山梨県の大月駅へ向かうのに国道20号線か中央高速道を通って相模原方面あるいは、甲州市勝沼より交通アクセスする山間の場所になりますね。
若い頃は友人らとスキーシーズンには、諏訪湖付近のスキー場をめざして仕事が終わると20時、21時に3~4人集まって中央高速道をマイカーにスタットレスをはかせて行きました。
車中では運転中に眠気防止も含めて、ユーミンこと松任谷由実さんの「中央フリーウェイ」を高井戸インターからのると直ぐカセットをかけ盛り上がっていました。
そのあとは「私をスキーに連れてって」でおなじみだったアルバム「SARF&SNOW」をカセットに吹きこんだミュージックを聴きながら談合坂を越え、大月インターを過ぎ、勝沼、甲府を越えて行っていたんですね。
ちょっと私話が長くなりましたが、そんな武田信玄(たけだしんげん)氏ゆかりの地をその頃は、ほとんど興味を持たず通り過ぎていた20代の私でした。
武田信玄公より富士山の方が景色が良くて、そっちの方に心動いていた頃でした。
50代になった今、あの頃の自分にそこにはたくさんの歴史があったんだよ、と過去に戻って教えてあげたいです。
その大月市にある戦国の城跡を巡りたいと思います。
岩殿山城の小山田信茂氏は武田勝頼氏をなぜ裏切ったのか?岩殿山城の行く末は武田信玄公がにぎっていた
岩殿山城は小山田氏の居城
甲斐の中で小山田氏は、武田氏に敵対していて小競り合いが続く中1509年に武田氏に敗北し武田氏の軍門に下ったと伝わります。
詳しい築城、完成は不明のようですが、1530年ごろが築城年号と伝わり、武田氏より拝領された甲斐国都留郡(かいのくにつるぐん)の岩殿山に居城としました。
現在の城郭になったのは、小山田信茂(おやまだのぶしげ)氏の時期に改修されたようです。
城山は周りが急な岩山で、天然の要害な城です。
岩と岩の間に設けられた「揚城戸跡」が8合目あたりにあり、ここで敵方を抑える門があったようです。
そのまま登っていくと番所跡の曲輪があり、馬屋跡といわれる馬場があります。
この急斜面の岩山をここまで馬をあげてくるなんて、大事にお馬さんを扱っていたのでしょう。
そこから三の丸、二の丸、本丸と遺構が残ります。
武田信玄公の急死した後、家臣の結束乱れる
この岩殿山城が出てくるきっかけは、歴史で教科書にも習う、織田信長(おだのぶなが)氏と徳川家康(とくがわいえやす)氏の同盟軍と武田信玄公より家督を継いだ武田勝頼(たけだかつより)軍との戦、「長篠の戦い(ながしののたたかい)」です。
武田信玄公が急死した後、家督を継いだ武田勝頼氏を甲州征伐にて、織田信長氏と徳川家康氏が同盟を結び、長篠で武田勝頼軍を向かい打つべく城を構え、武田騎馬隊を鉄砲1000丁で寄せ付けませんでした。
火縄銃三段撃ちをうまく使い武田軍は大敗を喫しました。
この戦で武田四天王の武田信玄公からの重臣山県昌景氏や馬場信春氏が討ち死。
他にも内藤昌豊氏、土屋昌次氏、甘利信康氏、原昌胤氏、真田信綱・昌輝兄弟などたくさんの武将が戦死してしまった。
この戦より武田勝頼氏は窮地に晒され、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)では防ぎきれないと考え、「新府城」を新たに築城を進めていきます。
その頃、織田方は石山合戦や毛利攻めを進行しており、武田氏に目を向けていなかったことも功を奏して新府城の築城はとどこうりなく進めてはしていた。
しかしその間にも織田信長氏、徳川家康氏、北条氏政氏に囲まれていてさらに窮地に立たされていた。
その後も徳川家康氏は武田氏攻めの手を緩めず、二俣城、諏訪原城を攻撃し、長篠の戦の痛手での修正が整わない武田氏の城は落ちていきました。
次に標的となる高天神城では、家康氏は兵糧攻めで横須賀城を砦に築城し、さらに水の手を断つ作戦に出ます。
勝頼氏に高天神城より応援を求められるも、援軍を送ることが出来ず、城主岡部元信氏は討死に高天神城はあえなく落城した。
この高天神城の落城で、武田勝頼氏の棟梁としての器が完全に崩壊するものとなります。
結果的に負け戦になったとしても援軍を送らず、高天神衆を見殺しにしたという武田家臣からの非難が尾を引いて、武田氏に失望し離反する者が出始めます。
小山田信茂氏はすでに信玄公が亡くなったころから、勝頼氏には信頼を寄せてはなく、この高遠城落城が離反の決定打だったとみられます。
岩殿山城へ向かった武田氏の行く末
武田軍3000の高遠城が落城
