約400年前の戦国の世においての日ノ本(ひのもと)は、戦、戦に明け暮れていました。
その戦国時代を関ヶ原合戦において、ついに日ノ本を統一し江戸幕府を現在の中心地になる江戸(今の東京)におこし、天下泰平(てんかたいへい)を担った徳川家康(とくがわいえやす)公が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の権威をもって、天下普請(てんかぶしん)の城を築かせた、「名古屋城」が名古屋駅の中心部にそびえ立っています。
しかし2023年の昨今は、「せっかく名古屋城を観光しに来たのに城のシンボル天守に入れないの~!」と残念がりながら、名古屋城を後にしていった人も少なくないと思われます。
ですが、すでに名古屋城が生まれ変わる、大きなプロジェクトが動き始めているのです。
そこに注目していきたいと思っています。
ぜひ最後までこのブログにお立ち寄りよろしくお願いします。
- 名古屋城の天守閣に入れない?いつまで入れないの?せっかくきたのにこれからどうする、どうなる名古屋城天守?
- 名古屋城天守閣に入れない?いつまで入れない?名古屋城天守閣の木造復元計画とは?
- 名古屋城天守閣に入れない?木造復元に向けての軌跡は
- 名古屋城天守閣に入れない?名古屋城天守の木造復元計画においての問題点、現存石垣の保存について、そして安全性
- 名古屋城天守閣に入れない?名古屋城天守の木造復元計画の2つめに高齢者や障害者に対する配慮にバリアフリー対応
- 名古屋城天守閣に入れない?いつまで入れない?現名古屋天守閣の入場が禁止の中で明るい材料
- 名古屋城天守閣に入れない?名古屋城の簡単な歴史解説
- 名古屋城の天守閣に入れない現状においての追加ニュース!
- 名古屋城へアクセス
- 名古屋城周辺の駐車場
- 名古屋城天守閣に入れない?いつから入れる? あとがき
- 名古屋城天守閣に入れない? 食べ歩きおまけ
名古屋城の天守閣に入れない?いつまで入れないの?せっかくきたのにこれからどうする、どうなる名古屋城天守?
せっかくの名古屋城観光に来たなら、名古屋のシンボルの名古屋城天守を外からだけではなく中を拝観して、天守の展望台から名古屋市街を眺めたいと思うのが人の常だと思います。
でも2024年の今、名古屋城に来て天守閣に入れない?なぜ?せっかく来たのにどうする?いつから入れるのかと疑問が問われる方がおられるかと思います。
ご存知のように昭和初期まで現存していた名古屋天守や小天守でした。
1945(昭和20)年の戦争で、本当に残念にも焼け落ちてしまった名古屋城でしたが、名古屋市民の強い熱意とひたむきな活動により、今の名古屋城天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート造で忠実に外装復元がされています。
しかし、その戦後の昭和に復元された鉄骨鉄筋コンクリート造天守も、経年劣化による老朽と耐震性に問題がみられ、名古屋市は2018年の5月をもって天守の入場禁止とされて、今は入館不可となっています。
その後数々の討論が浮上して、2023年には復元完了をかかげていましたが、復元するための資金の事、それと有識者懇談会の進行で伸びてしまってます。
もしやこのまま頓挫(とんざ)してしまうのか?どう進行されているのかを視ていきます。
名古屋城天守閣に入れない?いつまで入れない?名古屋城天守閣の木造復元計画とは?
