鎌倉には、毎日たくさんの観光客の方で賑う歴史のある街です。
鎌倉は京都に劣らぬ場所で、みなさんも一度は旅行やレジャーで来た事、あるいはテレビやニュースなどで必ず見たことある歴史ある地域ですよね。
2024年2月にNHKブラタモリで、鎌倉をブラブラとタモリさんが歩きながら「頼朝が武士の都・鎌倉をどうつくった?」のお題で放送されました。
そうです、武家の古都としてここに「いい国つくろう鎌倉幕府」が源頼朝(みなもとのよりとも)公によって敷かれ、武家による政(まつりごと)が初めて行われた地になります。
その時代の先駆者の源頼朝公がしたことは何だったのでしょうか?
兵どもが夢の跡といわれる戦(いくさ),戦に明け暮れた時代だった鎌倉の歴史は怖いところもあり、鎌倉幕府の開かれた歴史の裏などを探求していきます。
その他、古都鎌倉の鎌倉駅周辺のランチで人気のおすすめのお店を紹介しつつ、源頼朝公ゆかりのエピソードもまとめてお伝えしていくブログの内容になっています。
このブログにぜひ最後までお立ち寄りください。
鎌倉の歴史は怖い?源平合戦の死闘から勝ち抜いた源頼朝が鎌倉幕府を開いた古都鎌倉のいい国とは?
鎌倉の歴史は怖い?鎌倉心霊トンネル⁉小坪トンネル
いきなりの脱線ですが、鎌倉市は、源氏が血で血を争う時代からの土地柄で、源頼朝公が立ち上げた鎌倉幕府を執権北条氏が引き継ぐも、たくさんの重臣同士の政権争いが繰り返され、上総広常(かずさひろつね)氏や梶原景時(かじわらかげとき)氏一族や和田義盛(わだよしもり)氏の一族なども討たれていきます。
比企能員(ひきよしかず)氏も謀反の疑いありと比企一族も討たれ、鎌倉の妙本寺に比企一族の墓がひっそりとあります。
そんな何かあれば謀反と殺されていた、怖い歴史ある所だったとは知らずに、ある夏の日に昭和世代の私は、仲間たちと夜中の鎌倉ドライブにウキウキ気分で行きました。
友人の乗用車に4人で乗って、小粋なサザンの音楽を聴きながら鎌倉方面から葉山方面へ、134号線を走らせていると、今も有名な化けトンの「小坪トンネル」の前にさしかかりました。
ちょっとトンネルに入る前に、手前で車を路肩に停めて、煙草をふかしながら4人で、このトンネルってお化けトンネルで有名なんだよな~、なんて面白おかしく、キャッシー中島さんの小坪トンネルエピソードや、首無しバイクが出る話で盛り上がっていました。
ですが、その時私は助手席に乗っていたんですが、その後部座席に座っていた友人Sくんは霊感があって、突然私の席を後ろからガンガン蹴ったり叩いてきて、「速くバックして逃げろよ~!」と騒ぎ始めました。
みんな動揺して何が起こったかわかりませんでしたが、さらに友人、「早く車下げろよ~、早く!」と大声を出しながら、私の座っていた助手席を後ろから蹴り上げて搔き立てました。
運転していた友人に私も訳がわかりませんでしたが、「なんだかわかんないけど早く停まってないで、車動かせよ~!」とか言って大声出した記憶があります。
運転していた友人Iくんは、慌ててギアをバックに入れて、たぶん後ろから後車が走ってくるのも確認しないで、ハンドブレーキを外しアクセルをすぐ踏んで、40~50mくらいバックしました。
まあよく事故にならなかったと、今は思う次第ですが、、、。
もう一人一番はしゃいでいたTくんも焦って黙ってしまっていましたが、その後少し落ち着いたSくんに話を聞くと、私らには信じがたいことが彼には見えていました、、、。
トンネル前でふざけ話をしていた私らをよそ眼に、小坪トンネルの山の方から、メリーポミンズのようにふわふわと何人もの白装束(しろしょうぞく)を着た霊たちが地上に降りてきて、自分たちの車にゾンビのように横揺れで、両手をまっすぐ前に出しながら徐々に迫ってくる姿が見えていたと。
そんなことがありその日は怖くなって、逗子・横須賀方面に行くのは止めて、鎌倉側へ引き返し、途中の明るいコンビニストアーで、温かい缶コーヒーをみんなで飲みながら、夜明けになるのを待った、モノクロの記憶が残っています。
ちょっとしょっぱなから脱線しましたが、こういう鎌倉の怖い話ではなく、血で血を洗う古にあった鎌倉歴史のお話があったことを本当のメインでつづっていきます~!
