2011.3.11は忘れることの出来ない「東北大震災」が起こってしまった時でした。
その頃横浜のマンションに定住していましたが、会社が休みで自宅で家族も出ていたので、一人ごろごろとテレビを見ていると大きな揺れがきました。
いつものことだから少し待てば揺れもおさまるだろう、と思っていた矢先そのまま大きな揺れに2段階で変わり、さすがにベランダ側の窓ガラスが割れてくるのではとあわてて玄関を開けて路頭に迷いながら、ベランダの窓を全開にしてバルコニーから外を揺れがおさまらないのか見ました。
そこを幼稚園生がお母さん方と「こわいよ~」と大声で速足に通り過ぎていくのを見たことが、今も記憶に残っています。
それから津波が気になっていると、各テレビ放送がすべて地震情報に変り、東北地方が震源地でさらにその後、津波の状況にさらされることとなって呆然としたことを覚えています。
その震災半年経ったころに95歳で亡くなった叔母の3回忌にあたっていたので、東北復興の気持ちも含めて仙台にある叔母の先祖代々のお墓に行き、祈祷も済ませた後、母親方の親戚の家へ1日泊りの帰りがけに白石城跡を見学しました。
帰りに白石駅で昼飯を食べた後、近くのお土産屋で片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)のハンカチを買ったときに、仙台白石市は伊達政宗(だてまさむね)氏だけではなくその家臣たちに支えられた地だったと感じたんですが、その白石城のことを伝えたいと思います。
最後まで私のブログにお立ち寄りしていって下さい。
片倉小十郎が務めた白石城にアクセス!片倉小十郎景綱が城主を務めた白石城
片倉小十郎が務めた白石城にアクセス!白石城の始まりは鎌倉時代
詳しい資料はなく、平安時代にこの地を配置していた藤原氏が源義家(みなもとのよしいえ)氏の奥州征伐に同行して住居を築いていたと伝わります。
その後鎌倉時代に苅田と名乗り、源頼朝(みなもとのよりとも)公に奥州討伐で功をたて城石を名乗るようになるとここに居城を築いていったのが白石城の始まりといわれています。
その後戦国時代には、伊達家の配下となりますが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)公の奥州仕置で伊達政宗氏の領地だった白石城は没収となり、蒲生氏郷(がもううじさと)氏の配とされました。
蒲生氏郷氏の頃に今に見られる本丸や二の丸、三の丸と築かれ縄張りが出来上がったとされる。
その後蒲生氏が宇都宮に移転されると上杉景勝(うえすぎかげかつ)氏の配置となり、重臣の甘粕清長(あまかすかげつぐ)氏が入城しましたが、関ヶ原の戦いで奥州の守りについていた伊達政宗軍勢に攻略され、伊達氏の所領となっていったといわれます。
そして、ようやく白石城は伊達政宗氏の御意見番で、片腕片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)氏が白石城主となります。
片倉小十郎が務めた白石城にアクセス!白石城に残るキツネ伝説
片倉小十郎景綱氏が城主になると、城内に見かけぬ女性が現れるようになったり、人魂が丑三つ時に浮遊したりと城には民が近づかなくなる始末。
従士する者たちからも恐れられていたある日、白石城のひとりの下女が突然もののけに取りつかれたようになり、話を始めたという。
「私は古くからここに住む狐である。前の城主は狐を大事にしてくれ、上杉氏は守り神として大切にしてくれた。
今度の城主は狐をいじめ大事にしない。これ以上非道を続けるならば覚悟をしろ。
しかし心改めて私を大事にするのならば、この城は平和になるであろう」と。
ここで小十郎氏は城の小高い丘にお宮を造らせ祀ったというもの。
片倉小十郎が務めた白石城にアクセス!片倉小十郎景綱が城主の白石城は白石市のシンボル
片倉小十郎景綱が育んだ都の白石市
白石市の駅周辺は、私が小学2年生の頃来た40年前と変わらずに田畑が耕かされた農地が続いてました。
白石駅付近は仙台駅とは真逆に静かな田舎という場所で、JR白石駅は東北の駅100選になっています。
国道4号線と東北自動車道が近くを通り、交通に便利となった位置に城下町の面影が残る白石城は、白石市のシンボルとなっています。
白石城は片倉小十郎景綱氏より鬼の小十郎といわれた嫡男の片倉小十郎重綱(かたくらこじゅうろうしげつな)氏へ受け継がれていきました。
そのまま一国一城制の対象外となり、明治維新まで片倉氏代々の城で続きますが、明治7年に民間へ売却され、残念ながら廃止条例により天守などは取り壊しとなってしまいました。
現在残る天守三階櫓や二の門、塀などは、1995年に木造復元されたものになります。