現在鉄骨鉄筋コンクリート構造で昭和34年に復元された名古屋城天守は、老朽化による経年劣化の耐震性に問題がでており、歴史博物館となっている天守内の見学は、2018年の5月から入場は不可とされています。
これも安全上の名古屋市の決定で、今後天守の解体作業が進められ、約10年後に500億の予算運営によって、江戸時代に築城された天下普請(てんかぶしん)の城の名古屋城が、木造建築にて忠実に復元される運びとなります。
この忠実に復元が可能とはなぜかというとこうなります。
- 江戸時代にも名古屋城は天災や震災により幾度も修繕、修復工事が繰り返してきたことを事細かく記され、編集された名古屋城の百科事典「金城温古録(きんじょうおんころく)」が明治35年に全10編64巻が完成し、残されていたもの。
- また、昭和7年から国宝建造物の細部の計測や拓本作成を行われ、大天守、小天守の外部図面や内部構造図が昭和実測図として残されたもの。
- さらに、空襲で天守が焼け落ちてしまう前の昭和15,16年に撮影されたガラス乾板写真(かんばんしゃしん)は、700枚以上現存し、その中で大天守、小天守を写したものが70枚以上存在していたことによります。
これらのことにより、現在の木造建築の技術を屈しすれたる竹中工務店が元締めとなり耐震構造を取り入れた建築がなされて「名古屋城木造復元プロジェクト」は進行されていくのです。
このことは、お城ファンにとって大変にうれしい取り組みで、主催者の方々は本当に大変なことと思いますが、現在現存されている天守閣のあるお城は12棟といわれています。
他に天守が復元された城跡もいくつかあります。
しかし資料が乏しく、背に腹は代えられないのか、あるいは町おこしの意味で、疑似天守で再建された城公園の天守や、天守閣が無かった城跡なのに天守建造が設けられた城跡公園も現にあります。
確かに町おこしに御殿様が昔にいて、ここにお城がありましたとすれば観光に役立つ事は否定しません。
しかしこれだと間違った認識で、歴史に深く入っていった後にがっかりする人もいるのと、また間違った認識で天守閣があった城と解釈してしまう方もおられるかと私は思ってます。
このことは私もこの年になり、ようやくその背景が見えてきて、複雑な気持ちがある一人であります。
では、本題の名古屋城の天守閣に入れない?なぜ?いつになったら入れるのでしょうか。
名古屋城天守閣に入れない?木造復元に向けての軌跡は
一言で名古屋城天守の復元は、木造復元での決行されることを知って、城ファンの方は私も含めて非常にうれしく感じ、なぜもっと早く進められなかったのか、と思ったのではないでしょうか。
実際に今の建設建築技術を屈指すれば、経年老朽化などは調査で調べることはそう難しくはない時代です。
話しを戻しますと、2010年に名古屋城天守の老朽化による耐震性の問題は、すでに指摘されていました。
そして2023年も在任中で名古屋市長を務める河村たかし市長は、2013年度に名古屋城天守を木造で再建する案を披露しています。
しかし、ここで問題の木造復元するにあたる予算想定が500億円という壁がありました。
これには、反対意見も多く議案は難色を強めました。
河村市長の復元にあたる意見案は市長の強い意志もあり、まずは100億円の全国市民による募金活動から始められました。
その後鉄骨鉄筋コンクリート構造の耐震補強だと、およそ30~50億円で済むところを木造復元で耐震性をしっかりした天守復元には、試算が約500億かかるところが2017年に争点となりました。
ここでは、河村たかし氏の考案が名古屋市長選挙の当選で、市民に受け入れられたことを示されました。
そして名古屋城天守閣の木造復元に向けて、2018年5月のゴールデンウイーク明けで、天守拝観入場を禁止としました。
この時点では、2022年12月の完成予定とされていました。
しかしまたここで、大きく2つの問題点が新たに建設をめぐり出てきました。
名古屋城天守閣に入れない?名古屋城天守の木造復元計画においての問題点、現存石垣の保存について、そして安全性
