江戸幕府を支えた大名屋敷がたくさんあった場所!その東京都心を巡るさんぽみち

東京都は名の通り東の京都です。

明治維新の時、明治天皇は江戸平定に準じて江戸へ足を運びます。

しかし、そのまま江戸が気に入ってしまい京都に戻らず江戸に腰を据えてしまったそうです。

京からは”こちらが本当の天皇がおわされるべき場所にございます”と公家衆から矢のような催促があったようです。

しかし、明治天皇は住めば都と言わんばかりに江戸からひがしきょうと地名を変え「東京」と記しました。

さらに京からは”こちらが本当の都にございますよ”と声がかかり京がみやことして「京都」と記しました。

しかし、こちらは東の京の都と天皇は返したことにより「東京都」が誕生したといい伝わるエピソードがあります。

この江戸の礎をつくった家康公が定めた大名は江戸に屋敷を設け、徳川家をもりたてるべしとした大名屋敷跡が今も遺跡として残ります。

NHK番組の「ブラタモリ」でタモリさんも大名屋敷めぐりをし全編、後編と2022年4月に放映されていました。

それに少しかぶりますが、江戸大名屋敷をめぐってみたいと思います。

非常にたくさんの藩邸が江戸城の周りにあったため、一部のご紹介とさせていただきます。


江戸幕府を支えた大名屋敷のあった場所

江戸幕府を支えた大名屋敷 伊達屋敷 仙台藩邸跡

江戸幕府の立ち上げを支えたのは、何といっても”天下の副将軍”伊達政宗だてまさむね氏ではないでしょうか。

天下分け目の「関ヶ原の戦い」にて、東北の抑えに石田三成いしだみつなり氏側についた上杉景勝うえすぎかげかつ氏と直江兼続なおえかねつぐ氏は白川口に陣をはり集結しました。

そこに徳川家康とくがわいえやす公の命により伊達政宗氏と最上義光もがみよしみつ氏は包囲網を敷き、上杉軍を容易に動けなくしました。

その間に関ヶ原合戦は1日で勝敗が決し、徳川家康軍の勝利となったのは皆さんも知るところでしょう。

しかし徳川家康公は伊達家には恩賞なしにし苦汁を飲まされることになったようです。

その後家康公は征夷大将軍せいいたいしょうぐんを朝廷より任命されます。

いよいよ江戸幕府が始まります。

そして伊達政宗氏は地位を重んじられたのでしょう。
現在の日比谷公園内の江戸城から近い位置に伊達屋敷がおかれます。

江戸城の真正面の一等地になるで場所でしょう。

その後家康公は隠居いんきょし息子の秀忠氏に二代目将軍をゆずり、伊達政宗氏にご意見番を任せます。

一時政宗氏は徳川秀忠とくがわひでただ公や側近に謀反むほんの疑いをかけられました。

徳川軍を仙台城に差し向けられる所の一触即発までになります。

伊達側も”城を枕に討ち死に覚悟で仙台城で迎え撃ち、負け戦となった時は松島の瑞巌寺ずいがんじで全員切腹と”、一死報いる所までになりました。(NHK大河ドラマ、独眼竜政宗より)

しかし徳川秀忠公の指南役の柳生十兵衛やぎゅうじゅうべえ氏らに施され、伊達家との昵懇をさらに深める方向をとり、伊達家は面目をほどこりました。

今も日比谷公園内には伊達屋敷の庭園池と石垣が残り、政宗終焉の地として語り継ぎが現在残ります。

その後時代とともに伊達藩も場を替え現在の日テレ付近の汐留にあった時期もあり、幕末は品川から大井町駅に抜けるあたりに旧仙台藩下屋敷があり、案内板や「仙台坂トンネル」として名残があります。

江戸幕府を支えた大名屋敷 長州藩邸跡

また現在の日比谷公園内には長州藩毛利家上屋敷跡もあり、徳川家康公より藩主毛利秀就もうりひでなり氏が所領安堵され拝領されたのが始まりとされています。

当時の日比谷公園一帯は、日比谷入江ひびやいりえという海だった場所でした。

徳川家康公の命で、そこを埋立したところに長州藩毛利上屋敷は建てられました。

明治維新後はそこにドイツ様式の公園になり、アーク灯や水くみが残っています。

江戸幕府を支えた大名屋敷 彦根藩邸跡・加藤清正邸跡

桜田門外の変」で幕末にあった井伊掃部頭いいかもんのかみ井伊直弼いいなおすけ氏)が暗殺された事件。

その桜田門の前にある国会議事堂もあるそばに現在は、憲法記念館の敷地になる一等地には彦根藩井伊家の上屋敷があり、そこに並ぶように熊本藩主屋敷で加藤清正かとうきよまさ邸もありました。

