歴史に興味ない方でも、武田信玄(たけだしんげん)氏と上杉謙信(うえすぎけんしん)氏の名前は知っておられると思います。
そしてその二人の大将のそれぞれ率いた軍が、川中島にて対峙し、そして5回にも及ぶ戦が繰り広げられていたことは、半信半疑でしょう。
その両者の一国の武将たちがプライドをかけて激戦に及んだ、川中島合戦の勝敗は?エピソードやゆかりの地を巡っていきたいと思います。
今回も私のブログにお立ち寄りして頂きありがとうございます。
ぜひ最後まで、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
川中島の戦いの勝敗は?川中島の戦いでの一騎打ち!武田信玄上杉謙信が5回にわたる死闘の戦場とは
武田信玄上杉謙信が5回にわたる死闘の戦場とは?「激突!川中島の戦い」はなぜ起きた
甲斐(甲州山梨県)を治める武田晴信(たけだはるのぶ:のち信玄)氏は、きれいごとでは済まされない戦国の世を生きぬくために縁組みや謀略により、諏訪(すわ)の地を支柱に治め、次なる国の拡大をもくろみます。
甲斐武田氏の領地は、盆地で山に囲まれた地域で、雨が降り続くと氾濫する釜無川に手を焼き、田畑を営む農民を苦しめる土地柄でした。
そこで、甲斐の国を興し、川の氾濫を抑えるための堤を造作したり(信玄堤)、金銀山を掘り起こし(黒川金山、石見銀山)、豊かな国造りを晴信氏はすすめていきます。
しかし、甲斐武田氏の領地には海がなく、貿易の船を出す港がありませんでした。
そして、信濃から越後へ道を切り拓いていくために、戦により周りの領土を治める修羅の道を武田氏は選んでいきます。
武田軍は上田庄(うえだのしょう:現長野県上田市)の佐久郡から攻め入り、力攻めだけでなく、調略や金銭を使い城を落していく戦わずしてかつ戦略を行っていきます。
しかし、信濃はあと少しで平定の所で、立ちはばかるは名将村上義清(むらかみよしきよ)氏に「上田原の戦い(うえだはらのたたかい)」と二度目の”砥石城崩れ(といしくずれ)”といわれる戦に武田氏は敗退をします。
その後季節は過ぎて敵だった、真田幸隆(さなだゆきたか)氏を山本勘助(やまもとかんすけ)氏の推挙で武田氏側につかせ、小県(ちいさがた)の奪われていた砥石城(といしじょう)を幸隆氏は調略により奪い返し、その後形成は武田軍優勢となって村上軍はあえなく越後に落ちていき、上杉謙信氏へ援軍を求めにいくこととなりました。
このことが川中島で5度に及び武田軍と上杉軍の長い歴史に残る戦のきっかけとなるとは、両者とも予想だにしていないことだったでしょう。
川中島の戦いの勝敗は?川中島の戦いでの一騎打ち!川中島の合戦の戦いの場所と激しい攻防
いよいよ越後の龍こと長尾景虎(ながおかげとら:のち上杉謙信)氏が出てくることになり、川中島での戦が避けられなくなります。
1553年いよいよ信濃へ領土を増やしに攻め入る晴信氏に対して、義を重んじ、他国に攻め入る者を死守せんと立つ景虎氏が、川中島で武田軍と対峙したのが、長野県千曲市八幡森下の辺りだったと伝わります。
しかしこの一戦では武田晴信氏は前には出ず、塩田城あたりに布陣して動きませんでした。
手をこまねく村上義清氏の援護に義の戦をする長尾軍は、武田晴信氏が出てこないことに戦が進まず、9月には一時兵を引き京へ武田討伐の大義名分を受けに上洛をしました。
次に1555年に信濃善光寺が武田氏に庇護(ひご)を受けることとなったことが、第2次川中島合戦の発端といわれます。
信濃善光寺を取り戻さんとする長尾景虎氏は、兵をだすこととなり、犀川(さいがわ)で対峙し小競り合い程度でこの戦においては、動いた方が負けの意が働いて、200日に及ぶにらみ合いが続いたとされています。
主だった動きがなく兵糧に苦労する武田軍は、塩が不足する事態が起こり、兵を引くかこのままにらみ合うかが焦点になります。
しかしその情報を得ると義を重んじる景虎氏は、武田軍へ塩を届けさせたと伝わり、これがことわざともなる”敵に塩を送る”という武士道なる景虎氏の義でした。
第2次川中島のにらみ合いは、駿河国の今川義元(いまがわよしもと)氏の仲介で終結を迎え、両者撤兵をさせた。
この後この長いにらみ合いの戦から越後に戻ると、長尾家臣からの不満が多々あり、寝返りや領土のことでの内輪もめが起こり、それに嫌気がさした長尾景虎氏は、高野山(こうやさん)に出奔(しゅっぽん)する騒動があった。
これは家臣団の釈明と忠誠を誓う血判状をだし、景虎氏は出家には及ばず大将として越後へ戻りました。
その間にも武田氏側は手を緩めず、真田幸隆氏と小山田虎満(おやまだとらみつ)氏を動かし、景虎側の大事な領地の東条氏が護る尼厳城(あまかざりじょう)を攻め落とし、さらに調略をのばし長尾家重臣の大熊朝秀(おおくまともひで)氏を寝返らせ、反乱を起こさせます。
