長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?織田信長の鉄砲での戦法が光ったという場所へ行く

ランチ、グルメ、食べ歩き
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中学校の時に歴史の教科書で習ったことのある”長篠の戦い(ながしののたたかい)”とは、織田信長(おだのぶなが)軍が、それまであまり活用されていなかった種子島(ここでは火縄銃のこと:いわゆる鉄砲)を使った戦ということです。

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防御の柵を巡らせて名門の甲斐武田軍が誇る、泣く子も黙る騎馬部隊を打ち破り武田軍を滅ぼしましたこと。

こうして織田信長氏が天下統一にまた一歩近づき、安土桃山時代の文化を広げ、それを受け継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし)氏により戦国時代から安土桃山時代の文化に変わっていった事が記載されていたことを記憶しています。

しかしその長篠の戦いとはいつどこでどのように起こったのか?

その織田信長軍と甲斐武田氏の誰と誰が戦ったのかは、あまり本当の歴史を考えずに過ぎていったように思います。

ここの長篠の戦いについて深堀していく内容で記していきます。

また今回も、近隣のランチや食べ歩きの参考にして頂くコーナーもありますので、最後までお立合いをお願いします。

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?織田信長の鉄砲での戦法が光ったという場所とは

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?兵どもが夢の跡の古戦場とは

さて早速ですが長篠合戦とは、織田信長・徳川家康(とくがわいえやす)連合軍VS武田勝頼(たけだかつより)軍が愛知県新城市竹広辺りで対峙した古戦場です。

かつての戦国時代は、京を制する者が天下を成すようでしたが、織田信長氏は足利義昭(あしかがよしあき)氏を京にお連れし、天守様(現在の天皇陛下)に謁見(えっけん)し、足利第15代将軍に押し上げる役目を成すことにより天下が少し近づきました。

しかしその後に信長包囲網が敷かれ、石山本願寺の顕如(けんにょ)と三好三人衆が信長軍討伐に動き、さらに浅井・朝倉軍もこれに乗じ比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と競合し、信長軍は四面楚歌(しめんそか)の状況まで追いつめられるところもありました。

こちらの叡山攻めを起した織田信長氏のことや、比叡山延暦寺の散策コースなどのブログも投稿していますので、興味がありましたら後で↓

比叡山延暦寺の観光はどのくらいの時間がかかるのか検証!織田信長に焼き討ちにあった戦国期の歴史も巡ろう
比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)は、戦国時期にあの織田信長(おだのぶなが)軍勢に攻め入られたことで有名な寺院ですが、どこに築かれていたのかご存じですか?そして誰がこの有名で広大な寺院を造り上げていったのでしょうか?この古代に礎(いしず...

しかし強運の織田信長氏は足利義昭将軍の執り成しにより難を逃れ、石山本願寺や比叡山延暦寺も和議が成立して、包囲網は解かれていきます。

安泰となっていく織田軍と引き換えに、その後徐々に足利義昭将軍と織田信長氏との考え方の亀裂が生じ、敵対していくこととなり足利義昭将軍の書状で、京を目指して動いた武田信玄(たけだしんげん)軍の進撃が知れると、織田軍勢も絶体絶命の窮地に立たされました。

当時織田信長氏は、長島,越中,越前一向一揆衆の平定に追われており、武田信玄軍の三方ヶ原まで進軍を許す土壇場に立たされますが、徳川軍への援軍が送れない状況でいました。

そこに甲斐から京を目指す街道には、徳川家康氏の護る居城の浜松城がありました。

武田軍は全く攻めずに素通りされたことで徳川家康氏のプライドが爆発したことで勃発した、三方ヶ原合戦(みかたがはらのかっせん)では、徳川軍が武田軍の騎馬隊に惨敗するという歴史が有名ですね。

その後岐阜城の織田信長氏も手をこまねいてもいられず、京を捕られてはならないと戦になるのは必須でした。

ここで織田信長軍が武田信玄軍と戦となれば、仲たがいもあった足利義昭将軍も肩入れされるはずでしたので部も悪いところでしたが、病に侵されていた武田信玄氏は上洛途中で崩御(ほうぎょ)してしまいました。