鎌倉の歴史は怖い?いい国つくろう鎌倉幕府の1192年はもう古い⁉
鎌倉八幡宮の初詣シーズンには長ーい行列ができて、なかなか本殿にたどり着けなく、車で拝殿に来られる方には、駐車場にも渋滞が出るほどの賑わいの場所になります。
また2022年NHK大河ドラマでおなじみになった「鎌倉殿の13人」で、さらに観光名所になった鎌倉や湘南に伊豆は、源氏のゆかりの地で活気づきました。
そんな鎌倉の歴史の怖い裏側も含めて、このブログを観光の参考にして下さい。
さて、平安後期に鎌倉には元八幡(由比若宮:ゆいわかみや)がありました。
ある一人の源氏の御曹司(おんぞうし)が”鎌倉に武士の世を”、とスローガンを掲げ平家が日ノ本を治めていた政(まつりごと)を戦により勝ち得ていくのでした。
その時期を鎌倉幕府発祥として、私が中学生の授業で習った鎌倉時代の始まりは、現在では1192(いいくに)年が鎌倉幕府の始まりじゃないと、学者たちの討論により年号が替わってきて1185年という始まりに今の中学の歴史の教科書は変わってきています。
私らの昭和世代にとっては、この学校で習った鎌倉の歴史の年号が変わってしまうこと自体が、とても怖いことですね⁉
本題に戻ると、そのある人は地の底の挫折を重ねた日々からの、もがき苦しんで底から這いあがっていく、人生逆転劇でもありました。
鎌倉の歴史は怖い?古都鎌倉が開かれるまでの源頼朝がしたことは?伊豆の国市に流された助殿
その方はまだ、伊豆の国市に平清盛(たいらのきよもり)氏に配流された頃、源氏の御曹司で助殿(すけどの)と呼ばれていました。
しかしまだその方は安穏とした暮らしに慣れ、いつしか打倒平家の精神は薄れつつもありました。
平家に与する取り巻きに毎日身を監視される日々。
それに苛(さいな)まれる日々でした。
自分を押さえつけて生き、それが定めと思い聞かせていた。
その反面どこかでその気持ちに抗(あらが)う意思と、自分が誰なのか、なぜここにいてなぜ生きながらえているのか?
そんな気持ちで若い日々を過ごしていたのではないのでしょうか。
それがいつしか、平家が行っている政に疑問が高まっていきました。
そして同じ気持ちの同志が助殿の周りに集まり、打倒平家の強い意志がうねりとなっていきます。
北条氏や土肥氏、岡崎氏らと連絡を取り合い、機をうかがっていくようなります。
そんな時京において平家に与していた源頼政(みなもとのよりまさ)氏が平清盛氏から謀反(むほん)を起こし挙兵をし源氏の士気に火をつけました。
やがてそのお人とは、ご存じ源頼朝(みなもとのよりとも)氏は鎌倉を起点にし平家打倒の戦に挑んでいくのです。
鎌倉の歴史は怖い?古都鎌倉が開かれるまでの源頼朝がしたことは?古都鎌倉の礎は八幡太郎義家にあった
鎌倉の歴史を遡ると、先に鎌倉の礎(いしずえ)をつくったのは八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)氏でしょう。
1051年の平安時代後期から始まった「前九年の役(ぜんくねんのえき)」で、陸奥国(むつのくに:今の東北地方で福島県、宮城県、岩手県、青森県)の奥六郡(おくろくぐん)で豪族たちの反乱が起こります。
奥六郡(胆沢:いさわ,江刺:えさし,和賀,稗貫:ひえぬき,斯波:しばし,岩手)を支配していた安部氏は朝廷政権に従わず、納税も怠るなど好き勝手をしていました。
陸奥国守であった藤原登任(ふじわらのなりとう)氏が朝廷の命により討伐に向かいます。
しかし結果は大敗を喫してしまいました。
その後任として義家氏の父源頼義(みなもとのよりよし)氏が任命されます。
一時休戦しおとなしくなった安部氏も税を納めるようになっていました。
やがてまた休戦は切られ「阿久里川事件(あくとかわじけん)」を皮切りに1056年にふたたび戦が始まります。
その後、「黄海(きのみ)の戦い」、「小松柵の戦い」、「衣川関の戦い」と続き総大将の安部貞任(あべさだとう)氏は討ち死にし、ようやく戦は終わりを向かえます。
鎌倉の歴史は怖い?古都鎌倉が開かれるまでの源頼朝がしたことは?後三年合戦が起こる
しかし、1083年平安時代後期の陸奥・出羽を舞台に「後三年合戦」が起こります。
清原氏が朝廷に対して反乱を企(くわだ)てました。
この合戦は奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いでした。
その時源頼義氏の嫡男(ちゃくなん)である源義家氏が、陸奥守(むつのかみ)を拝命して陸奥国に入り出羽に出兵します。
しかし反乱はもともと分裂していた清原一族の内部分裂が基でした。
源義家氏が藤原清衡(ふじわらのきよひら)氏・吉彦秀武(きみこのひでたけ)氏側に加担しことが、さらに事が大きくなったと伝わります。
片方側の清原武衡(きよはらのたけひら)氏・清原家衡(きよはらのいえひら)氏は滅亡されましたが、この戦は源義家氏の私戦と受け取られ、陸奥守を解任させられ、もとより報酬(ほうしゅう)も出されなかったとされています。
そんな中、義家氏は私財を投げ売って兵たちに労ねぎらったといわれます。
その功績はその先武家の棟梁として源氏の名声が頼朝氏に受け継がれていくことになります。
解任後、義家氏は前九年の役で勝利した感謝をするため、源氏の氏神の石清水八幡宮を鎌倉の由比若宮(元鶴岡八幡宮)を父頼義氏によって創建されました。