やや高台になっているこの場所は見晴らしもよく、江戸城にもし危機が起こればすぐ駆け付けられる場になっています。

また彦根藩の「名城彦根城」がある滋賀県彦根市金亀町は、琵琶湖のほとりに築かれ京に向ける交通の要所にもなり、京もしかるに江戸にても彦根藩は特に重く用いられていることが伺えます。

さらに桜田門の真正面の霞が関1-1-1には、赤レンガ造りで明治28年の創建当時の姿に復元されている、旧法務省の建物があります。

平成6年12月27日には重要文化財に外観のみ指定されています。

江戸幕府を支えた大名屋敷 米沢藩邸跡

法務省旧本館赤レンガ棟があるその場所には、かつて米沢藩上杉家上屋敷があり、そこでつかわれた石垣が一部発掘され残っています。

豊臣秀吉とよとみひでよし公の時代には会津若松を120万石の大大名でであった上杉家は、関ケ原の合戦では石田三成いしだみつなり氏側につき、敗訴側となり所領は30万石に大きく減となっています。

江戸幕府を支えた大名屋敷 土佐藩邸跡・阿波徳島藩跡

現在の東京国際フォーラムが建つ場所にはかつて旧東京都庁があり、その前に遡ると土佐藩邸上屋敷と阿波徳島藩上屋敷がありました。

その遺構はまったく残っていません。

現在では国際展示場内には関東平定の基盤をつくった「太田道灌公おおたどうかんこうの像」が飾られています。

時代と共に道灌像も旧東京都庁のシンボルとして置かれ、一時は丸の内の場所から都民を見守り、東京国際フォーラムとして生まれ変わった現在は、道灌公の像はここに戻り、皇居側に目を向け今でも天皇家を見守っておるように思われます。

江戸幕府を支えた大名屋敷 彦根藩跡

ホテルニューオータニが現在ある場所も近代化されてますが、ふと目を向けると谷底のような石垣の景観があり、この老舗ホテル内に現在も残る池泉回遊式ちせんかいゆうしきの日本庭園は400余年歴史を誇る名園です。

その隅には近衛彦根藩井伊屋敷があり大堀切や喰違見附跡の郭も残り紀尾井坂の遺構を今に残しています。

江戸幕府を支えた大名屋敷 尾張名古屋藩邸跡

そこからほどなく四谷駅方面に足を運ぶと、上智大学の横に料亭紀尾井亭さんの玄関口に尾張名古屋藩邸があった場所にたどり着きます。

藩邸の遺構はほとんどないですが、現在の上智大学一帯は藩邸内だったようです。

堀切の大きい土手が四谷駅先までつながり、江戸幕府始まりの1600年の頃の遺構の歴史を伝えます。

江戸幕府を支えた大名屋敷 紀伊和歌山藩邸跡

かつて「赤坂プリンスホテル」があった場所は、すぐそばに「弁慶堀」があり、天気のいい週末は釣りを楽しむ人やボートに乗る家族連れで賑わってます。

ここは現在東京ガーデンテラス紀尾井町となり、たくさんの市民のレジャーや買い物の場のレストラン、バー、スパ、フィットネスやプールも備わる。

他には飲食店舗や食品スーパーなどが入る商業施設になっています。

遡るとここには紀伊和歌山藩徳川屋敷跡があった場所でもあります。

徳川御三家の一つの屋敷跡であり、あの「暴れん坊将軍」八代目将軍徳川吉宗とくがわよしむね公もここにおられ、逼迫ひっぱくした幕府内の財政の立て直しの改革の「享保きょうほの改革」などを行っています。

吉宗公のエピソードは事欠かなく、ベトナムから輸入した像に日本で乗った初めての人と言われるように、新しもの好きの将軍様でした。

また江戸は火事が多く「江戸町の火消し」を設置して火事対策をおこなったことも有名。

花見の始まりをつくったともいわれ、町場の整備の一環として飛鳥山や隅田川堤などへ桜の植樹をしました。

などなどまだ吉宗公エピソードはありますがこのくらいで。

紀尾井町通りを紀尾井坂の方に進むと清水谷公園もあり市民の憩いの場になっています。

幕末から明治維新の王政復古おうせいふっこに力を注いだ大久保利通おおくぼとしみち氏は紀尾井坂付近の清水谷にて不平士族に殺害されてしまいます。(紀尾井町事件)

