米沢城は戦国の世の移り変わりに伊達政宗から上杉景勝が城主となった城

この「米沢」は、白い米をといだような白く濁った米井よねいのある沢があったところから由来されていると伝わります。

そして米沢の地は、鎌倉時代に源頼朝みなもとのよりとも公に仕えた重臣の大江広元おおえのひろもと氏が、所領しょりょうとして与えられた土地で、その広元氏の次男が出羽国の地頭として置かれたこの地で、長井を名のり長井時広ながいときひろ氏が米沢に居城を建てたことから始まったと伝承されてます。

そんな伊達政宗だてまさむね氏ゆかりの米沢城に触れた、歴史話しをまとめていきます。

ぜひ最後まで私のブログにお立会い下さい。



米沢城は伊達政宗生誕の城で伊達家の城だった

伊達晴宗氏により新たに築城された米沢城

米沢城は諸説ありますが、この山形に侵攻する伊達家がこの地を納めるようになり、伊達晴宗だてはるむね氏と父伊達稙宗だてたねむね氏の骨肉の争い”天分の乱”が、6年も演じられることになります。

戦をものにした晴宗氏がこの地を所領として、米沢中心部の長井氏の居城があった辺りに米沢城を築城しました。

この頃は当主は、正室の他に何にもの側室をもうけ、たくさんの子を造りいわば政略結婚などで子を道具に使い、周りの勢力との昵懇じっこんを保たせていました。

晴宗氏も同様にたくさんの子を造り、二男の伊達照宗だててるむね氏に米沢城を譲り隠居しました。

しかし、これが形だけの隠居でほとんど晴宗氏の意向で伊達家は動かされ、照宗氏は手を焼くことになり、諍いいさかいもしばしばあったようです。

「元亀の変」で完全に照宗氏に実権は移り、その後は安泰しました。

NHK大河ドラマの独眼竜政宗の第1話のような一幕があったのかと思われます。

その一幕とは親戚関係と敵対関係にもあった、最上義光もがみよしあき氏の2歳年下の妹義姫(のちお東の方と呼ばれる)をめとりました。

輝宗氏と義姫さま仲睦なかむつまじく過ごす事となり、その二人からあの梵天丸ぼんてんまるのちの伊達政宗だてまさむね氏がこの米沢城で生まれます。

小哉和尚こさいおしょうを教育係り役に呼び寄せ、そのもとで梵天丸はすくすく育っていくのでした。

元服した嫡男ちゃくなん政宗氏を城代とする、意向を固めていた父照宗の次男小次郎との家督を巡って家臣らが騒ぎ始め、そのことを懸念し、若くして輝宗氏は隠居して政宗氏に家督を継がせました。

こうした背景に産まれ育った、独眼竜伊達政宗氏の波乱万丈の人生が、ここで育まれたのでしょう。

元服し、初陣を飾り、家督を父より受け、大きな責任を持った伊達政宗氏の礎がこの米沢城でつくられていったのでしょう。

米沢城から会津若松城へ居城を変える

政宗氏の奥州政略は二本松城をまず無血開城させたことから始まり、その後奥州連合軍に苦戦するもそこから這い上がり、蘆名あしな氏との戦になる”摺上原すりあげはらの戦い”で念願の蘆名氏を討ち破り、黒川城(会津若松城)を手にしそのまま居城を会津へ移します。

お東の方や使いの者、家臣たちはもちろんゆかりある寺院などもこの会津へ移します。

しかし西では天下統一を間近にし、関白の位にのぼった豊臣秀吉とよとみひでよし公により、各地に「惣無事令そうぶじれい」のふれがされ、大名同士で争いをしてはいけない仕組みを造っていました。

政宗氏はこれを無視し蘆名氏との決戦をしていたわけですが、その後幾度も政宗氏には太閤秀吉公より書状が送られても無視続けていました。

いよいよ後北条氏の小田原征伐が終われば、奥州にも秀吉軍が征伐にくる段取りになっていき、伊達家もお家断絶で城を枕に戦か、あるいは秀吉公に恭順きょうじゅんの意を示すかを問われ、伊達家中は意見が真っ二つに分かれます。

