「東京ビックサイト」のイベント会場もあり、ショッピングモールや「テレポートセンター」など数多くの商業施設が建設されており、生活の一部になっている市民の方も暮らしてます。
アクアシティお台場の7階に、175席(テラス)の「THE BBQ BEACH」があり、そこからレインボーブリッジからお台場を一望しながら食事は、贅沢な時間を過ごせます。
東京ジョイポリスは若者に人気のスポットで、いわばお台場のディズニーランドといった室内アトラクションが凝縮されたアトラクション&ショップが詰まってます。
お台場海浜公園の史跡「台場公園」
そんな近代化されたお台場には、お台場ビーチから望む第3台場が解放されており、大正15年(1926年)に第3台場と第6台場が国の”品川臺場史跡”に指定されました。
さらに昭和3年(1928年)に第3台場は都市公園「台場公園」が一般開園して、現在では史跡の中に無料で入ることができます。
第3台場には土塁、石垣、で囲まれた要塞(ようさい)の中には、レプリカですが砲台場があり火薬庫、陣屋跡の礎石、かまど跡などが残り幕末の黒船来航時の緊迫感なども見てとれます。
第6台場は立ち入り禁止区域となっていて、火薬、弾薬などが撤去されぬまま残っているため入れぬまま、史跡の保存とされたようです。
現在は草木で覆われ、渡り鳥などや野鳥の憩いの場になっており、手つかずの状態でまるでジャングルのようになってしまってますが、幕末の遺跡としてそのまま保存されています。
レインボーブリッジのサウスルート側の上から、その遺構の全景を見ることが出来ますので、私のようにやじうま根性でのぞきに行ってみてください。
東京臨海副都心お台場の歴史 黒船来航の影響に高まる尊王攘夷!
時代は、1853年(嘉永6年)に鎖国をしていた日ノ本に突然、アメリカ軍人のマシュー・ペリーが率いる艦隊(通称:黒船)の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日ノ本に来航しました。
艦船は江戸湾入り口の横須賀市浦賀沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入します。
民衆は初めて見る黒い鉛の塊で、煙をもうもうとあげて、時々「ボー」とけたたましい大きな音を出し、時には砲弾をあげて「ドーン」と大きな音をたてていました。
それを民衆は「黒船」と呼びました。
あわてた幕府はこの一件で、ペリー率いる艦船を同じく横須賀市の久里浜に上陸を認めたといいます。
そこでアメリカ合衆国大統領国書が、幕府に渡され日本の開港を突きつけられました。
ペリーは日ノ本(JAPAN)に一旦検討の余地を与えて、1年後にその答えを出すこととして日ノ本を離れました。
翌年の嘉永7年に再度日ノ本へ1年の猶予の約束より早く、半年余りでペリーは琉球(現沖縄)を経由して再び浦賀沖へ来航してきます。
中国人に対したのと同様に日本人に対しても、「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」という姿勢で臨んだ対応の早い来航に、急な対応に幕府は戸惑ったでしょう。
その後ペリーら達は1か月に渡る協議の末、武蔵国神奈川近くの横浜村に上陸して日ノ本側から歓待を受け、交渉が開始されました。
結果、全12か条に及ぶ「日米和親条約(神奈川条約)」が終結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)公以来約200年以上続いた鎖国が、事実上解かれました。
そして日ノ本は幕末の動乱の「尊王攘夷(そんのうじょうい)運動」に向かっていくのです。
「安政の大獄(あんせいのたいごく)」のやり方に強い反感を持つ藩の武士による、幕府対しての反発は大きなうねりとなり、「桜田門外の変」が起こり、大老の井伊直弼(いいなおすけ)氏が水戸の脱藩浪士ら18人の襲撃にあい暗殺されます。
そこから幕府は公武合体と称し、朝廷との結びを強くする行動に出るが焼石にみずでした。
財力もなく、権力も朝廷下になりつつある江戸幕府の政に、市民の不満も抑えられませんでした。
飢饉(ききん)による百姓一揆や不満をあざけ踊る”ええじゃないか”などが各地で起こっていきます。
長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)氏の「イギリス公使館」を襲撃する事件が多数起こります。
その後のことになりますが、薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)公の率いる大名行列が江戸から薩摩にもどる帰路で引き起こした、「生麦事件(なまむぎじけん)」で英国人のチャールズ・リチャードソンを斬りつけてしまいます。
そんなの動乱がたびたび起こり最終的には、坂本龍馬(さかもとりょうま)氏の仲介による、薩摩藩西郷吉之助(さいごうきちのすけ)氏(のち西郷隆盛:さいごうたかもり氏)と長州藩桂小五郎(かつらこごろう)氏(のち木戸孝允:きどたかとし)との間で「薩長同盟」が幕府に触れずに結ばれ、武力による幕府討伐の気運が高まっていきます。