震災後半年過ぎた頃の白石城に見学しに行った時は、天守閣の漆喰壁が一部ひびが入って落ちている所も見られ、大きい地震の爪痕がまだ残っていたころでした。
その時印象的だったのが、白石城天守を案内で勤務するガイドさんが話していた、”仙台、福島は東北震災で大きな被害にあいましたが、きっとこれに負けずに白石城も来年か再来年になるかもしれませんが、必ず復興させていきます”
と力強く話していて、逆に元気をもらったことを今も覚えています。
白石城歴史探訪ミュージアム
私らが白石城址に行った時には、武家屋敷跡の見学はしましたが、あれから”歴史探訪ミュージアム”なるものが出展されたとは、いやはや何とも。
この白石城歴史探訪ミュージアムは、観光名所にもなる白石城の歴史を伝える場所ともなります。
1Fはおもにおみやげの売店・レストランがあります。
売店では、白石城オリジナルの小十郎グッズや戦国BASARA商品、白石うーめんなどが扱えております。
レストランでは、生うーめんや地元の白みそを使用した小十郎みそラーメンがあります。
そのほかソフトクリームは、人気の生イチゴソフトや季節限定桃と紅茶のミックスももちゃソフトがあります。
無料駐車場が完備され、車いすの方でもスムースに観覧できるようバリアフリーの対応がなされております。
また拝観には料金がかかり、白石城・ミュージアム・武家屋敷の共通券が大人800円、小人400円(未就学児童無料)で見学時間は9:00~16:00、11月~3月は9:00~16:00と異なります。
ぜひ、お越しの際はお立ち寄りすることをお勧めします。
伊達政宗の誠の片腕 片倉小十郎景綱の儀
NHK大河ドラマの「独眼竜政宗」で放映されたおり出演されていて、残念ながらお亡くなりになった、西郷輝彦さんが演じた片倉小十郎景綱氏は適役だったと思われてなりません。
幼少の頃の梵天丸(ぼんてんまるのちの伊達政宗氏)の盛役として、正宗氏の父伊達輝宗(だててるむね)氏に笛の音色が澄んでいて、その奏でた音色によって見初められた武将の一人でした。
先見の眼を持っていた輝宗氏は嫡男梵天丸の盛り付け役に若い小十郎をつけ、剣術や馬廻りなどを任せました。
ある日疱瘡(ほうそう)で、片目を失った梵天丸の目は膿んで腫れあがった目玉を、くりぬくよう輝宗氏の命を臆することなくやってのけた小十郎氏であり、奥州征伐の蘆名氏攻めで負け戦となり小十郎氏が、主君に切られる覚悟で諫めるシーンが印象的でした。
怒りに任せ総攻めの陣ぶれと、無理押しをしようとはやる政宗氏の前に胡坐(あぐら)をかいて阻む小十郎氏はこう言います。
「お気に召さずばこの場で小十郎をご成敗くださいませ。ただしこれだけは申し上げまする。戦には駆け引きがござる。押すべきは押し、引くべきは引くが義の当然。精算もなく猪突猛進するは是、匹夫の勇にあらずして何ぞや‼」
と一喝します。
これには渋々政宗氏も不服は当然ながら、兵を引いたと演じられてました。
その後奥州仕置きで小田原討伐に遅れて参陣した際に、政宗氏に付き人で同行した小十郎氏は打ち首覚悟で太閤秀吉公に家来になるよう命を下されるも、「生涯奉公するは、ここにおわす伊達政宗公と決めております」と真直ぐな気持ちで言い放つ。
ドラマもそうですが戦国の世でもその様な展開があったのと思います。
ここに伊達な男ありと、憧れる私ですが心より西郷輝彦さんのご冥福をお祈りいたします。
あとがき
白石市は私にとっても第2の故郷です。
白石市は私の父親の生まれ故郷でして、今も思い出される小学2年生の時でした。
夏休みに親父が4人家族みなで、1週間白石の田舎にお泊りで遊びに行った時、庭の池で採ったおたまじゃくしやヤモリにゲンゴロウ、めだか、ザリガニ。
そして2つ上のお兄ちゃんにとんぼの捕り方を教わったあの夏、何もかも懐かしくこの瞼をとじれば想い出されます。
なんか井上陽水さんの「少年時代」が聴こえてきます。
♪夏まつり 宵かがり 胸のたかなりにあわせて 八月は夢花火 私の心は夏模様
また、多分伊達氏に奉公していた”遠藤氏”は私の祖先だと思い、誇りに思う今日この頃です。
その中にあの片倉小十郎景綱氏は確かに存在していたんだと。
そして最後に東北がんばれ!
他に伊達政宗氏ゆかりの仙台城のブログも投稿していますので、よろしかったらこちらのリンクから読んでください。
おまけ
白石市は蔵王温泉スキー場にも近いスキーヤーの宝庫です。
@その白石駅そばにある「小十郎プラザ」でお土産をぜひ、鬼の小十郎の旗は今も店に掲げてあるのかなあ。
白石市沢目64-1
@ずんだ餅で有名な仙台の三色だんごは買いたくなくても見れば買いたくなる「つつみ屋 白石店」の三色だんごを。
白石市市田町1-2-30
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