江戸時代から残っている石垣を有識者は、歴史的価値が高く調査と保護を重視する声が上がってきたのに対して名古屋市は、早く着手したい意向で有識者との話し合いも不充分のまま計画案を文化庁に提出しました。
しかし石垣は大切な史蹟となり、保存調査するには一つ一つの石垣の形や状態を検証し、補強を兼ねて再度石垣を積み直していくことは、非常に労力と、時間や費用が掛かるということです。
石垣は当時の約400年もの前から現存し、当時の時代の名のある武将らが手掛けた、大事な日本の史跡になるからです。
これはいろいろな日本の城に着手する、城郭考古学者の千田嘉博(せんだよしひろ)さんもそう話しています。
ここにはもう一つの問題も絡み、「安全性」の問題もありました。
建築基準法では、木造建築物は震度7程度の地震にも倒壊しない、破壊しない建物であることが義務付けらています。
名古屋城の天守閣に入れない?いつまで?このことをふまえての討議がさらに必要となっています。
名古屋城天守閣に入れない?名古屋城天守の木造復元計画の2つめに高齢者や障害者に対する配慮にバリアフリー対応
そしてエレベーター設置問題が浮上し、障害者に対しての受け入れがないことが指摘を受け、建設認可が下りない事態となります。
このエレベーターに変りうる解決案として、次のことが計画案に出されています。
名古屋市が計画している名古屋城天守閣の木造復元で、同市が小型の垂直昇降設備「電動かご」を各階に配置し、乗り換えながら昇る新技術の採用を検討していることが分かった。
通常のエレベーターを設置するのと違い、築城当時を再現した柱や梁(はり)は損なわずに済むといい、歴史的建造物の復元とバリアフリー化を両立する取り組みとして期待される。
2022,12,4 読売新聞記事より
これにより2023年4月現在において、名古屋城木造復元の工事については、現在のコンクリート造の天守閣を解体して、江戸時代の往時の名古屋城の大小天守閣を、忠実に木造天守の建造するのに約6年半を要すると想定されています。
その完成時期はおよその最短で2032年度になる見通しだそうです。
現在は文化庁の有識者会議「復元検討委員会」の工事に向けての審議がかけられていることで、2年ほどかかると想定されています。
2023年3月25日では、名古屋市による有識者会議にて、計画の全体像を示した整備基本計画がとりまとめられました。
しかし石垣の保存方法の意見がまとまらず、さらにもう一つのバリアフリー対応については、2023年の6月の市民討論会において、参加者の発言がヒートアップしてしまう場面があり、言論の自由を通り越して差別化発言の問題に発展してしまい、後日名古屋市側が障害者団体に対して陳謝し、お詫びをする一幕もありました。
このことで、バリアフリー対応による障害者の方たちへの問題発言の対応が優先となり、この以降も議論をしていく方針ということです。
こういう討論会というものは、皆さん真剣な気持ちで参加されてきてるゆえに、熱くなってしまうのも判らなくはないですが、自分の意見で相手を抑え込む話し合いの場ではなく、意見を出し合う場としての討論進行をしていってほしいですね。
しかし急がば回れといいますので、ぜひ歴史的建造物をいい形で未来に残していって頂きたいと私も考えています。
名古屋城天守閣に入れない?いつまで入れない?現名古屋天守閣の入場が禁止の中で明るい材料
名古屋城の本丸御殿の復元工事が完成して、2018年より公開中
すでに名古屋城に観光に訪れた方や情報番組を見られ、見たり聴いた方は御存じでしょう。
新たなる展開で約10年間の復元計画から、無事工事計画が進行したこともあり2009年に「名古屋城本丸御殿」の復元工事が着手され、現在その忠実に再現された豪華絢爛(けんらんごうか)なお殿様の御殿屋敷を3期に渡り整備されて工事が進行していきました。
そして2018年(平成30)の「上洛殿(じょうらくでん)」の完成をもって全面公開されています。
総事業費に約150億円(うち市民などからの寄付金50億円含む)かかったといわれる大プロジェクトでした。
きしくも1945年の空襲前に先人たちが残した古写真や、戦災を免れた障壁画に先にも載せた昭和実測図など、豊富なまでに復元にあたる資料が残されていたのが幸いに、忠実に戦災前の本丸御殿の復元がなされています。