そして、この地で頼朝氏は再起の祈願しますが、お話は後ほど。
10年後にようやく受領功過定(ずりょうこうかさだめ:成績審査)が、白河法皇の意向もあり通りました。
その後晴れて源義家氏は、正四位下(しょうしいのげ)に昇進したと伝わります。
鎌倉の歴史は怖い?古都鎌倉が開かれるまでの源頼朝がしたことは?打倒平家へ
話しは頼朝公の方に戻り、平安時代後期では平家と源氏が貴族の護兵であったころ、都では貴族同士の内乱に奮闘するのが武士の役目であったとされている。
その時期白河法皇が崩御し、崇徳上皇と後白河天皇との後継者争いが始まり、保元の乱(ほうげんのらん)から平治の乱(へいじのらん)と続き、そこに武士の棟梁であった平氏の平清盛(たいらのきよもり)軍と源氏の源義朝(みなもとのよしとも)軍との戦となり、平清盛軍側が勝利を収める結果となりました。
平清盛軍側が勝利=後白河天皇が後継者となった戦の結果です。
その時ご存じNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」でもおなじみの大泉洋さん演じる頼朝氏(鬼武者)は若き頃、平治の乱で父源義朝と戦に駆り出されあえなく惨敗。
源氏は都落ちをし、落ちのびる際、みなと鬼武者ははぐれてしまいました。
その後平氏の追っ手に若き鬼武者は捕らえられて、平清盛公の前に連れ出され幽閉(ゆうへい)されました。
そしてそのころ一番重い刑罰の島流しになりました。
それが伊豆国蛭ヶ小島(いずのくにひるがこじま:静岡県伊豆の国市四日町)に流人として平家につく豪族が多く拝領されている地に流されました。
そこで虎視眈々(こしたんたん)といや、安穏とした流人生活でもあり、監視から逃れられない罪人扱いもされながら毎日を格闘しました。
蛭ヶ小島で出会った北条政子(ほうじょうまさこ)様と恋仲となり妻に娶ります。
やがて平家の政に不満をもち始めた源頼朝氏に続いた、北条時政(ほうじょうときまさ)氏を筆頭に三浦氏、比企氏、和田氏の豪族たちと立ち上がり、平家へ戦を挑んだのでした。
鎌倉の歴史は怖い?新鋭、弟源九郎義経氏の活躍で平家打倒!
源頼朝氏は平家打倒の挙兵の場を伊豆ではなく、源氏のゆかりで八幡太郎義家が築いた元八幡宮がある「鎌倉」を拠点にしていくのでした。
天然の要害として外敵が攻めにくく守りやすい場所としては、この由比ガ浜付近は最適でもあったでしょう。
近くには海があり、周りは山に囲まれた天然の要害で、その頃は環境が整っておったのでしょう。
その後鎌倉をめざし頼朝氏が伊豆の国より挙兵して、関東から平家討伐が始まったのでした。
神奈川県小田原市の石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)で、源氏軍300騎に対して、平家軍3000騎と応戦するも多勢に無勢は如何ともしがたいところ。
平家に与する大庭景親(おおばかげちか)氏率いる軍に、頼朝氏の片腕で参陣していた佐奈田与一義忠(さなだよいちよしただ)氏らが討ち死にするなどで大敗を喫します。
後に佐奈田与一義忠氏の霊を弔うため、頼朝公の命で佐奈田霊社が建立されています。
伝承でよく聞く湯河原町のししどの窟(いわや)に数人の兵と身を隠していたところを敵兵であった梶原景時(かじわらかげとき)氏に発見されてしまいますが、彼はそれを見逃しました。
その後頼朝氏は真鶴半島から安房国(あわのくに:千葉県館山市あたり)へ引きそこで、千葉常胤(ちばつねたね)氏や上総広常(かずさひろつね)氏と合流し今後の相談を持ち掛けます。
軍勢を整え千葉氏らは鎌倉には上総広常氏と参じることを約束にこじつけました。
その後木曽義仲(きそよしなか)氏も挙兵をします。
ご存じ弟の九郎義経(くろうよしつね)氏が、奥州の藤原秀衡(ふじわらひでひら)氏の所に身を寄せていましたが、挙兵を決意し弁慶(べんけい)や佐藤兄弟等の郎党(ろうとう)を引き連れ頼朝公にはせ参じます。
その後平家においては、太政大臣(だじょうだいじん)にまで上り詰めた平清盛公が死去してしまいました。
それからの源氏側の勢いは目を見張るものがあり、体制が立て直った頼朝軍は「富士川の戦い(ふじかわのたたかい)」で戦をせずに思わぬ勝利を拾います。
というのは、京から鎌倉へ押し寄せる平家軍の寄せ集めは、一時富士川にて陣を敷き、まとまらない兵たちのご機嫌を取るため、平家軍の陣頭を任された平維盛(たいらのこれもり)氏は酒を振る舞って、女を用意させて兵の士気は緩んでいました。
そこに甲斐武田軍が進軍して、機をうかがっていた時に、平氏軍は水鳥がびっくりしていっせいに羽ばたく音を源氏軍の攻撃だと勘違いし、戦(いくさ)らしい戦いをしないまま、混乱の最中で撤退する結果となりました。
次に戦上手な木曽義仲氏が俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで、平家軍に勝利し幽閉されていた後白河法皇(ごしらかわほうおう)を脱出し、そのまま京都へ上り恩賞に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に命ぜられます。
そのことは頼朝公には疎(うと)んじられ、また京ではやりたい放題の始末により、後白河法皇との対立が深まり、暴挙にでた木曽義仲氏は頼朝公の采配で九郎義経軍に討伐されることとなります。