公園内には大久保公哀悼碑があり高さ6.27mの大きな石碑です。(墓所は青山霊園)

江戸幕府を支えた大名屋敷 薩摩藩邸跡

港区芝の日本電気株式会社本社ビルの周辺は薩摩藩島津上屋敷の最初の場所になっていたとされます。

オフィス街に名残の七曲りのくねくねした道が残っている。

その後三田の薩摩藩邸の地は幕末は移っていき、そこに西郷隆盛さいごうたかもり氏や大久保利通氏も滞在していたのでしょう。

東大井の下屋敷には島津家抱屋敷跡があり、そこに島津斉興しまづなりおき氏とお由良の方が滞在して幕末薩摩藩も揺れていたことでしょう。

江戸幕府を支えた大名屋敷 加賀藩邸跡

中でも藩邸跡地で目を引くのは文京区本郷の「東大赤門」で、加賀100万石の格式をもつ加賀藩前田邸上屋敷でしょうか。

第13代加賀藩主前田斉泰まえだなりやす氏が江戸幕府11代将軍徳川家斉とくがわいえなり公の娘の溶姫を正室に迎えた。

この門は、その際に建立された朱塗りの御守殿門と呼ばれた。

東京大学本郷キャンパスのほとんど飲み込むくらいの膨大な敷地の上屋敷だったとされてます。

あの小説家の小泉八雲こいずみやぐも氏(ラフカディオ・ハーン)や夏目漱石なつめそうせき氏が東京帝国大学の講師をしていた時期があったようです。

夏目漱石氏と小泉八雲氏の性格は正反対で漱石氏はせっかちで、八雲氏はおっとり型だったようですが、小説はどういう性格でもやれるんだと実感できます。

しかし、「三四郎」や「それから」など出版した夏目漱石氏に対しては小泉八雲は「怪談」とうなずけるところ。

「坊ちゃん」に関しては講師をしていた時の経験?から四国に赴任して教師をする主人公が登場するのではと。

その小説、三四郎が構想された本郷キャンパス内は、前田家当主2代目の前田利長まえだとしなが氏がつくったとされる庭園には三四郎池があり江戸時代の遺構が往時を偲ばせてくれています。


江戸幕府を支えた大名屋敷 あとがき

このほかにも紹介できていない、江戸幕府を支えた藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷がたくさんありました。

ほとんど遺構は残ってなく案内板だけのところもあり、江戸時代の旧地図などを拝見しながら散歩するのもいいかと思われます。

時代と共にいろんなことが変わりまた、変えていかなければならないもの、後世に残していきたいそんなものを大事に語り継いでいければと思う次第です。

江戸幕府を支えた大名屋敷おまけ

今回ご案内した大名屋敷の所にある行ってみて頂きたいおすすめのお店の紹介!

江戸幕府 食べ歩き 日比谷サロー

日比谷公園内のビヤガーデンは1949年創業の「日比谷サロー」なんとなく昭和を感じるお店です。

ビールに合うアジアごはんやお気軽なおつまみを多数取り揃えております。

電動スカイカバーで雨の日も安心してお過ごしいただけます。

千代田区日比谷公園1-1

江戸幕府 食べ歩き 料亭紀尾井町 福田屋

上智大学の横にある一度は入ってみたい昭和14年開業「料亭紀尾井町 福田屋」たまにはお値段少々高めの懐石料理を堪能してみては。

芸術家だけではなく、美食家としても広く知られる魯山人。

その世界観に魅せられた先代・福田マチは、「福田家」を 開業するにあたり魯山人から一から指導を受けました。

北大路魯山人きたおうじろさんじんの考え方、美意識が色濃く反映された店。それが福田家なのです。

千代田区紀尾井町6-12

江戸幕府 食べ歩き 東京ガーデンテラス紀尾井町

そしてここは外せません。お堀もすぐそばにあり、公園ありレジャーに最適のここ「東京ガーデンテラス紀尾井町」老若男女問わず行ってください。

たくさんの商業施設の店舗が引きめきあうオアシスビルです。

千代田区紀尾井町1-2


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