今や江戸時代初期に城や城下町の建設で大量に木材が切り取られ、森林資源が減ってしまう事態になります。
そこで尾張徳川家で山留を行い、さらにヒノキやサワラにアスナロ、コウヤマキ、ネズコの木曽五木の伐採を禁止する条例を出すことになります。
当時、ヒノキ1本が首一つとまで厳しく取り締まれたと伝わります。
そのおかげか丈夫な木曽ひのきが、名古屋城本丸御殿に使用されていることはいうまでもありません。
そして本丸御殿は、日本を代表する書院造の建造物で、総面積3100㎡、13棟の建物、30を超える部屋からなります。
先ずは本丸御殿の玄関先には入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺きの屋根で敷かれた、唐破風(からはふ)の丸みを帯びた屋根造りになっています。
入ると一室に金箔がほどこされた虎の絵図で、待合室のような間だったといわれてます場所が目に入ってきます。
ここでまず待たされる大名は、灯りもロウソクしかない灯に映るこの虎の絵図で、面会者は委縮されたと伝わります。
襖には「竹林豹虎図(ちくりんひょうこず)」が飾られていて、そこは”虎之間”とも呼ばれていたようです。
その中で、「表書院・上段之間」は他の部屋よりも1段床が高い造りにされていて、金箔がこれでもかと豪華に張られた床の間の壁に描かれた松の木は、徳川将軍の権威を現しています。
天井も高く格子がなされた入母屋造りで廻り縁も太く、その格式の高さがうかがえます。
上段之間の襖を開くとその「対面所」には、京都や和歌山の四季の風物や名所、風俗がおだやかな筆致で描かれています。
そして、こちらもまた黒漆塗(くろしっくい)の天井板に金箔と貼られた、なんとも豪華な折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)も見ておきたい建造のひとつであります。
三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)公が京に向かう途中に、名古屋城に宿泊をします。
それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」です。
これまた忠実な復元には、豪華絢爛な高さのあるきらびやかな彫刻欄間がほどこされ、現在の宮大工の技巧が光ります。
格式のある定款図が描かれた襖絵は当時33歳の加納探幽(かのうたんゆう)氏の描かれた作品が復元されています。
そして、絢爛豪華な彫刻欄間や飾り金具で彩られています。
各室の柱に付けられた釘隠しの帳台構(ちょうだいがまえ)の金具も、それぞれ違う形や模様になっていて、細かな所にも気配りされて造られているところも、見押さえていけたらいいですね。
その他「湯殿書院」は、今でいう釜で湯を沸かして湯気を送り込むサウナ式蒸し風呂で、黒木書院は清州城内にあった家康公の宿を移築して造られた建造と伝わっています。
非常に木の香りがよく、木のぬくもりにも浸りながら風呂を楽しめたのかと思われます。
将軍が風呂上がりに火照った体を癒すかのように、着替えの場には「扇面流図(せんめんながしず)や岩波禽島図(いわなみきんちょうず)」が襖に描かれていて涼やかなる気分を演出されております。
こうした襖絵の水彩画は「山水図」や「梅花雉子木禽図(ばいかきじしょうきんず)」に「四季耕作図」で描かれているところもまた見る価値の楽しみです。
名古屋城以外にも天下普請で築城された城のブログも投稿していますので、良かったら後で読んで下さい。
名古屋城の本丸御殿が忠実に復元できた裏には、陰ながらの先人者たちがいた
この忠実に本丸御殿が木造復元できた事は、詳しくは先にも触れていきますが、先人の方たちの影ながらの行動にありました。
第二次世界大戦が始まってしまい、いづれはこの名古屋城も標的になるだろうと、城内に残る耐火性倉庫二の丸だった、今も現存する西の丸御蔵城宝館に一部の絵図の襖や、欄間など、運べるものは倉庫に移動したのだと。