さらに源氏の勢いは留まることを知りません。
現在の兵庫県神戸市の一ノ谷(いちのたに)で源氏を迎え撃とうともくろむ平家ですが、頼朝公は追い詰めていきます。
〇石橋山古戦場
〒250-0022 神奈川県小田原市石橋
〇佐奈田霊社
〒250-0022 神奈川県小田原市石橋420
〇源平倶利伽羅峠古戦場跡
〒932-0836 富山県小矢部市埴生
鎌倉の歴史は怖い?平家討伐にいよいよ終止符!
平家一門は兵を整えつつあった一ノ谷に源氏の軍は到着します。
頼朝公の弟の源範頼(みなもとののりより)氏が軍勢を前から進行し、搦手(からめて)からは源義経(みなもとのよしつね)氏が率いる軍が夜討ちによる有名な「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」で平家に奇襲を仕掛け平家軍を蹴散らしました。
ここは平敦盛(たいらのあつもり)氏と源氏の熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)氏の「敦盛伝説」が語り継がれている場所でもあります。
その後「敦盛」の舞が造られ、それをかの織田信長(おだのぶなが)氏が好んで、舞ったと歴史に記されています。
話を戻して、そしてさらに頼朝公は手をゆるめません。
源平合戦最終話の屋島の戦いから壇ノ浦でその後激戦の上、平宗盛(たいらのむねもり)氏が率いる伊予の水軍も倒します。
しかし亡き平清盛公の正室である平時子(たいらのときこ)様と幼い安徳天皇(あんとくてんのう)が入水し身を投げてしまい、三種の神器(さんしゅのじんぎ)と一緒に現在の山口県下関市の関門海峡付近に沈んでしまうのでした。
この時で平家滅亡により、名実ともに源頼朝公誕生の1185年が鎌倉幕府の政の始まりとなりました。
ということは、私たち50半ばの昭和のおやじは「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と、年号を覚えるのに教わった歴史は、現代学では変わりつつあります。
これからは「いい箱(1185)つくろう鎌倉幕府」のごろ合わせのようです。
〇一ノ谷 戦の濱碑(源平合戦)
〒654-0076 兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町5ー2
〇壇之浦古戦場
〒751-0813 山口県下関市みもすそ川町21−1番
〇赤間神宮 水天門
〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−1
鎌倉の歴史は怖い?涙の腰越状より義経逃避行の日々へ
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)後に義経氏は、頼朝公の許可も受けずに後白河法皇のお膝もととなり、獲りこまれていきました。
壇ノ浦の戦いでかろうじて拾い上げられた、三種の神器のうちの鏡と玉を頼朝公に知らせるすべもなく後白河法皇に差し出しました。
さらに頼朝公の許しを得ないまま、平家討伐の恩賞を朝廷よりくだされた官職を受けてしまい、名も九郎宝官義経(くろうほうがんよしつね)と授かります。
このことで頼朝公の勘気に触れます。
京から鎌倉に下り、兄である頼朝公詫びを入れるも許されず、腰越の満福寺で足止めをされ頼朝公は拝顔を許しません。
その時義経氏は兄弟である兄に対しての情を募った”腰越状(こしごえじょう)”をしたため送ります。
ようやくここで鎌倉に話が戻ってきました。
この満福寺には、義経氏の切なる思いのほかをつらつらと書かれた腰越状の復元ですが見ることができます。
また満福寺の襖には静御前(しずかごぜん)様と一時の別れと義経氏が頼朝公と分断し、再び奥州の藤原秀衡氏に身を寄せる決意をして北へ向かう際のエピソードが描かれています。
庭には弁慶ゆかりの腰掛け石や手玉石などが残っています。
〒248-0033 神奈川県鎌倉市腰越2ー4ー8
その後さらに頼朝公と義経の仲は悪化し、義経捕縛命令が下されます。
奥州の平泉に義経氏は秀衡公に頼りますが秀衡公があえなく亡くった後、後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)氏に必要以上に義経討伐状の文が幾度も送られてきます。
頼朝公自身が直々に奥州へ討伐に参陣する内容に屈指、泰衡氏は義経氏を追い詰め自害に追い込むのでした。
さらにそれに応じて頼朝公は奥州藤原氏の討伐も兼ね、軍を投じた鎌倉殿でしたが、平泉は泰衡公の敗走で幕を閉じた模様です。
そしてこれより、鎌倉殿の御家人同士での勢力争いで、つぶし合いが起こっていくのでした。
館など藤原氏の財は焼け落ちてしまったようですが、残った中尊寺金色堂や無量光院など奥州平泉の景色には頼朝公も感じ入り、鎌倉に平泉をお手本にした極楽浄土の景観を再現されています。
現在はその永福寺(ようふくじ)跡だった場所が、手も施されていて荒れ地だった跡地が生まれ変わり、鎌倉時代初期の栄華を今に伝えてくれる観光スポットに今なってきています。
その近い場所に鎌倉市二階堂で、護良親王(もりよししんのう)が祀られている鎌倉宮の裏側の方に位置して、近くには鎌倉宮カントリーテニスクラブがあります。