結果政宗氏は秀吉公の大軍相手に戦を仕掛けても切りがないことを悟り、伊達家存亡のため京へ下ることに決めます。

しかしそんなとき事件が起こり、母お東の方とお東様の兄最上義光もがみよしみつ氏の陰謀で、政宗氏は御膳に毒を盛られ暗殺されかかりましたが、少量口にして毒が盛られていることに気づき死に至らず難を逃れます。

この母の行動に政宗氏は激怒し、母お東様が最愛する次男小次郎を手にかけて、家督と指揮は自分だと示すとともに、母に仇を返し絶縁しました。

これは胸を引き裂かれる思いで、政宗氏も行動に出たと思うところであり、母親はこの時代子にとっては仏のような存在だったといわれます。

どんな母親でも斬る事は出来ずに弟の竺丸じくまること小次郎氏を犠牲としたは政宗氏の親を思う子の行動だったようです。


米沢城は戦国の嵐の中、伊達家から蒲生家そして上杉家の城へ

国替えで米沢城から伊達家は岩出山城へ

小田原征伐が豊臣秀吉公により行われ、半年に及ぶ兵糧攻ひょうろうぜめから、周りの後北条方の支城を羽柴秀次はしばひでつぐ氏を始め攻めていきました。

それに続く徳川家康とくがわいえやす氏や前田利家まえだとしいえ氏、上杉景勝うえすぎかげかつ氏、宇喜田秀家うきたひでいえ氏など総勢大名合わせ30万ともいう兵で分散し、ことごとく攻め入り開城させていきます。

小田原城も豊臣軍の一夜城(石垣山城いしがきやまじょう)の築城に戦意を無くし、無血開城し約100年の栄華の後北条氏はここに滅びました。

その時期に政宗氏は秀吉氏に小田原・早川で太閤秀吉公に謁見えっけんをしますが、志向を加えて、白装束をまとい秀吉公もその格好で拝謁はいえつする政宗氏の度量を買い、放免ほうめんとしたと伝わります。

しかし、奥州征伐の仕置きにより太閤秀吉公は命を下し、伊達政宗家は国替えに寄り、伊達家所領の黒川城(会津若松城)や二本松城は召し上げられました。

のち蒲生氏郷がもううじさと氏が国替えによってこの地を納めることとなります。

そして、政宗氏は刀狩りや納税の引上げの取り立てを不服とする、葛西大崎一揆の鎮圧の際、葛西大崎衆との裏で内通していることが露見してしまいます。

その後政宗氏は、秀吉公に弁明して許されますが、生まれ故郷の米沢城を召し上げられ、徳川家康氏の配下の岩手山城に78万石から58万石に減転封されてしまいます。

そして米沢城は伊達家から蒲生家の居城に

岩出山城に伊達家が移されると、秀吉公の命で蒲生氏郷氏が会津を治めることになり、米沢城は蒲生重臣の蒲生郷安がもううじやす氏が入城し、城の改修を行い、黒川城から”鶴ヶ城”と名を変え7万石の蒲生氏家老の筆頭になりました。

しかし、蒲生氏郷氏の死後、代を継いだ蒲生秀行がもうひでゆき氏に不満を持つ家中に乱れがでて蒲生騒動が起こり、蒲生家は18万石に減封され宇都宮に移転されました。

米沢城は上杉景勝氏が120万石で越後より国替えし入城

戦国の習いに米沢城は伊達家から蒲生家を経て上杉家の居城に

豊臣秀吉公は蒲生家騒動後、伊達家ににらみを利かせることを考えて、越後から奥州へ上杉家を移転させこの地に配下させます。

上杉家は91万石から120万石への加増で大大名となり、米沢城に上杉景勝氏は入城します。

しかし、景勝氏は太閤秀吉公に遠慮というか配慮で、本丸を中心に藩主の居住を整備し御三階櫓などを設け天守は築城しなかったといわれます。

養子に入り養父だった上杉謙信うえすぎけんしん氏も幼少の頃、指南役をしていた北高全祝ほっこうぜんしゅく氏が在中していた春日山林泉寺かすがやまりんせんじも分霊し、祖である上杉謙信公のお墓も弔うためここに移したとされます。