また詳細図面やガラス乾板写真などがしっかりと残されていたことにあります。
そのような陰ながら名古屋城天守閣の遺品を残そうという行動があったからこそ、本丸御殿の忠実に木造復元が可能となっていった事柄です。
余談ですが、その中残念ながら名古屋城天守の象徴ともいわれる金の鯱は、アメリカ軍の攻撃までに降ろすのが間に合わなかったようでした。
とはいえこの明るいニュースとくみ取っていただき、名古屋城天守は入城できなくも、本丸御殿が忠実に再現されて今拝観できることを楽しんでほしいとぜひ思います。
名古屋城天守閣に入れない?名古屋城の簡単な歴史解説
そもそもご存じの方も多いと思いますが、1612年に徳川家康公の天下普請をもって、将軍徳川家康公の命で各大名にお金をださせ築城された名古屋城でした。
ここには各大名に資金を出させて力を抑える意味も含まれており、交通の要所となる地に城を築かせ、豊臣秀頼(とよとみひでより)氏やお茶茶(ちゃちゃ)殿が居城を構えていた大阪城包囲網の基盤にしていきます。
名古屋城築城にあたり石垣の組み立てには、加藤清正(かとうきよまさ)氏や福島正則(ふくしままさのり)氏に黒田長政(くろだながまさ)氏、前田利光(まえだとしみつ)【のち利常(としつね)】氏、細川忠興(ほそかわただおき)氏など蒼々たる名のある戦国大名が着手していました。
その名古屋城天守の連結式層塔型5層5階地下1階の天守や小天守は、明治維新後に解体されることなく現存されていました。
その江戸時代初期に築城された、名古屋城の天守はこれまで何度も修繕を繰り返されてきたことでしたが、現存天守が残っており、国宝第1号として名古屋城天守は選ばれていました。
しかし本当に悔やまれることに、昭和戦前まで現存していた、大小天守や本丸御殿に東北隅櫓や正門などは、1945(昭和20)年の名古屋大空襲により焼け落ちてしまいました。
痛ましい戦争の傷跡は、残酷にも日本人の名古屋城以外も価値ある財産を焼き尽くしました。
当時の名古屋市民の方たちは、戦争被害と二重に名古屋城消失に悲観に暮れたのではと思います。
その後名古屋住民の悲願は叶い、名古屋周辺の商店街やたくさんの努力によって募金も集まり、昭和34年に名古屋城大小天守は、鉄骨鉄筋コンクリート造で忠実に外観復元されました。
屋根瓦の上には、名古屋城天守閣を象徴する金の鯱(しゃちほこ)もしっかり飾られ、天守閣は歴史的資料館として内部を拝観することが出来るに至りました。
名古屋市に再び火の光が灯った歴史の瞬間でした。
名古屋城の天守閣に入れない現状においての追加ニュース!
東海NEWSで明らかになった、2018年度より耐震性の問題により、入場が禁止された名古屋城天守に明るい情報です。
閉鎖が長引き、木造復元の予定通り進まない昨今ですが、名古屋市は安全上問題がない場所に限っては公開できないものか、現在の名古屋城大天守の一般公開を検討されています。
具体的な提示は、大きな地震時においてもすぐ逃げれる大天守の1階部分や、平成に増設された外付けのエレベーターが入る建物の公開をするというものです。
エレベーターから入る位置からは、本丸御殿の屋根や天守の現存の石垣を見学できるということです。
また、最上階の窓ガラスを江戸時代の創建当時のように、敵の侵入を防ぐための小さい窓の大きさだったことから、20カ所の窓に半分白いパネルを窓に取り付けて、外から見る天守の楽しみを設けてあります。
さらに名古屋市は大天守の1階で、木造復元に向けた機運を高めるための展示も検討しておるようです。
このことで、木造天守閣の再建に一歩づつでも取り進んでくれたらいいですね。
名古屋城へアクセス
公共交通機関(電車,バス)東京駅~名古屋城へアクセス
・JR東京駅~JR名古屋駅(東海道新幹線):約1時間35分
・地下鉄名城線の「名古屋城駅」の(7番出口(金シャチ横丁 宗春ゾーン)がすぐあり。(名古屋市役所駅から名を変更)
・地下鉄鶴舞線の浅間駅か浄心駅から天守へ徒歩
・JR東海道新幹線のJR名古屋駅から徒歩約10分
●交通機関(バス)
・基幹2号系統 「市役所」 下車 徒歩5分
・栄13号系統(栄~安井町西) 「名古屋城正門前」