鎌倉八幡宮の敷地から出て清泉小学校の方へ向かうと鎌倉宮の方へ行きますが、その真ん中あたりに最初の大倉幕府跡があったとされる石碑があり、ガイドとなる案内看板を見て歩いていくと、山側に公園と白旗神社があります。
階段を登るとそこに「法華堂跡」の石碑の所に「頼朝公の墓」その人が眠る場所があり、その先に頼朝公の舎弟でその後執権として鎌倉政権を支えた北条泰時(ほうじょうやすとき)氏の墓も少し離れた100m位先に大江広元(おおえのひろもと)氏と並んで祠(ほこら)の中にあります。
ここもやはり2022年度大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で地域活性化がなされ、法華堂跡の礎石が置かれ拝観しやすく、また遺構跡がわかりやすくなっています。
〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂209(永福寺跡)
鎌倉の歴史は怖い?源頼朝の鎌倉幕府の意思を継いだ北条氏
その後頼朝公が礎をつくった鎌倉は数々の歴史が残されていきます。
頼朝公が亡くなった後ですが七つの切通しがつくられ、鎌倉周辺より日ノ本へ通づる道が開通され流通を確固されていきます。
鎌倉街道を始めとして、釈迦堂切通(しゃかどうきりとおし),朝夷奈切通(あさいなきりとおし),大仏切通,極楽寺坂切通,化粧坂切通(けわいざかきりとおし),亀ヶ谷坂切通,名越切通が開拓され利便が図られていきます。
鶴岡八幡宮が起点となり、北条氏が執権となり幕府を受け継ぎ、建長寺や円覚寺,浄智寺,極楽寺、明月院,東慶寺,来迎寺,荏柄天神社,覚園寺,瑞泉寺,明王院,杉本寺,報国寺,光触寺,瑞泉寺,寿福寺,妙本寺,安国論寺とたくさんの寺院が創建されておりその時期、その時期の政(まつろりごと)が各寺院で行っていきました。
しかし、1333年に鎌倉幕府も終焉(しゅうえん)を迎えることとなり、足利尊氏(あしかがたかうじ)氏により京が抑えられ、新田義貞(にったよしさだ)氏に鎌倉は攻め入られました。
鎌倉幕府執権の北条高時(ほうじょうたかとき)公が鎌倉を追われ、最期は東勝寺(とうしょうじ)にて800人余りの北条一族が自害をし、鎌倉幕府終焉の地としてその悲劇は高時腹切りやぐらの遺構が残されています。
残念ながら現在は、中まで入ることは出来なくなってしまいました。
外部から東勝寺跡の遺構を拝観することはできます。
その先の祇園山ハイキングコースは倒壊の恐れがあって、一時期通行止めとなっていましたが、それも解除になっており、ハイキングを楽しめるようになっています。
「高時腹切りやぐら」には霊感の強い方は、霊場ですので霊障を受ける可能性が起こりやすい場所ですから、拝観は避けた方がよろしいですが、行く際は自己責任で対応をよろしくお願いします。
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町3ー10ー1
鎌倉ランチで人気のおすすめな店や穴場の店
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 鎌倉和鮮
まずは、湘南の由比ガ浜にも近い鎌倉ならではの海の幸のお店、鎌倉和鮮は味噌汁付きの丼がどーんと10種類以上あって、なかなかの食べ応えでなおかつ新鮮。
海鮮丼にまぐろ丼(1430円),鉄火丼,生しらす丼,生サーモンいくら丼(1650円)などに北海いくら丼(2530円),北海うに丼(2750円)海の幸たっぷりの北海丼(3300円)などなど。
限定10食の鎌倉丼(1980円)は彩もいうようにまだたくさんお腹を満たしてくれるメニューはほかにもありますよ。
お酒が好きで、電車で観光あるいはお泊りの観光なら日本酒で1杯しちゃいましょうか。
営業時間:11:00~21:00
☎0467396530
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2ー8ー16
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 カフェ ヨリドコロ
ここもよく人気番組で取り上げられていて、2023.12月にもTBSラジオの「ジェーン・スーの生活は踊る」でもお店の大きなさつま揚げのことなどが紹介されていました。
お店ヨリドコロは、江ノ電がすぐ横を通る、踏切のすぐそばにあり、インスタ映えも定評あるし、素朴な朝ごはん(7:00~9:00)のあじの干物定食,さば干物の定食(980円)や一品攻めでこだわり卵(220円)に味付けのり(50円)とおかわりごはんと納豆(各100円)は何とも言えない、家で食べるより格別の美味しさです。
朝から平日も並んででも食べに来られるお客さんがいる、人気のおすすめ店です。
普通の一軒家の一階をお店にした野菜料理に魚料理にこだわった一軒家レストランです。
予約不可なので並んで食べるお店なのです。
営業時間:7:00~18:00(火曜定休)
☎0467405737
〒248-0024 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1ー12ー16
ヨリドコロ KAMAKURA レンバイ市場店