米沢城にも徳川家康氏の野望に巻き込まれる

しかし、豊臣家に陰りが見え始め、太閤秀吉公が崩御すると徳川家康氏が勢力を出し始め、豊臣公を崇拝し、秀頼公を盛り立てる石田三成派との火花が大きくなっていきます。

家康氏の意見が強くならぬよう、造られた制度の豊臣家5大老も徳川家と肩を並べていた前田利家氏も亡くなると、徳川家康氏と石田三成いしだみつなり氏の間は一触即発となっていきます。

朝鮮出兵のことなど石田三成氏に不満をもっていた、加藤清正かとうきよまさ氏、福島正則ふくしままさのり氏、黒田長政くろだながまさ氏、藤堂高虎とうどうたかとら氏、細川忠興ほそかわただおき氏、蜂須賀家政はちすかいえまさ氏、浅野幸長あさのゆきなが氏の7軍が石田屋敷を包囲しました。

そこから抜け出した三成氏は敵の徳川屋敷に身を投じ、うまく難を逃れますが、騒動の件を重くとった家康氏は三成氏を佐和山城へ蟄居ちっきょさせ、大阪城でのまつりごとから降ろさせます。

それからしばらくのち時計の針が動きます。

事のきっかけは石田三成氏と上杉景勝氏の家老の直江兼続なおえかねつぐ氏が、懇意にあり謀反のたくらみを問い出され、それを拒否し「直江状」を家康氏に送り、挑発するかの文面に家康氏は激怒し、上杉討伐に大阪より一旦江戸城へ向かい大名を集います。

その後上杉の米山城へ向かう徳川軍を予測し、上杉氏と挟み撃ちにするかのように蟄居していた三成氏は、大阪城へ代って入って挙兵し、徳川軍へ向けて動きます。

歴史的な大戦、”関ヶ原の合戦”の動きが出ます。

家康氏はすぐ早馬により、石田三成氏が挙兵をしたことを知り、予測していた如く西に向かうことを決断していました。

このことより今の栃木県小山市にあった、小山御殿にて上杉討伐に同行した諸将らの福島正則氏や山内一豊やまうちかずとよ氏、黒田長政氏などと評定を行います。

石田三成氏の挙兵に寄りこれより西に戻り、石田三成軍を討ちに向かうと皆に伝え、また大阪では奥方や親族を人質に捕られている場合もあり、陣を離れてもおとがめ一切なしと進言し、このことに諸将らは軍を離れず、徳川家康氏に従い西へ引き返します。

ただその際真田勢の動きに権勢をし、家康氏の息子秀忠氏は真田上田城をおよそ3万8000の兵で討伐に向かい、まんまと真田昌幸さなだまさゆき氏の策略にはまり、対石田三成氏との戦に遅延することとなった。

西へ向かった家康軍は関ヶ原で石田三成軍勢と対峙たいじします。

1600年、天下分け目の合戦”関ヶ原の戦い”である。

石田軍約8万に対し、家康軍約7万4000の兵のほぼ互角の総勢が集まるこの大きな戦は、三成軍優勢とみられていました。

しかし小早川秀秋こばやかわひであき軍の寝返りにより、大谷吉継おおたによしつぐ軍が不意を突か9れ、軍が乱れ、その他の石田軍も総崩れとなり、寝返るものや逃亡する軍もありました。