また坂本龍馬氏の働きで、土佐藩の山内容堂(やまうちようどう)公や重臣の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)氏の建白書により将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公の「大政奉還(たいせいほうかん)」へ導かせました。
これにより約250年続いた江戸幕府を終焉させることのきっかけとなりました。
それはやはり「黒船来航」が大きなきっかけとなった出来事といって間違いはないでしょう。
お台場の歴史にアド街ックしよう!黒船来航にお台場の築造を急ぐ幕府
話を戻しますが、ペリー提督が率いる黒船が来航し、1年後再び日本に交渉に来ることが決まってペリー等が退帆後、幕府はすぐさま江戸湾に大砲台の要塞築造を急ぎます。
江戸湾に11基の大砲台を計画し、西洋の築城書や砲術書などを参考にして取りかかります。
建設責任者に伊豆韮山代官・江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)氏がたちます。
現在の品川、高輪付近の東海道を昼間は通行止めにして、八ツ山や御殿山を切り崩して土砂を運び、埋め立てによって海上に人工島を築きその上に砲台を設置するという計画でした。
しかしペリー等の黒船は半年余りで再び来航してきます。
工事は嘉永6年8月末に竣工され、昼夜兼行で進められます。
土木工事で約5000人にも及ぶ労働者が配置され、総築造経費は約75万両(現在の約700億円)という膨大なものでありました。
このうち工事は進行し第1,第2、第3、第5、第6の各台場は完成していった。
第4、第7は途中で建設中止となり、第4台場の代わりに陸上に御殿山台場が建設されます。
第8以降は未着工により、実際に完成したのは6基ということになります。
第1~第3台場が完成したのは嘉永7年4月で、折しも2度目のペリーの黒船来航がされて日米和親条約が結ばれた直後だったと伝わります。
しかしこの短期間での突貫工事とはいえ、異国に日本は簡単には攻められないという防衛体制は、凄まじい執念といえるものではないでしょうか。
ここで中学の歴史でも習った江戸時代の鎖国にピリオドが打たれたことをお伝えします。
お台場の史跡として残された品川御台場は現在公園となっています。
完成した6基の台場要塞は、幕末を経て大政奉還が徳川慶喜公によりつつがなくされ、約250年に及ぶ江戸幕府は終結を迎えます。
その後明治6年(1873年)に海軍省の管轄となり、明治8年に海軍省から陸軍省に移籍されます。
そして東京湾に浮かぶ6つの台場のうち第3台場と第6台場とともに、大正4年(1915年)に東京市に払い下げられ、大正13年に東京府知事によって史跡の仮指定を受け遺構は残され、同15年に国指定史跡となります。
そして品川台場は6基から2基の第3台場と第6台場の史跡を残し、他は埋め立てられたり、撤去されてその姿を消していきました。
ではありますが天王洲アイル駅の付近には品川第四台場の石垣の遺構が見られます。
近くに行かれたらそんなたいそうなことではないですが、史跡に興味ある方は見に行ってください。
また陸上に砲台場として造られた御殿山下台場は、明治に入ったのち埋め立てられ姿をけしましたが、幸いなことにそ台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。(品川区教育委員会 一部省略)
お台場へアクセス
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
お台場の歴史にアド街ックしよう!未来のプロジェクト あとがき
この第6台場のそばに昭和初期、細長い形をした300mほどの防波堤が人工的に築かれます。
これまで人の手が入ることなく放置されて、多くの鳥が住みつきました。
野鳥たちの休憩場所であり「鳥の島」と別名がついています。
2018年に海の調査活動を行う海洋少年団やボランティア活動の人たちが特別な許可を得て、鳥の島に入れたそうです。
無人化のため、草木で覆われゴミがかなり漂流していたようで、ごみの回収活動を行って下さったのだそうです。
一大プロジェクトで森のようになっていた島の4分の3の木を伐採して桜を植えたのだそうです。
東京都の団体が許可を得たうえで、鳥の島に約370本の桜が植えられました。
完成は2038年の予定でお台場に新しい名所が未来にまた見られそうです。
最後まで私のブログにお立会いして頂きありがとうございました。
お台場の歴史にアド街ックしよう! おまけ
@お台場レインボー花火が12月の毎週土曜日の3・10・17・24日に19時から約5分間打ち上げられるイベントをぜひご堪能あれ。
パレットタウンの観覧車に乗って、花火が見れれば最高なシチュエーションです。
お車の方は臨時駐車場はあいにくありません。
混雑が予想されますので、日中早めに有料のフジテレビやお台場周辺の駐車場へお停めください。
@お台場フジテレビのショップガイド「フジさん」でお買い物をしたら、お食事はフジテレビ本社ビルやアクアシティお台場店で景色を眺めながらどうぞ。
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