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町1ー13ー10(鎌倉中央食品市場内)
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 すき焼き 松㐂屋
完全予約制のすき焼き松㐂屋(まつきや)では、鍋奉行がいらない一人用のすき焼き鍋で、お好みですき焼きを楽しむスタイルになっています。
ちょっとした隠れ家的なお店で、場所も小町通りから裏道に入ったところに、北条時房邸跡・小池民部屋敷跡なんかが残った隣にあって、より鎌倉の風情を感ずる部分があります。
お値段もそこそこかかりますが、ランチで3000円から4000円くらいです。
昼のすきやき重は、”美味秀麗”近江牛ロース(税別3800円)に、”旨味豪快”神戸牛ブリスケ(税別3200円)があって、前菜,漬物,汁物,甘味,珈琲または緑茶付きです。
ランチのちょっとした贅沢で、すき焼きに舌づつみしませんか。
営業時間:11:30~13:30 17:00~20:00(月、火、水曜定休)
☎05031384029
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下1ー9ー11
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 Miyoshi Udon-noodle & Sake
休日ともなると、外には町の人が並ぶ賑わいの店で、おすすめはさくっとした歯ごたえの鎌倉野菜の天ぷらを醬油・胡桃の2つの出汁でいただく”天ざる建長胡桃出汁うどん”(1485円)に”熱い建長汁で黄鶏天(かしわてん)ぷらの盛り合わせをいただきます”天釜建長汁うどん”(1540円)や鎌倉野菜の盛り合わせを熱い鶏汁でいただく”天釜鶏汁うどん”(1518円),冷たいざるうどんと黄鶏天ぷらの盛り合わせです”黄鶏天ざるうどん”(1463円)。
日本酒行っちゃおうかな、そんな気分にさせてくれるお店です。
どれもお昼にいただいて、満足のランチです。
営業時間:11:15~20:30
☎0467614634
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下1ー5ー38 こもれび禄岸 1階
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 腸詰屋 鎌倉小町
小町通りでちょい酔いしながらのランチにいいのがここ、腸詰屋(ちょうづめや)です。
ランチに湘南ビールパイントセット(税別1400円)だけでは終わらなくなるので、せめて焼きソーセージ5種盛り(税別1900円)と湘南ビール2杯ほどいっちいましょうか。
他にもゴジラカレーやビーフシチューランチ(税別1300円)などに湘南ビール&おまかせプレート(税別2400円)のほかもありますよ。
アルコールはピルスナーやアルト,シュバルツ,IPAアメリカンやゴールデンエールなどもあり、受け付けないなどや車の運転の方は、ノンアルコールやソフトドリンキングしてください。
営業時間:10:00~18:00
☎0467334986
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下1ー4ー20 アビティ雪ノ下 1階
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 okashi nikaido
コテージにたたずむお店のイメージで、天気の良い日はテラスでコーヒーブレイクしながら、オーガニックメニューのパンプキンマフィンやチョコレートマフィンなど日替わりで、10種類からあるマフィンを焼いています。
クッキーやショートブレッド,パウンドケーキなどがお土産にテイクアウトもできます。
白と横が木目の外装で、テラスがあるので、すぐわかるおしゃれなお店ですね。
営業時間:10:00~17:00(水曜定休)
〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂27−10
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 cafe cococara
源頼朝公にもゆかりが深い佐助稲荷にも近い場所にある、カフェココカラはミネストローネのついたフレンチトーストも捨てがたいですが、ハムとモッツアレラチーズのトーストサンド(税別950円)が鎌倉野菜もさりげなくついておなかにやさしい。
メニューはほかにも色々ありますが、3時頃におやつセットでお子様お迎えの奥様ご家族や、奥様だけでのおやつ休憩にドリンクとセットで、ベリーベリーホイップケーキなどしちゃいたい、なんかそんな気分になりますよね。
コーヒーを出すタイミングも見計らってくれて、心配りがありがたいお店です。
営業時間:10:30~18:00(水曜定休)
☎0467814648
〒248-0017 神奈川県鎌倉市佐助1ー12ー3
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 しらすや
色んな番組でも紹介されているお店しらすやは、生しらすやかき揚げのしらすも当日捕れたしらすだけに新鮮でうまい!