そして武田軍は、1557年に信濃にさらに入り込み、現在の信州善光寺の付近で第3次川中島合戦が起こりますが、ここでも大きな衝突はなく上野原の戦いも小競り合い後に足利義輝(あしかがよしてる)公の仲介で修まりました。
その後両者は、陣を払い国に引き上げていきました。
川中島の戦いの戦場地となる信州善光寺観光
”牛にひかれて善光寺参り”といわれる信州善光寺は、毎年たくさんの観光客とお参りに来られる人々でにぎわう観光名所です。
本堂が国宝とされているほか、三門や銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほかが重要文化財に指定される古刹で、創建約1400年という日本最古の寺院です。
2023年4月に触れると病気が治るとして親しまれている「びんずる尊者像」が日中堂々と盗まれた事件が起きたことが耳新しい事件ですが、あまりにたくさんの人が行き交うので、どさくさに紛れたお騒がせでしたね。
戦国時代にも仏像を持ち出すことがありましたが、、、。
川中島合戦の長尾景虎軍の戦火で、善光寺の仏像などが焼け落ちてしまう恐れがあると、武田晴信氏の口実で善光寺如来や寺の住職らを甲斐へ連れて行ったとされます。
そのあとに晴信氏により信州以外に甲斐善光寺が建立されています。
また、善光寺如来は武田氏が滅ぼされるとその織田信長(おだのぶなが)氏の手にわたり、その後豊臣秀吉(とよとみひでよし)氏から徳川家康(とくがわいえやす)氏の時に元の場所が良いとのことで、約40年ぶりに信州善光寺に戻られたといわれています。
他のことはブログで題材にしたいので、その時にお伝えします。
信州善光寺へのもとより駅は長野電鉄長野線の善光寺下駅から徒歩約5分です。
長野県長野市大字長野元善町491
川中島の戦いの勝敗は?川中島の戦いでの一騎打ち!第4次川中島の激戦の八幡原と妻女山
川中島の戦いの勝敗は?川中島の戦いでの一騎打ち!八幡原の激戦
そしてとうとう第4次川中島合戦が起こり八幡原では死闘の激戦となりました。
お互いのプライドをかけた今度こそ逃げの一手はない、力攻めでのぶつかり合うと、両者決めていたようでした。
関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)氏より上杉を継ぎ、上洛も果たし名実ともに関東管領を受継ぎ、名を長尾景虎より名を「上杉政虎(うえすぎまさとら)」と改名した謙信氏は、1561年8月に武田軍討伐に動きました。
その連絡を受けた武田信玄(たけだしんげん)氏(出家して晴信から改名)は、川中島の八幡原(はちまんぱら)へ向かうと、上杉軍は背後を突かれる恐れのある「妻女山(さいじょざん)」にあえて陣を置きます。
逆に政虎氏の狙いは、今回こそ信玄氏を戦に引き込むための捨て身の策だったといわれます。
ここで、軍備により軍師山本勘助氏の進言で見解されていた武田軍は、啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)にて全2万の兵から先方の12000の兵を上杉軍のいる妻女山へ向かわせ、キツツキのように後ろから突きながら相手を山から引きずり降ろす先方です。
そして下山してきた上杉軍を残りの8000の兵で、武田軍がはさみうちで待ちうける戦略をしました。
しかし、しかしながら政虎氏も妻女山より下の状況が見えていたのでした。
米をたくさん炊き、戦支度(いくさじたく)をする武田軍の様を読み、ひそかに丑の刻(うしのこく)より妻女山の篝火(かがりび)や旗をそのまま残して軍をゆっくりと下山させて、八幡原へ進行します。
川中島の戦いの勝敗は?川中島の戦いでの一騎打ち!啄木鳥戦法
川中島の戦いにて”鞭声粛粛と夜河を過る”(べんせいしゅくしゅくとよるかわをわたる)という書き置きが残されています。
明け方その日は霧がたちこめて、上杉軍の進行も見えないお膳立てが出来ていました。
そして戌の刻(いぬのこく)に八幡原の武田軍が陣を張る前で、霧がゆっくり晴れていきました。
そこには鶴翼(かくよく)の陣で攻めの体勢で進む上杉軍が、信玄氏にもはっきりと見えたのではないでしょうか。
また妻女山では、啄木鳥戦法をした武田軍12000の兵は、裏をかかれてもちろんいまだ下山できなく、武田信玄氏と軍師の山本勘助氏がいた8000の兵で、上杉軍を正面より迎えなくてはなりません。
陣衛が乱れた武田軍は、劣勢に立たされながらも上杉軍に応戦します。
ここで、川中島合戦伝説で上杉政虎氏は、手薄になった武田本陣に一人切り込み、それを座したまま信玄氏は軍配で、政虎氏の三太刀七太刀を受け止めたとされています。
この激戦を敷いた八幡原で、上杉軍約3000人、武田軍は重臣の弟武田信繫(たけだのぶしげ)氏やその家臣諸角虎定(もろずみとらさだ)氏に初鹿野忠次(はじかのただつぐ)氏それと山本勘助氏たちが討ち死にしてしまいました。