そこで武田軍勢は京で待ちかねている足利義昭将軍に謁見叶わず、武田勝頼(たけだかつより)氏のもとで甲斐へ引き返していくことになります。

またしてもここで織田信長氏は窮地を逃れました。

かくして目の上の瘤(こぶ)が無くなった織田信長氏は、こと切れとなっていた浅井長政(あざいながまさ)氏の居城の小谷城攻めを始めます。

そこに朝倉義景(あさくらよしかげ)軍が援軍にでますが、それも返り討ちにし、越前の一乗谷を焼き払い、ここに朝倉軍も寄せ付けませんでした。

ようやく天下布武(てんかふぶ)の基盤づくりが出来つつある織田信長勢力は、武田信玄氏の跡を継いだ武田勝頼氏の甲斐武田攻めに目を向けていくことになります。

しかし武田勝頼軍は、それに対するかのように東美濃の攻略に先に出ていき、次々と苗木城や岩村城や明智城など、織田信長氏の息のかかった城を落としていく破竹の勢いをしていきます。

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ですが、戦続きの武田勝頼氏を離反という者たちも多々でていき、寝返りの者たちを討伐に動いた標的が、奥平定昌(おくだいらさだまさ)氏が護る長篠城があり、1575年5月ここを武田軍の約1万5000の兵で500人たらずの兵の長篠城を囲みました。

これが長篠・設楽ヶ原戦(ながしの・しだらがはらのたたかい)へ繋がっていく序章になっていきます。

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?長篠城と鳥居強右衛門とは

難攻不落の奥三河長篠城は、豊川から分かれる寒狭川(かんさがわ)と宇連川(うれんがわ)に挟まれた断崖絶壁に造られた天然の要害の城で、武田勝頼軍に囲まれながらも奥平軍はなかなか落ちつにいました。

しかし兵糧も尽き始めており、籠城で長篠城を護る兵らも困窮(こんきゅう)していました。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、そこで活躍した鳥居強右衛門(とりいすねえもん)氏の行動が、赤裸々に描かれておりました。

長篠城に籠る皆からは、「どうせこのままどこかに逃げるだけじゃ!」とあざけられます。

しかし強右衛門氏は奥三河長篠城の不浄門より決死の覚悟で、川を泳ぎ徳川軍に援軍の要請に岡崎城へ勇敢に向かったのでありました。

運よく敵の砦(とりで)をかいくぐり、徳川氏の岡崎城に約60kmの道を走って辿り着いた、徳川氏に長篠城からの使者で援軍の要請を願い奉った。

そこから武田討伐で流れよく岡崎城に織田軍勢の援軍が到着したといわれています。

その数約3万とも4万ともいわれる大軍勢でした。

ここで急ぎ長篠城の皆に援軍が来ることを伝えに、鳥居強右衛門氏は城に向かい走り戻りましたが、武田軍の囲いを突破しきれずに捕えられてしまいます。

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そこで武田勝頼氏に川の崖向こうより、「徳川氏の援軍は来ないと城の者たちに伝えよ」、と金銭と召し抱えなどの調略をしてこられます。

そのことには強右衛門氏もひとりの人間ですから、言わなければ戦国の世ですから殺されるのみで、迷いに迷った試案に自らを犠牲にして、「徳川の援軍は必ず来るから、それまで持ちこたえよ!」と叫んだのです。

そのことで長篠城に籠城する兵たちの士気は高まりが、強右衛門氏は武田軍により禁固されます。

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その後鳥居強右衛門氏は、ふんどし一丁で磔(はりつけ)にされ、槍で刺されて命を落としていきました。

強右衛門氏の死を無駄にしてはいけないと長篠城に籠城する兵たちは奮起しました。

そんな身を犠牲にして、長篠城の行く末を護った鳥居強右衛門氏のゆかりの磔跡石碑や鳥居強右衛門ノ墓が史跡としてひっそりと残されています。

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?織田信長の鉄砲での戦法とは

こうして岡崎城より徳川氏約8000の兵と、援軍として駆け付けた織田信長軍の大軍は、長篠城に直接向かえば敵の武田軍に背後を捕られること必須とし、長篠城手前の連吾川沿いの設楽原(したらがはら)に陣を構えました。

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そこには馬防柵(ばぼうさく)といわれる、一人一人の兵に丸太を持たせて移動をし、簡素だが木柵を約2kmに防御をしました。