平日でもかなり並ぶので、休日は1時間以上待ちは覚悟でいくべし。
釜揚げのしらすもばくばくいけるのが全部はいった、しらすづくし定食(1980円)はいうことなし。
ご~かく!
当日水揚げした魚介類の丼や煮つけに刺身はなどにした魚介類は、新鮮そのものだけに、地元鎌倉じゃ負け知らずのランチも人気でおすすめのお店です。
営業時間:11:00~21:00(木曜定休)
☎0467330363
〒248-0033 神奈川県鎌倉市腰越2ー10ー13
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 一風堂 湘南SEASIDE
さてさて、ラーメンファンの方々、お待んたせいたしました。
新横浜のラーメン博物館などでもおなじみの一風堂ラーメン店が湘南にあるんですよ。
夏だからこそ、湘南の海の日差しにやられて、極からか麺(930円)か赤丸新米(890円)をいっちゃいたくなるのが、相場ですよね。
オプションに博多ひとくち餃子(470円)と温玉のせ ハカタノチカラめし(470円)も頼んでしまうのは、育ち盛りの証拠!
営業時間:11:00~21:00
☎0467381541
〒248-0033 神奈川県鎌倉市腰越3ー5ー29 プラザ鎌倉 2F
鎌倉ランチで人気のおすすめの店 ショコラトリー カルヴァ
軽いランチにもいい、パニーニやエビパンやクロワッサンなどがいただけます。
メインはアートチョコの販売をしていて、濃厚ですがさっぱりしたチョコアイスクリームにアートチョコをくっつけて食べるのが、今の流行ですよ。
お土産にショーケースに入った、栗きんとんショコラ(3780円)や羊羹ショコラ(2700円)をお買い求めいただいたら、今日の鎌倉観光の話しに花を咲かせれば、ご家族で団らんのひとときにいいですよ。
入り口の赤い大きな唐傘が目印になっています。
営業時間:10:00~16:00(土、日曜は16:30まで営業;火、水曜定休)
☎0467386259
〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内407
鎌倉の歴史は怖い?鎌倉周辺をぶらぶら観光
鎌倉の歴史は怖い?鎌倉八幡宮
鎌倉の中心というと、鎌倉八幡宮ですよね。
武士を中心とした政が司られたことの象徴ともいうべき寺院ですが、私が小学5年生の時に学校行事の日帰りハイキングで来た時には、見事な参道の階段横に800年前から息ずく大銀杏(おおいちょう)がありました。
由来は、ここで公卿(くぎょう)が銀杏に隠れていて、3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)公が鎌倉八幡宮に右大臣拝賀式が行われた後に参道の石段を下ってきた際に切りかかり討たれ、首をとった話は有名です。
その銀杏も当時はここまで大きくなかったという内容の説明板がありました。
その大銀杏も、2010年3月の台風に悲痛にも倒れてしまいました。
しかし新芽も倒壊した所から生え始め、強い生命力を伝えています。
その銀杏の前には舞殿が置かれており、ここではあの源義経氏の想われびととなった静御前(しずかごぜん)様が「しずやしず」を頼朝公と御家人の前で披露したことも歴史に残っています。
この頼朝公が築いた鶴岡八幡宮も、たくさんの歴史が上塗りされてきた場所で、関東大震災に崩壊した痛ましい出来事もありましたが、現在は修復し建て替えられて、今もたくさんの方たちが拝殿や観光に来られています。
〒248-8588 神奈川県鎌倉市雪ノ下2ー1ー31
鎌倉の歴史は怖い?朝夷奈切通の太刀洗
鎌倉の七つの歴史を伝えている切通の中で、一番当時の面影を残している朝夷奈切通(あさひなきりどおし)は、秋のもみじの季節にはたくさんの落ち葉で埋め尽くされ、色ずくハイキングコースを散策すると鎌倉時代にタイムスリップしたかの面持ちになります。
その古にはこの一帯には鎌倉殿の御家人の屋敷があった場所で、ここで上総広常(かずさひろつね)氏が、頼朝公の命で梶原景時(かじわらかげとき)氏により討たれ、名水の一つとして残っている梶原大刀洗水と名を残しています。
ここの清水で、梶原景時氏が血がついた太刀を洗ったと伝わります。
そのそばに朝夷奈三郎氏ちなむ三郎の滝があり、朝夷奈切通のハイキングコースに進む入り口になっています。
林の並木に囲まれた奥には、朝比奈熊野神社もハイキングの際立ち寄ってみたい場所です。
〒248-0001 神奈川県鎌倉市金沢区
鎌倉の歴史は怖い?和田塚
江ノ島電鉄の和田塚駅のそばには、和田塚としてこじんまりとその土地が残されています。
そこはかつて和田義盛(わだよしもり)一族が北条義時(ほうじょうよしとき)氏により謀反の疑いから討伐された場所と伝わり、ここで和田氏が討たれて、発掘調査の際はたくさんの屍(しかばね)が出土したといわれています。
和田塚に近い由比ガ浜大通りのところには、罪人を打首にした刑場があったといわれます。