手を緩めない織田軍勢はさらに高遠城を攻めます。
織田軍約30000とも50000ともいわれる大軍に対して護る武田軍3000と多勢に無勢の兵力です。
味方の裏切りもあり、あっさり織田軍勢に搦手口をぬかれほとんど高遠城に籠城した武田軍は力攻めで全滅をし高遠城は落城した。
高遠城主であった武田盛信氏は自分の腹をかち切り、取り出した腸を壁に投げうち壮絶な最期で幕が降りたという。
名門武田氏は天目山に滅亡する
さらに新府城の築城におおいに金がかかり、資金に困窮する武田氏を見限り木曾義昌氏が離反して、織田信忠氏に寝返ってしまう。
このことに憤慨をし木曾氏を攻めると勝頼氏は気がそぞろで、織田信長軍勢網の対策が出来なくなってしまっていたようです。
さらにさらにキーマンである穴山梅雪氏が、徳川家康氏と裏で通じ、新府城の築城や武田氏の情報を流していた。
武田勝頼氏の進退ここに極まる、というところでしょうか。
ここはNHK大河ドラマの「真田丸」の第1話の冒頭でも放映されていたワンシーンです。
進軍の手を緩めない織田軍、徳川勢とさらに東からは後北条氏も進軍し、新府城に100人足らずの武田勝頼軍と一族は真田の庄の岩櫃城ではなく、小山田氏の岩殿山城を選び向かいます。
しかし寝返りを決めていた小山田信茂氏の守備兵に鉄砲を打ち付けられ、岩殿山城には入れずに逃げるように天目山にたどり着きます。
ここが最期に勝頼氏に付き添った兵達も離反するものもいて、15,6人だったと伝わります。
天目山にて残った武田勝頼氏一族は自刃して果て、ここに名門武田氏は滅亡したと歴史に残ります。
岩殿山城の小山田氏の最期
小山田信茂氏は武田勝頼氏一族の滅亡を知ると織田氏に出仕を願い出ますが、”この期に及んで主君を裏切るものは信ずるに値せぬ”と甲斐善光寺にて打ち首とされました。
その訃報を聞き、大月に残っていた小山田一族は、織田勢に抵抗するため岩殿山城に篭城したと考えられますが、その時の伝説として千鳥姫伝説が残されています。
千鳥姫は小山田信茂の側室であったとされ、織田勢の大軍に岩殿山城を包囲されると、千鳥姫の子でまだ赤子の万生丸と、小山田信茂の2男・小山田賢一郎を連れて脱出を計画。
護衛として小幡太郎と城兵が共に岩殿山城の西尾根を辿り城外に脱出したと言います。
一行は声が反響する谷としその名が付いた「よばわり谷」まで逃れて、皆、無事に落ち延びた事を喜び合いましたが、その喜びの声が谷に反響し、予想外の方向から声が拡大されて聞こえました。
その声に、追っ手が来たのかと、慌ててしまった事もあり、千鳥姫の暖かい懐に眠っていた万生丸が目を覚まして、声高々に泣き出してしまったそうです。
小幡太郎はこのままでは小山田賢一郎の命が危ないと感じ、千鳥姫から赤子を奪うと、情け容赦なく岩殿山の断崖に万生丸を投げ落としました。現在、その場所は「稚児落し」と呼ばれているそうです。
その後の岩殿山城は津久井衆に確保され、そのまま後北条氏の配下となっていったと伝わります。
こうして武田氏を裏切った甲州小山田氏は終わりを告げました。
岩殿山城は今も難攻不落の城跡?
岩殿山城は大月市観光協会の案内にもあるふれあいの館が設備された、大月市認定の公園になってます。
駅からほど近く整備された強瀬ルートが初心者の方にはおすすめです。
大月駅から山頂へ行く畑倉ルートはやや時間がかかる道で、バス停”自動車教習所前”の近くに登山口の案内があります。
ここはなかなかの登山ルートになりますのでそれなりの装備とシューズで出向かれてください。
土砂崩れなどの影響で進入禁止になっている場所が多々あります。
新宮の洞窟や岩殿山城本丸跡、馬場跡、揚城戸跡、稚児落しなどを見て歩くのには多少の覚悟は必要かと。
そうとはいえ、装備をしっかりしていかれれば、鎖や金具が登りの所々に設備されてますので気軽に登れるハイキングコースとなっていて、天気のいい日は富士山も良く見えて思い出に残ること必見。
岩殿山城周辺の食べ歩き おまけ
岩殿山城の頂を堪能した後はここへ寄ってみては
@大月インターより帰りがけおみあげに寄ってほしい地元麴みそ「吉村味噌麹店」
大月市駒橋1-11-9
@桂川沿いにある軽食で眺めのいい景色もいただきましょう。「喫茶軽食 胡桃」
大月市御太刀2-9-13
@スイーツ、ケーキをおみあげにはここ。「Eigetsu(エイゲツ)」
大月市大月町65-2
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