それは一部2重3重に木柵を設けて、武田軍の騎馬隊を真っ向から迎え撃つ戦略でした。

そこにさらにの手前は土を堀って土塁と溝を造り備えました。

ここで、徳川家康氏重臣の酒井忠次(さかいただつぐ)氏が奇策を申し出て、約2000の兵と金森長近(かなもりながちか)の約500の兵で、籠城を続ける長篠城を囲う武田軍に決死の夜戦奇襲を仕掛けます。

そこは敵の目をくらませるため、わざわざ遠回りの豊川を渡り尾根伝いを進み、鳶ヶ巣山砦をまず奇襲をかけ、砦を落とし、その他の砦も奇襲で全て落としました。

これが”後ろに目を持つ酒井忠次”と称される由縁でございます。

ここで武田勝頼氏は兵を退くこと望まず、皆の者、武功を挙げよ!と兵を奮い立たせ、織田信長軍の待つ設楽原の砦へ対峙していきます。

かくしていよいよ織田・徳川軍約4万と武田勝頼軍約1万5000の激突と相成ったのでした。

力で押そうとする武田軍に対し、馬防柵と堀と土塁で備えた織田軍は、さらに鉄砲隊を前に配置させ、敵の動きを見定めます。

先手で動く武田軍騎馬隊を容赦なく織田軍が備えた、鉄砲約3000丁の火縄銃の玉が襲います。

いわゆる3段撃ちといわれる3列に並んだ鉄砲隊が、前列ごとに火縄を撃ち、次の2列目がさらに次の武田軍に火縄を放つ。

玉を撃った兵は後方の列目へ並び直し、火薬と弾を込めて次に備えるという、未だ戦にこういった戦略をされていなかった、新しい戦術を取り入れたのが織田軍でした。

この鉄砲を上手く取り入れた織田軍が、ほとんど被害が無く、一方武田軍は戦死者が約1万人に及んだといわれます。

そこには武田方武将の赤備えで有名な山縣昌景(やまがたまさかげ)氏や馬場信春(ばばのぶはる)氏、内藤昌秀(ないとうまさひで)氏、原正胤(はらまさたね)氏に真田信綱(さなだのぶつな)氏など、蒼々たる名門武田武将が散っていきました。

その後武田勝頼氏率いる武田氏は、衰退化をしていき、長篠・設楽原の戦い後の7年後に織田軍の武田勝頼討伐軍にて、甲斐国(かいのくに)の田野(天目山)にて裏切りにも合い、数人の共と北条夫人らとその地で自刃して果てます。

名実ともにここに名門武田氏は、終焉をむかえていくのでありました。

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?長篠城址・長篠・設楽原の戦い決戦場跡

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?長篠城址へ行こう

飯田線の長篠城駅から約10分ほどの徒歩で、搦手門(からめてもん)跡の長篠城址は見えてきます。

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先ほどご案内した鳥居強右衛門の磔絵図が看板にあり、そこに日本百名城の長篠城址が出ています。

現在はここで戦があったことが嘘のように静寂を装った見事な城跡ととして、よく整備がいき届いた城跡公園として見学ができます。

豊川から分断する寒狭川と宇連川に囲まれた、断崖絶壁築かれた要害堅固(ようがいけんこ)な城跡が、土塁や堀の城跡ですが、深い堀跡に屈曲させた横谷掛かりという堀も見ることで、土の城の迫力を感じてもらえるのでは!

建物は復元はされていないので、駄々広い本丸跡がありますが、ここに簡素な櫓が設けられて、台所場や塀が造られたところに、少数の約500人足らずの奥平定昌氏らや兵たちが籠城して頑張っていた残り香を感じられるのではないでしょうか。

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そして牛渕橋(長篠城址ビュースポット)からほどなく歩いたところに、鳥居強右衛門磔跡石碑があってここで無残にも散った一人の足軽がいたことを感じられるんではないかと思います~

お城に興味がない方にはただの大広場で、天気のいい日にピクニックに来た若いカップルには、バトミントンやフリスビーなどするのにいい場所だったりします⁉

飯田線により城郭が分断されていますが、物見櫓があった所に踏切があり、これはこれで現在に残る城跡の隠し味にも感じられていい感じです。

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ぜひ興味がある方は、長篠城址史跡保存館にも立ち寄って、歴史の舞台にもなったこの地の出来事をこの史料館で、見ていってもらえたらと思います。

長篠城址史跡保存館

営業時間:9:00~17:00(火曜定休)