マイカー 東京駅~名古屋城へアクセス
・丸の内より都道406号線から桜田門をぬけ、霞が関より首都高速都心環状線へ入る~霞が関料金所(首都高速道路)~谷町JCTを渋谷方面へ~大橋JCT~用賀料金所~東名川崎IC(東名高速道路)~横浜青葉JCT~港北PA~海老名JCT~伊勢原JCT~中井PA~川音川橋~鮎沢PA~足柄SA~御殿場JCTから新東名高速道路へ
・御殿場JCT(新東名高速道路)~今里トンネル~千福トンネル~桃園トンネル~富沢トンネル~駿河湾沼津SA~沼津トンネル~富士宮トンネル~明星山トンネル~新富士川橋~富士川トンネル~清水PA~小河内トンネル~清地トンネル~和田島トンネル~新清水JCT~伊佐布トンネル~北沼上トンネル~新安倍川橋~内牧トンネル~新間第一トンネル~新間第二トンネル~谷津トンネル~静岡SA~岡部トンネル~藤枝PA~助宗トンネル~新瀬戸川橋~寺島トンネル~大草トンネル~尾川第一トンネル~尾川第二トンネル~矢倉山トンネル~新大井川橋~栗ヶ岳トンネル~掛川PA~倉真トンネル~西郷トンネル~大和田トンネル~平島トンネル~遠州森町PA~新天竜川橋~浜松SA~三岳山トンネル~引佐トンネル~浜松いなさJCT~鳳来トンネル~乗本トンネル~長篠設楽原PA~本宮山トンネル~観音山トンネル~額堂山トンネル~額田トンネル~生平トンネル~秦梨トンネル~岩中岩戸トンネル~岡崎SA~豊田アローズブリッジ~伊勢湾岸自動車道~豊田東JCT~刈谷PA~名古屋南JCT~左方向へ:東海料金所~名古屋高速4号東海線へ
・東海新宝料金所~名古屋高速4号東海線~天白川~六番北料金所~山王料金所~山王JCT~名古屋高速都心環状線~新洲崎JCT~明道町JCT~丸の内料金所で名古屋高速都心環状線をでる。
・名古屋高速都心環状線の丸の内ICから、大津橋信号を左折し大津通りにはいって名古屋市役所へ向かう方向で到着(約5時間30分)
*お出かけの際、ETCカードの差し忘れがないことをご確認ください
名古屋城周辺の駐車場
今回も渋滞なども考慮すると、電車やバスの利用をおすすめしますが、駐車場はこちらになります。
・名城公園正門前駐車場(308台スペース):30分/180円
愛知県名古屋市中区三の丸1-1
・二の丸東駐車場(123台スペース):30分/180円
愛知県名古屋市中区二の丸1−1
・愛知県庁西庁舎の駐車場(土日、祝日なら無料開放:8時から18時まで)
愛知県名古屋市中区二の丸1 椿園
名古屋城天守閣に入れない?いつから入れる? あとがき
この名古屋城木造復元プロジェクトをブログにしたのが遅いですが、2018年に後から耳にして、期待と逆に無理なんじゃないかと、ふと他人事のように考えていた時期がありました。
ですが、ここまでくると夢ではなく名古屋市民と市長に頑張ってもらい、ぜひこの名古屋城木造復元プロジェクトを成就させて頂き、まだ長生きをしていたら、ぜひぜひ木造復元された名古屋城天守を拝観しに行きたいと楽しみに思っています。
その時は、1700年代の江戸時代を再現した、一部黒い屋根瓦と銅板を採用される屋根もしっかり見たいと楽しみにしています。
では期待と希望を胸に今回も最後まで私のブログにお立ち寄りして頂いてありがとうございました。
名古屋城天守閣に入れない? 食べ歩きおまけ
名古屋城内においては、2018年より、金シャチ横丁直義ゾーン(正門側)と宗春ゾーン(東門側)にてそれぞれの和食や洋食に中華、甘味処、ラーメン店などのお食事にご利用ができる店が、10店舗以上出店されてにぎわっています。
ぜひ名古屋城へ行かれた際は、ご利用されてみてください。
*名古屋城の食べ歩きブログを私事ですが作成しております。
現在グーグルアドセンスがまだ取得できておらず、他のリンクをまだ張ることができませんので、よろしかったらosirogadaisuki.com/のを見ていただけたらうれしいです。
https://osirogadaisuki.com/nagoyacyaslemeijyoukouennkannkou-2599
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