そんな忌まわしい面影は今は全く無く、賑わう飲食店やブティックや民家が立ち並び由比ガ浜六地蔵は、霊の弔いのために設けられたようですが、今では道の交通安全を見守る地蔵とされています。
〒248-0014 神奈川県鎌倉市由比ガ浜3−4−7
まさに”兵どもの夢の跡”の地、鎌倉の場所を紹介させていただきました。
鎌倉へアクセス
公共交通機関(電車)
・JR東京駅~鎌倉駅(JR横須賀線):約1時間
・東京駅~大船駅(上野東京ライン) JR大船駅~鎌倉駅(横須賀線):約1時間
マイカー
・外堀通り都道405号線をぬけて、首都高速道路へ入る~西銀座JCT~西銀座料金所~汐留JCT~汐留料金所~浜崎橋JCT~芝浦JCT~昭和島JCT~大師本線料金所~生麦JCT~首都高速神奈川5号大黒線~大黒JCT~首都高速湾岸線~横浜ベイブリッジ~本牧JCT~釜利谷本線料金所~横浜横須賀道路~朝比奈料金所で横浜横須賀道路を下車して、県道23号線に出る。
・朝比奈インター出る~環状4号線~県道23号線~信号朝比奈交差点を左折~金沢街道~鎌倉霊園~十二所~そのまま道なりに行けば鶴岡八幡宮に到着
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
鎌倉周辺の駐車場
・SKパーキング(収容台数:普通車12台)
営業時間:24時間
料金:20分/100円(7時~24時)
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2ー1ー7
・マイパーキング段葛(収容台数:普通車23台)
営業時間:24時間
料金:30分/200円(平日:9時~22時) 30分/400円(土日,祝日:9時~22時)
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2ー15
・センターパーキング駐車場(収容台数:普通車)
営業時間:24時間
料金:30/200円(平日) 30分/300円(土日,祝日) 1500円(平日最大6時~24時)
その他にも駅周辺にはタイムズ駐車場がいくつかあり、駐車料金などや時間もまちまちです。
鎌倉の歴史は怖い? あとがき
まだまだ語りつくせてないですが、鎌倉は由比ガ浜という湘南の海をめぐり江の島、辻堂、茅ケ崎、藤沢、逗子、葉山、三浦半島への現在の神奈川県のリゾート地となり各地からの人々が集まってくるあこがれの街になりました。
本当に京都に劣らない観光地で、たくさんの寺院や数々の歴史が上塗りされてきた地です。
鎌倉幕府からその後の室町時代には、源氏の流れを受け継いだ足利尊氏(あしかがたかうじ)公のゆかりの地でもあり、戦国時代には、豊臣秀吉(とよとみひでよし)公による小田原征伐により、鎌倉周辺の神武寺辺りは戦の傷跡が残された場所でもありました。
兵どもが夢のあとの鎌倉はこれからも輝き続けて、未来を迎えていくのでしょう。
鎌倉幕府等の他のブログも投稿していますので、ご興味がありましたら、こちらのブログも参考にして下さい。
今回も最後までこのブログを読んで頂きありがとうございました。
源頼朝公ゆかりの地を観光 おまけ
鎌倉にはたくさん紹介したいお店がありますが、自分のおすすめを小町通りからご紹介!
源頼朝公ゆかりの地を観光 宗家源吉兆庵 鎌倉本店
おみあげを買って帰るなら和菓子の「宗家源吉兆庵 鎌倉本店」です。
当店は小町通りの一角に平成6年(1994)に開店して以来、地元のお客様に愛され続けてきました。奥には鎌倉縁の北大路魯山人の作品を常設展示する「鎌倉・吉兆庵美術館」を併設。店内には定番菓子の「とこよ」や「福渡せんべい」などから季節の和菓子までを彩り豊かに展示販売しています。秋冬には干柿を用いた『粋甘粛』や栗の御菓子『御前栗』など、春夏には岡山の自社農園で栽培された最高級のマスカットが入った『陸乃宝珠』がお薦めです。お茶のお供に、贈り物に店内をゆっくりと眺めながらお買い求めください。
鎌倉情調を損なわない和風な外観なお店です。
営業時間:10:00~18:00
☎0467232788
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2ー9ー1
源頼朝公ゆかりの地を観光 鎌倉壱番屋(せんべい)小町店
小腹がすいたら小町通りを歩きながら、ばりばり食べれるよ。「鎌倉壱番屋(せんべい)小町店」
炭火の焼きたてせんべいにのりがまかれたせんべいや、昔懐かしぬれせんもあり小町通りではしたなくも歩きながら食べ歩きしませう。
営業時間:10:00~18:00
☎0467226156
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2ー7ー36
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