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?長篠の戦い古戦場

ここの長篠城址よりも、歴史の教科書で習った私たちは、織田信長軍が大量の鉄砲を使って武田勝頼軍と大戦をしたことが記憶にあると思います。

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そうした長篠の戦いで備えられた馬防柵や堀と土塁が復元されて、史跡として語り継がれるよう残されています。

現在の愛知県新城市には、長篠・設楽原の戦いを歴史として伝えていくべくその馬防柵が約100mを復元されており、史跡として後世へ語り継がれております。

長篠・設楽原の戦い決戦場跡や茶臼山におかれた織田信長戦地本陣跡に、野辺神社におかれた織田信忠(おだのぶただ)本陣地、そして武田勝頼観戦地などが今もしっかり管理されています。

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さらに戦時のことを「いろは」かるたに因んだ句が紹介されているのも、見て周る時のポイントともされています。

さらには歴史を訪ねるにあたっては、多くの兵どもの夢の跡となっており、山縣三郎兵昌景之碑や内藤修理亮昌豊(昌秀)公之墓、馬場美濃守信房の墓、真田一族之墓など周囲に散らばった形で残されています。

また今は周辺は整備されて、生々しさはありませんが”首洗池”として、長篠の戦で戦死した者の血を洗った池とされた名が残されています。

1日かけてゆっくり長篠の戦いの地をめぐるのもまた一項では。

設楽原歴史資料館もあり、当時の戦の歴史を深堀していくのもいいと思いますよ。

営業時間:9:00~17:00(火曜定休)

☎0536220673

〒441-1305 愛知県新城市竹広 字信玄原552

長篠の戦い周辺で食べ歩きのランチ

長篠の戦い周辺で食べ歩きのランチ

 

 

長篠の戦い周辺で食べ歩きのランチ

 

 

長篠の戦い周辺で食べ歩きのランチ

 

 

長篠の戦い周辺で食べ歩きのランチ

 

 

長篠の戦い周辺で食べ歩きのランチ

 

 

長篠の戦い周辺で食べ歩きのランチ

 

長篠の戦いの地へアクセス

長篠の戦いの地へアクセス 電車,バス

〇JR静岡駅~JR豊橋駅(東海道新幹線 こだま新大阪行)

〇豊橋駅~三河東郷駅(飯田線)

〇能登瀬新城線県道439号線~信号川路光正寺右へ~そのまま道なりに進めば設楽原古戦場へ到着(徒歩約20分)

長篠の戦いの地へアクセス マイカー

〇静岡駅より国道1号線(東海道)を浜松町側へ向かう~広幡I.C右折~藤枝岡部ICより名古屋方面へ(新東名高速道路)~藤枝PA~助宗トンネル~新瀬戸川橋~寺島トンネル~大草トンネル~尾川第一トンネル~尾川第二トンネル~矢倉山トンネル~伊太谷川橋~新大井川橋~栗ヶ岳トンネル~遠州森町PA~豊岡高架橋~新天竜川橋~浜北高架橋~浜松SA~三岳山トンネル~引佐トンネル~浜松いなさJCT~黄柳川橋~鳳来トンネル~乗本トンネル~新城IC下車~信号新城インターを国道151号線に左折~設楽原歴史資料館南交差点を右折~程なく到着(約93km)

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長篠の戦いの地周辺の駐車場

〇長篠城址保存館駐車場(普通車50台 大型車2台)

営業時間:9:00~17:00(無料)

☎0536320162

住所:〒441-1634 愛知県新城市長篠矢貝津1−10

〇設楽原歴史資料館 駐車場(普通車50台 大型車2台)

営業時間:9:00~17:00(無料)

☎0536220673

住所:〒441-1305 新城市竹広字信玄原552

長篠の戦いとはいつどこで?誰と誰が戦ったのか?あとがき

長篠城址がいい形で遺構が残っていて、広いところに長篠の戦いで起こった兵どもが夢の跡の残るこの地は、戦国ロマンの満載な場所ですね。

城跡に武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍との戦のあった戦場というところは、歴史好きにはたまらない場所ですよね。

ぜひ一泊二日かけての戦場巡りして頂き、中学校の教科書で学べなかった広い部分まで見ておきたいところです。

個人的に戦争反対派ですが、歴史に残るこの場所には廻る所わくわくどきどきが止まらない私でした。

では今回も最後までお立合い頂きましてありがとうございました。

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