約4000人の武田軍の兵が討ち死にし、総勢約7000人とも8000人ともいわれる死亡者が出た歴史に残る大激戦場となりました。
ここでもこれだけ屍(かばね)を出しながらも勝敗はつかなかったのでした。
これぞまさしく”夏草や兵(つわ)ものどもが夢の跡”でした。
そして、武田信玄上杉謙信の最後の第5次川中島の戦いといわれます「塩崎の対陣」は、お互い対峙したままで、2か月にわたるにらみ合いの末、10月に雪の季節を迎える前に陣を退いていったといわれています。
川中島の戦いの勝敗は?川中島の戦いでの一騎打ち!川中島古戦場史跡公園
この川中島古戦場史跡公園は、大激戦となった第4次川中島合戦で武田軍が本陣を構えた場所と伝わります。
川中島合戦を物語る”武田信玄・上杉謙信 一騎討像”が1969年度NHK大河ドラマ「天と地と」の放送の際、このブロンズ像は整備されています。
三太刀七太刀跡の石碑も伝承に寄り今の場所に移されています。
史跡公園内には首塚も祀れ戦のすさまじさの傷跡を残しています。
しかしそんな戦国の戦を感じられないほどの穏やかな時が今は流れ、ドッグランコーナーや長野市立博物館が設備され、古代から近代までの地域の歴史を知れる施設があり、川中島合戦の歴史も知ることが出来ます。
千曲川を越えて、古戦場史跡公園から東側に今は、NHK大河ドラマ「風林火山」放送もあり整備と看板もなされてわかりやすいですが、山本勘助之墓もひっそりあります。
さらに時間があれば古戦場史跡公園から1kmほど離れた千曲川方面には、桜の季節にはいい、典厩寺(てんきゅうじ)があり信玄弟の武田信繁氏之墓と真田信繁(さなだのぶしげ:幸村)供養塔もひっそりとありますので、お参りしてください。
長野県長野市小島田町 1384-1
川中島へアクセス
公共交通機関(電車)
マイカー
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
川中島の戦いの勝敗は?川中島の戦いでの一騎打ち!あとがき
ここに川中島で5回もの戦があって、武田氏も上杉氏もそのプライドを持って死闘した激戦地であったと思いをはせる場所となっていました。
今は本当に穏やかな時が流れ、そんな歴史があったことはまるでなかったこと、、。
とならないよう地域活動の方の努力で史跡や、施設を設備して頂き、歴史が語り継がれていくようされていることに感謝をすることと共に、その繰り返してはいけない歴史を今後も伝えていってほしいと思います。
今回も最後まで私のブログにおつきあいして頂き、ありがとうございます。
今後もいろいろな歴史のブログを語っていきますので、これからもお立会いよろしくお願いします。
川中島でランチ おまけ
川中島合戦ゆかりの地を散策していれば、お昼ともなるとお腹は空きますので、そんな時には立ち寄りましょう。
川中島でランチ 手打そば処横綱
看板と同じの横綱そばは、1日限定30食の普通の盛そばの2.5倍の量をおひとり様で食べるのが、ここの店のしきたり。(食べきれない~)
開店11時前から並んでおかないと直ぐ完売する名物そばです。
他にも本わさびそばは、安曇野(あずみの)産地のわさびの香りがよく、そばとつゆに相性が良くつるつるとのど越しが良くここで食べるそばが一番と思う一品です。
てんぷらも衣がさくさくで歯ごたえもよく、信玄氏と謙信氏もここで食べれば戦を忘れ、うまさに唸ったことでしょう、、、。
営業時間:11:00~15:00(水曜定休)
☎0262834527
長野県長野市小島田町1384
川中島でランチ 食堂の龍虎
川中島古戦場史跡公園内にあるもうひとつのお店の食堂の龍虎です。
名前が意気ですね、越後の龍と甲斐の虎が激突した場所にちなんでるんですね。
メニューはざるにてんぷら、月見、とろろ、山菜のそばかうどんなど定番がありますが、手造りおやき(ニラ、キャベツ、あんこ、ナス、野沢菜、しめじ入り切り干し大根)はお茶と食べるのがいいですわ。
散策帰りにちょっと食べてから帰ろう、という気になる一品です。
営業時間:8:00~
☎0262849400
長野県長野市小島田町1423
川中島でランチ パティスリーモン・シェリ
可愛らしいプリンやゼリーの形をこらした洋菓子が置いてあります。
ショーケースに並ぶ色とりどりのケーキに、どれを買って帰るか迷うでしょう。
現在自粛のため、イートインコーナーはCLOSE中です。
ぜひコロナが治まったら、コーヒータイムを店内でしたいなあ。
誕生会やお祝い用デコレーションケーキも承りありの、木目の温かみのある外装が目印の店舗です。
駐車場店が店前にあり 10:00~19:00営業(月、火曜日定休)
☎0262859720
長野県長野市神明10
コメント