ほぼ半日で決戦の行方は家康軍の勝利が確定し、石田三成氏は追われ陣を離れますが、その後追手にとらわれ、京引き回しの上、六条河原で小西行長こにしゆきなが氏や安国寺 恵瓊あんこくじえけい/rt>氏と斬首ざんしゅにされ、首を三条大橋に賊軍ぞくぐんとしてつるされて関ケ原の合戦は終結します。

米沢城主上杉家は関ヶ原の戦で西軍に加担した行方はいかに

関ヶ原の戦いの最中、上杉景勝氏や直江兼続氏の軍勢は、伊達政宗軍と最上義光軍の侵攻の防衛にあたり、行く手の阻止に力を注ぎますが、関ヶ原にて石田軍の敗北を知り愕然がくぜんとしたでしょう。

敗北側となった上杉氏は家康氏に謝罪するため、上洛を許されますが、改易は免れますが120万石より30万石に大幅に減封されてしまいま。

その後米沢城のほとんどの家臣は離れることなく仕え、城の拡張と修繕を行いますが、石垣は組まず土塁で整備し質素に仕上げたことも石高減を意識しての行動とされています。

上杉家大老職だった直江兼続氏も皆の衆を倹約けんやくに導き、さらにいままでも行っていた衣料用繊維に使用される青苧あおその育成や農地栽培などを自分たちでも行っていくことをすすめ、藩の生末をめでた。


米沢城址(松が岬公園)には謙信公のゆかりや史跡が多く残る

上杉神社

上杉家の祖である謙信公を厚く祀り明治時代初期に建立された神社です。

上杉家の毘沙門天びしゃもんてんの旗と懸かり乱れ龍の旗が立てられ、いつでも総攻めの構えの旗印が迎えてくれる神社はパワースポットで有名です。

上杉謙信公之像もあり、あやかって健勝祈願の成就をお祈りください。

稽照殿

稽照殿けいしょうでんは、上杉神社内の登録有形文化財に認定されている宝物殿です。

中にはNHK大河ドラマ「天地人」でもおなじみの直江兼続氏が被った”愛”の文字が飾られた前立ての甲冑や謙信公、景勝氏の遺品、そして9代め藩主の鷹山氏の遺品や遺墨等が納められ拝観できるようになっています。

上杉鷹山公の像

城内の上杉神社の参道に先を指さす、9代米沢藩主鷹山公<rtようざんこう>ふ/rt>の像があります。

有名な言葉で”なせば成る なさねば成らぬ 何ごとも 成らぬは人のなさぬなりけり”と説いたことは伝説とされ、高額の借金があった米沢藩を自ら生活費用を切り詰め木綿の服を着て、一汁一菜いちじゅういっさいの食事に制限して改革にあたった。

このことは名君誉高きと後世に語り継がれています。

あとがき

米沢城は戦国の世の激動時代を歴史の大役者、伊達政宗氏を経て、上杉謙信氏から上杉景勝氏や直江兼続氏という歴史の上書きがされている城であります。

その歴史が確かにこの地にあったんだと確信する遺構が数々残り、私たち城マニアでなくとも、拝観しに足を運ばずにいられない、城跡公園が整備されています。

この独特の儀を重んじた武士の米沢城と上杉神社に、私も1度は行きたいと思ってます。

おまけ

米沢城の周りもおすすめしたいお店はたくさんありますが、独断と変型でこちら!

@焼き立ても良し、冷めても美味しい[愛のパン]はクリームパンが人気ですが、野菜のたくさん入ったサンドイッチがおすすめです。
米沢市松が岬1丁目1−14

@廟の隠れ家たまやのかくれがは和風式で、米沢のなじみの味噌田楽や米沢牛のステーキなどメニューが豊富です。

ぜひ立ち寄ってくでさい。

米沢市御廟1-5-88

@大樽川の小野川温泉スキー場も近いくつろげる旅館、「湯杜匠味庵山川」に宿泊してみて今回はいい旅を。

米沢市小野川町24367


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